004
決意した瞬間の不意の出来事に、機先を制された気分だった。
目の前に現れたそれは、アメリカの西部劇に出てくるような、メキシコ風のバーのような外観だった。
ただ、外観は木製のそれなのだが、扉は洋風の扉であり、それが白い大地の上に佇んでいるものだから違和感が凄い。なんというアンバランス。というかカオス。
「……誰か人はいるかなぁ」
そのバーの中に人がいる可能性が脳裏に浮かび、歩き出す。
また変な扉を開けるのは正直嫌なんだけれど、ほかの場所を虱潰しに探すのも大変そうだ。
また落ちることにならないよう(前回は背中を押されたので大丈夫だとは思うけれど)にゆっくりとそのバーのような建物に近づき、静かな動作で扉に手をかける。
ドアノブを回すと簡単に開き、警戒しながらもそっと扉を押す。
中は――大丈夫。普通に、外観通りのバーのようだ。とはいえ未成年のため本物のバーを知らないのだが、カウンターと、そこに並べられている椅子、奥の棚に飾りのように置かれているお酒の数々。いくつかカウンター以外の席も設けられている。どうやら普通の――
と、思考した所で。
音が、消えた。
バァンっ!! という轟音の後に。
「……!? !?」
声にならない叫び。
いきなりの状況に混乱する思考の中でわかったことは、これは銃声だということだ。映画とかでも聞いたことがある。
だが問題は、これが現実だということだ。
僕の右耳を掠めたように感じた。
痛みはない。ただ風でそう感じただけかもしれない。
けれど、そんなことは関係なく。
僕の体は震え、自然と足元に視線は落ちる。
撃たれた。銃で。なんで、どうして?
怖い。
そんな、あからさまな恐怖が目の前にあることが、現実にあることが、堪らなく怖い……!
目の前にある恐怖の象徴を、直視できない……!
胸が苦しい。心臓が異常に波打つのがわかる。
「ねえ君。誰の許可を得て、その扉を開けたのかな?」
気さくな声だった。
声の主は、銃を片手に笑みを浮かべているに違いない。
銃を操る人間がそんな仕草をしていることが、逆に怖かった。
というか、許可が必要なのか? この店は。そんなこと聞いてないぞ! と、心の中で叫びながらも、実際には音ひとつ発せない情けない僕だったのだが、
「……ん? あれ、も、もしかして普通の人間?」
唐突に、その声に困惑の色が見えた。
「あー……やばいなぁ。どうみても真人間だよ。生きてるよ。どうしようかなぁ……ねえ、君、ごめんね、大丈夫?」
顔を俯けているためにその声の主の顔色は伺えないが、もしかして罪悪感を抱いているのだろうか……?
例えそうでも顔を上げることは、怖すぎるので出来ないけど。
というか無理です。ちびりそうです。
「やっぱ怖がらせちゃったんだなぁ。仕方ない」
そう言いながら、声の主はがたっという音をたてた。これは……席を立った!? ま、まさか、近づいてきているのか!?
き、来ている。足音が、木製の床を踏みしめながら近づいてくる! 怖っ! 殺人者に追い詰められる婦女子のようだ! 切り裂きジャックに狙われた人の気持ちがわかると今なら断言出来る!
言動からは敵意や悪意を感じとれないのだが、この動揺は仕方がないのだ。だって体が恐怖を覚えているのだもの……。
童謡を聴きたい。
ゆっくりと心を落ち着かせてほしい。
しかし――そんな僕の思いも何処かに、その発砲した人物の手が肩に置かれた。
「ひぃっ!」
「ああいや、ほんとにごめん。誤解だったんだよ。安心して。大丈夫、僕は君に危害は加えないよ」
「え……、ほ、本当ですか?」
「うん。だからさ、ほら、顔上げておくれよ」
「……」
胸のドキドキ(ラブコメ的な意味では断じてない)を抱えながら、それでもその優しい声色と言葉を信じて、床しか見ていなかった視線を上げた。
――輝く金色の髪をした、碧眼の小柄な青年がそこにいた。
「え……」
なんというか、拍子抜けだった。僕の勝手なイメージとして、その声の主はハリウッド映画に出てくる黒人でスキンヘッドのような厳つい容姿かと思っていたのだが、そんなイメージとは真逆だった。
むしろ爽やかな印象を当てる柔和な笑みと、落ち着いた物腰に静けさを感じさせる青い瞳は、僕に安心感を与えてくれた。
彼は片手に持つ全方位につばのある、西部劇のガンマンが被るようなハットを持ち(カウボーイハットというのだろうか?)、それを胸に当て頭を下げた。服装も西部劇のようなウエスタンシャツにジーンズ、そしてアメリカン風なジャケットに踵の高いブーツ。時代が違う人間のようにも、サバゲーのプレイヤーにも見えた。
ただ……腰に巻いたベルトから垂れるホルスターがなければ、本当に安心出来るのになぁ……。
拳銃だよ。リボルバー。きっと本物だよ。怖いなぁ。
しかし、目の前で頭を上げ、安心させるようににこりと笑顔を見せてくれる彼には、もうそれほど恐怖心を抱いてはいない。
まあ、武器っていうのは使う人間が良いか悪いかだし、それほど怖がる必要もないかな……?
「良かった……大丈夫そうだ。顔に色も戻ってきたしね」
彼は安心したように息を吐く。
ああ、僕は随分と顔を青くしていたようだ。その証拠に、緊張と恐怖で強張っていた体が緩み、血が回ってきたような感覚がする。
そして彼は僕のそんな状態を心配してくれていたらしい。第一印象は最悪気味だったが、徐々にそのイメージも良くなってきた。
「はい、大丈夫です。すいません、ありがとうございます」
「いやいや、驚かせたのは僕の方だしね、座りなよ。見た所お酒はダメそうだけど、ジュースくらいなら奢るからさ」
そう言う彼に連れられ、カウンターの席に着く。座った瞬間にすっと緊張の糸が切れ、ふうーと長い息を吐いた。
まだ少し緊張していたようだが、もう大丈夫。
そして彼も、僕の隣に座る。手に持っていたハットはテーブルの上の邪魔にならない所に置いていた。
「マスター、何か飲み物でも。コーヒーとジュース、どっちがいい?」
「えっと……その、いいんですか? そんな」
「いいからいいから、で、どっちがいい?」
「じゃあ……ジュースで」
「マスター、ジュースよろしく!」
手を口に当て大きな声で注文する彼。どうやら酒の並んでいる棚の裏の奥の調理場? のような空間に繋がっているようで、オーケー、という声が返ってきた。
「よろしく! ……さて、じゃあ改めて、さっきは悪かった。つい、またよくないものが来たものかと警戒してしまってね。先制させてもらったんだけど、振り向き様だったから相手をよく確認できなくて」
「確認せずに撃ったんですか!?」
「いやぁ、外す自信はあったからね」
威嚇射撃だったし、と彼は続けた。
その話を聞く限り、彼は相当な銃の名手と見受けられる。この現代日本には随分不釣合いだ。まあそもそも、金髪といい碧眼といい、どうみても日本人には見えないけど。
「さて、じゃあそうだね、自己紹介でもしようか。僕の名は……うん、マッカーティ・ジュニアっていうんだ」
「ま、まっかー……?」
「ジュニアでいいよ」
「あ、はい。ジュニアさん」
「はは、敬語じゃなくてもいいんだよ? 僕はあまり気にしないし、ジュニアで」
「ああ、では、ジュニアと」
これで日本人ではないことが確定したな。日本だと息子に同名をつけることができないから、ジュニアというのは基本的に英語圏の人のはずだ。それに敬語が必要ない文化なのかもしれないし。
しかし、ふーむ、ま、ま、まっかーなんとか……なんか聞いたことがあるな……。
「マッサーカー?」
「マッカーサーだね」
やばい、凄く恥ずかしい!
人の名前を間違えた上に、その間違えた人名すら間違えているなんて!
マッカーサーなんて確かに間違えやすい名前のGHQの人で、日本でのイメージは悪い人も多いかもしれないが、実は天皇への敬意もちゃんと持っていた良い人だと知っていたのに!
「まあしかし、あれだね、もしかして君は、巷に言うボケ役かな?」
「その扱いには断固拒否させていただきたい!」
いきなり何を言い出すんだこの人はっ!
というか今この通りつっこみを入れているじゃないか!
「はは、ごめんね」
「まったく」
「元気になったようで何より」
「え、あ、うん」
……あれ、もしかしてジュニアは、僕の警戒とかを解くために、こんなやり取りをしたのだろうか。
意外と気の回る人なのかもしれない。
「しかしあれだね、君はどうしてこんな所に? お酒を飲めるような年でもないと、こういうところはつまらないと思うよ」
ジュニアはカウンターのテーブルに置かれていたグラスを真上から掴み、中の氷を揺らす。カラン、と気持ちの良い音が鳴る。
「いや、なんというか、扉を開けて、白いとこ? を落ちてきて、目が覚めたら目の前にこの店があって……っていう感じでさ。自分でもよくわかってないんだ」
「ふうん。迷子ってわけだね」
「まあ、そうなるね」
「つまり幼稚園児だね」
「高校生だよ!」
「高いレベルの小学校の生徒?」
「言葉通りに受け取ろうよ!?」
「言葉通り文字通り」
「くっ……日本語って難しい!」
簡単なんだろうけど。
というか、なんだこれ。とても楽しくお喋りしてるけれど、こんなことをしている場合ではないのでは?
例えば雫のこととか。
「あの、聞きたいことがあるんだけど」
「ん? ああ、まあ待って、マスターが来たから」
「え」
彼はカウンターの奥を指差して、僕の視線は自然とそちらに誘導される。その奥の棚の裏から、マスターと呼ばれる男性がその手にコップを持ちながら現れた。
凄く、渋い人だった。
バーテンダーの制服をきっちりと着ており、ベストもとても似合っている。……なのだが、形容するとすればそう、失礼だけれど、ヤクザのようだった。
オールバックにした髪型と、非常にかっこいいのだが、荒々しさも感じる顎鬚。そしてサングラスを掛けているという、畏怖を感じずにはいられない風貌だった。
というか、スーツだったら完全にヤクザだった。
しかし、その手には氷とオレンジジュースの入った、兎の柄の可愛らしいコップが握られていた。
うーん、何というミスマッチ。
シェイカーを振れば絵になりそうな人なのだが。
「まったく、ジュースなんて長らく出していなかったせいで、奥から引っ張り出してしまいましたよ」
「はは。悪いねマスター」
彼らのやり取りから、まるで常連客への対応のようで、大人の世界になぜか羨望の眼差しを向けてしまうお年頃の僕には、とてもかっこよく見えてしまった。
というか、ヤクザ風のバーテンダーとカウボーイ風の青年って、どんな西部劇だ。
「君は何かいりますか?」
「じゃあ、マスターのおすすめを」
「少しお待ちを。ではええと、そこの君」
「は、はい」
突然こちらに声をかけられ、狼狽してしまう僕。
「こんな所でよければ、ゆっくりしていってください。何か欲しければ、遠慮なく。彼の驕りなのでしょう?」
「勘弁してよ、マスター」
「ふふ、まあいいじゃないですか。しかし、君でもたまにはミスもするんですね」
「まあ、それはそうさ。僕だって完璧じゃないしね。しかし細かいとこまで見てるね、ネタになるかもしれないとはいえ、人間観察が趣味と言ってたし」
笑い合う彼らの、和やかな空気。見た目はかなり怖いものの、優しい雰囲気を持つマスターだった。
彼らの傍らで、オレンジジュースを一口飲む。
「……!」
驚いた。これは、かなり美味しいジュースだった。こんなものなんてとんでもない。甘いものは好きだった僕だが、後味もスッキリしていて、とても飲みやすいジュースだった。
……オレンジジュース一つでこれなら、カクテルやお酒も注文したくなってきてしまった。
二十歳になったら、もう一度来てみようかな?
「さて、じゃあええと、何か聞きたいことがあるんだっけかな?」
僕が残りのジュースを喉を鳴らして飲んでいると、マスターとの談笑を終えたジュニアが話題を元に戻してくれた。
そうだった。雫の居場所とか、ここがどこかとか、聞きたいことは沢山あったのだ。
「えーと、じゃあ、まずは簡単な質問を。ここって、どこなんだ?」
「ふむ、少し説明が難しいなあ」
「?」
顎に手を当て、困ったように苦笑するジュニア。
彼の仕草に首を傾げてしまう僕。
「少し長くなるしねえ、この説明は。ちょっと話を変えようか。ドアを通ってきた――んだっけかな?」
その扉の説明に、ここが関係しているのだろうか――そう考えて、答える。
「扉……うん、ドアだね」
「その周りの風景はどんな感じだったかな?」
「風景……それが説明しづらいんだよなあ」
あえて言うなら、異次元のような空間。
映画やアニメとかで表現されるような、タイムマシンとかで過去に飛ぶときの超空間のようだった。周りの空間が歪んで、不安定な、そんな感じ。
「ふうむ……そうか。合点がいった」
「え?」
何の合点がいったのだろうか。
説明が欲しい。本当に状況が掴めない。
「ふむ。実を言うと、そもそもここは普通の人間が来るような所ではないんだ」
「まあ、そんな気はしたけど」
残りのオレンジジュースを飲みながら、
「じゃあ、ここはどこなんだ?」
と聞く。
彼は朗らかな笑みのまま、
「魂の安寧所」
「え」
「もしくは、死後の興信所」
「そ」
「まさかの、幽霊の溜まり場」
「待って待って!?」
真面目な顔で話すジュニア。その一言一言に青白くなる顔と冷えていく体に耐え切れなくなり、静止を求める。
待ってくれ。つまりどういうことだ。まさか、僕は死んだということか?
それならなんか納得出来る気がする!
凄く高い場所から落ちたような気がするし!
起きた時に真っ白い場所みたいだったし、なんか時代錯誤のこの店にも納得がいく!
まさかここは天国か!?
「そうだ、だって……僕たち以外そもそも客がいないじゃないか!」
「何ですって?」
「どぎょっ!?」
失礼な発言をしたらマスターに瓶で殴られた。
にやりと笑っているのが妙に似合っていた。
ぐぁぁぁぁ……と小動物のように頭を抱えている僕を見て満足したのか、マスターは仕事に戻っていった。
ふう……びっくりした。でも、マスターにぶたれたおかげで冷静さを取り戻すことができた。
「ぷっ」
隣で口を覆って笑いを堪えているジュニアにも。
「…………おいジュニア」
「いやいや、僕の名前はウィリアムさ」
「うるさいこのいたずら小僧!」
「じゃあヘンリーで」
「なんで英国風の名前ばっかり名乗るのお前っ!?」
「くくっ。いや悪い、反応が良くてね~。つい」
あははは、と口を開けて笑うジュニアは本当に楽しそうで、金髪のせいもあって太陽のように笑っていた。
まったく、僕と年もそう変わらないような外見のくせに、いたずら小僧め――と思いかけて。
気付く。
心づく。
感じ――そして少しの後悔。
「…………」
思い出す――彼女の笑顔を。
秋雨雫の笑顔を。
太陽のような笑顔を。
僕を焼き尽くす(・・・・・)笑顔を――思い出した。
「ふふふ……ん?」
沈黙に気付き、怪訝な顔で僕の顔を覗き込む僕。
「どうしたの? ……顔色が悪いようだけど」
「ああ、いや」
精一杯の強がり。
「一緒にいた後輩のことを思い出してさ。心配で」
そして、白々しい嘘。
違う。
僕が思ったのは、そんな感情なんかじゃあない。
あくまで、僕の内部の心の動き。外部の、後輩のことなんかで、僕の心が騒めいたわけではない。
僕にはそれも、腹立たしい。
「ああ、なるほど離れちゃったろうからね。心配だろうに」
「……うん。そうなんだ」
「へえ」
一瞬、違和感を覚えた。ジュニアの呟きに。
彼の表情を見ようとする。けれど、彼はいつの間にかにハットを目深く被っており、表情が伺えない。
目線も、口元も――表情も。
そして――彼の狙いも、わからない。
「そうか。まだ君の別れた人については、言ってなかったね」
「ああ……まあ」
ハットのつばを右手で摘まみ、質問をするジュニア。
僕は彼の視線は未だわからなかったが――口元は、確認することができた。
にやりと笑っているのが、印象的だった。
どういう意味の表情なのかは、わからなかった。
「とりあえず、その――ええと、女の子、男の子、どっちだっけ?」
「ああ、女の子、僕の一つ下だ」
「そうかい。まあでも、大丈夫だと思うよ。彼女が君と同じようにここに来たのなら、いずれ彼女もここに来るだろう」
多少は迷うだろうから、時間はかかるかもだけどね。
ジュニアは余裕のある声色だった。本当に確信があり、だからこそ断言出来るという、ある種の圧力も感じられた。
「いや、でも、少し不安というか」
「ふふ、いや、本当なら、君より速く来てもおかしくなかったんだろうけど――何か寄り道でもしているのかもね」
「?」
何というか、言葉の意味が読み取れない。
きっとジュニアは、このバーのことを僕に出来るだけ知らせたくないのだろう。確かに僕も知りたいとはいえ、そこまで隠すのならまあ、知らなくても良いとは思える。
だが今の発言は、それとは全く無縁な気がする。
何だろう。
この、僕の心を見透かされたような――
「さて」
そう言うと、ジュニアが音を立てずに、すっと立ち上がった。
「その後輩さんとやらが着くまではここにいるといい。でも、そうだね。それまで暇だろう。いいものを見せてあげるよ」
「いいもの?」
「うん」
ジュニアはマスターに、
「マスター。ピアノ借りるね」
と言うと、コップを拭いたりお酒の整理などをしていたマスターが、どうぞ、と答えた。
「ピアノ?」
と首を傾げ、僕は店内を見渡すと――あった。大きなグランドピアノが、客席の奥に荘厳な雰囲気と共に、置かれていた。
でも、あれ? ピアノなんて、さっき入った時にはあったっけか? ただの見落としだろうか。まあ、こんなでかいものなんて動かせないだろうし、最初からそこにあったのだろう。
それに店内を見回すと、意外と物が多く、壁画や絵画、色とりどりの人形、それもピラミッドのような形から中世の鎧騎士のようなものまであり、それが棚に並べられていたり、天井から吊り下げられたりしていた。
よく知らないものばかりなので、言われてもないのに勝手に荘厳で豪華なイメージがついてくる。
しかし、本当に店内を見ていなかったんだな、僕は。
ああ、最初は本当に、銃撃にビビっていたんだな……。
そんな風に店内を見回していると、ピアノの椅子にジュニアが座る所が見えた。ゆっくりと座り、滑らかな動作で鍵盤蓋を上げ、スナップを効かせ、手首を鳴らす。
そして――椅子の横にハットを置き、その表情が明確に見えた。
揺らぎのない、けれど火のような熱さもない、冷たく波紋を広げる波間を思い浮かばせる、静かな表情。
「実は僕は、ピアノは結構得意でね」
「……へえ。ジュニア、結構特技多いんだな」
鍵盤を確かめるように軽やかに叩くジュニア。
「君も、得意なことの一つや二つはあるんじゃないのかい?」
ぽつぽちと、水面を揺らす水滴のような、一定の間隔で鳴らされる音。
「いや、まあ、得意なことね……一応、演技とかあるけど、そんなに得意げに言えるようなことでもないさ」
なんだろう。
彼が親切で僕にピアノを聞かせてくれる――というわけでもなさそうだ。
それならもっと、あの人懐っこい笑顔を見せてくれてもいいはずだ。
けれどの彼の表情は、氷のようにどこまでも冷たい。
むしろ、睨んでいるようにも見えた。
これは、錯覚だろうけど。
「そう」
そうだね。
ジュニアは僕の言葉を噛みしめるように、そう呟いて。
ダーン! と。音が急に重くなった。
「!?」
ピアノの伴奏で、低い音の鍵盤を一斉に叩くと鳴る、あれだ。素人の耳のせいで、それがすごく、暗い音だとしかわからないけど。
「でも、好きと出来るは、違うよね」
「え?」
今――こいつは何と言ったんだ?
僕がそう思うと同時に、ジュニアの曲が始まった。
軽やかに、けれど決して軽々しくはない――重厚で、それでいて芯のある、そんな演奏者がそこにはいた。
「…………クラシック……?」
小声で呟くが、僕には音楽の知識なんてものはない。
ただ、それが暗く、悲しい曲だということだけは、伝わってきた。静かで、けれど苦しくて重々しい……何というか、場には合わない音楽のような気がした。酒場というのは、もっと陽気で、楽しい雰囲気があっているような、そんなイメージがあったのだ。
ふと、思い出したことがある。
こんな風に、僕の知らない曲が流れた時の、あの後輩のことを。
それは部活の友達たちと、その中の一人の家に遊びに行った時のことだ。テレビをつけて適当なバラエティ番組を見ていると、唐突に後輩――雫がはっと目を見開いた。
――この曲、あのアニメのBGMです!
またアニメか、とその時の僕たちは笑いあったが――彼女はこの曲のことは、わかるだろうか?
いや、きっとわからない。彼女だって、何でもかんでも知っているわけではないのだ。
ただ、好きなことだけ。
好きなことだけ、知っている。
「…………………なんだろうな」
今日は、随分と思考がネガティブな方に移りがちだ。
気分を変えたいと、残りのジュースを飲み干そうとコップに手を掛けると、
「ところで」
音が少し、小さくなった。
というよりも、曲調が変わった? いや、これはもう違う曲になっている。
今度はまた先ほどとは違う、重く苦しいものではない。いや、方向性は近いが、だがやはり違う。
今度の曲は、重い雰囲気だが、苦しいのではなく――怖いと言った方が正しいかもしれない。
そんな中で、透き通る彼の声。
「君が悩んでいることは、もう知っているんだ」
少しずつ、音が低く――怖くなっていく。
まるで曲そのものが、逃げ惑う誰かを追いかけているようだ。
おどろおどろしいとはまさにこのこと。
そして、ジュニアの不敵な笑み。
それはまるで、悪魔のようで――魔王のようで。
さっきまでの彼は、どこにいった?
「悩みなんて――そんなもん」
「いいや、実はね、心の風景っていうのは、歪むものなんだ」
「何を」
言っているんだ――と。僕は咄嗟にピアノを演奏しているジュニアの方に振り向いた。
だがその瞬間、僕は気付いてしまった。
彼は鍵盤を叩く手を緩めず、首を振ってそれを僕に見せる。
それは窓だった。
それは外の景色を僕に見せつけていた。
そうだ。
そうだった。
この外の空間は、揺らいでいる。
悩む人間の心のように、風に揺らぎ、流される葉のように――揺らいでいる。
ならば――
「とうちゃーくっす!」
「ああ、お邪魔するぞ!」
「え」
これは僕がその突然の来訪者に驚いたリアクション。
問題は、ピアノを弾いていたジュニアだ。
「なっ」
当然、いきなり来た珍客に驚いたであろう彼は、手を滑らせてピアノを変な風に叩いて。
何とも言い難い奇妙な音が耳を叩いた。
「ぐうっ!」
「おぁっ!?」
「きゃ!?」
「ふおぉぉぉっ!?」
僕にジュニアに二人の来訪者は、その奇怪な音にこちらも奇声を上げてしまった。
ピアノでこんな、リコーダーやハーモニーがごっちゃになったような音が出せるのか。
怪音ここに響く。耳が辛い。痛いではなく。
ただでさえあまり面白い曲を聴いていたわけでもないのに。
そして、二人の来訪者、片方の作業着のようなオーバーオールを着て、鼓膜に響いたのか手荷物を床に落とし未だ耳を塞いでいる外国人の男。そちらではないもう一人は、僕の杞憂もよそに、自らの足で、この場に辿り着いた後輩。
「ぎゃてぇ……なんてこったぁ……バーから音楽がっ!」
「耳を塞いで何空から女の子みたいなこと言っているんだ」
屈みこんでいる雫に僕は再会一番そう言うのであった。