貴方は本当に
緑の湖面に浮かぶ水鳥の、膨らんだ胸の毛。
例えるなら私の夜に感じる趣はそれに似ている。
私の夜は私という個から拡散されてんでばらばらになる。
美しいものを求める幽霊に私はなる。
感覚が無駄に鋭敏に研ぎ澄まされ、眠気を遠ざける。
この世に細かな粒々が散らばっているのを、鈍麻した頭で俯瞰する。
水流、水流、奔流が私に押し寄せる。押し流す。
それに抗する術はなく、従うより他ない。
記憶の泡沫は容赦ない。
遠い日の彼女の、白い首筋にかかる後れ毛が不意に明瞭に思い出される。
その唇が動く。椿の花弁のような色をしていた。
貴方は本当に、と。
その続きを待つがいっかな、響いてこない。
椿の花弁は閉ざされ続くはずであった言葉は永遠に融けた。
宙へ。彼女の胸の内へ。また、私の心の傍らに。
閉ざされた椿の花弁は、もう何十年と経つのに私の中で彩り鮮やかだ。
私は皺の刻まれた両腕を、彼女の言葉の続きを待つように広げてみる。
寂寞。
やるかたなく腕を下ろす。
これで良かったのかと幾本もの道が問いかける。
私は俯き答える。
良かったのだ。これより他にはなかった。
私の生の白いラインは時に蛇行しながらもほぼ直線を描いた。
余り大きく逸れることはなかった。
しかし。
貴方は本当に、と。
その続きが告げられていたら、或いは嘆じられながら。
全く異なる生を歩んでいたかもしれない。
紫紺の闇に思う。
閉ざされた椿の花弁の向こう側を。
貴方は本当に。