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言い訳のしようはいくらでもあった。その日、エルフレッドは妙な疲労感と戦いながらホーデンハイド公爵邸へと向かっていた。巨龍討伐を終えて初の家庭教師の仕事であった。アードヤード王国の熱帯夜にやられたというのもあったかもしれないーーそれに加えて、エルキドラ討伐の疲れが尾を引いていたのかもしれない。
何にせよ、エルフレッドは普段の彼ならばしないような些細なミスをしてしまったのである。いや、正しく言えば、ミスとしては些細だった。しかし、そのミスは致命的なミスであった。それが運命の歯車を大きく変えてしまうような事態を引き起こすことになったのだ。
「まあ!これをフェルミナにですの⁉︎」
驚きながらも嬉しそうに顔を綻ばせているユエルミーニエに「フェルミナ様との約束の品です」と告げると階段の上で隠れていない尻尾を揺らしながら隠れたつもりになっているフェルミナがパチンコを捨てて飛び出してきた。
「エルフレッド‼︎光る花のら⁉︎」
「そうですよ。フェルミナ様。ユーネ・トレニアという不思議な光を放つ花で御座います。花瓶に生けてもらって後でお部屋に飾りましょう」
「わーい‼︎光る花のら‼︎光る花のら‼︎」
ぴょんぴょんと飛び跳ねて嬉しそうにしている彼女を見ているとエルフレッドは都合をつけてもらえて良かったと感じると共に自身の疲労が癒やされるように感じていた。
その日の授業はいつも通り順調であった。エルフレッドがそのことを残念に思う気持ちがある程にである。学力であれば既にアードヤード王立学園のSクラスに届いている。夏休みの課題として出した内容はほぼ満点だ。
学問における学園きっての天才であろうライジングサンの王女殿下アーニャ様が認めるだけのことはある。IQ230超えとは如何ほどかと思っていたが授業などでの発言を聞いていると数値上の満点と彼女の実際の能力がどれほど掛け離れているのかは明白であった。
「エルフレッド!終わったのら!次の授業をするのら‼︎」
「解りましたフェルミナ様。それでは世界史の授業を致しましょう」
楽しげに授業をこなしていく彼女にエルフレッドは微笑むと次のプリントを取り出した。
世界史は各国の特色や特産品についての授業であった。アードヤード王立学園では外交官育成の授業もあるため特に重要視されるポイントの一つでもある。それもあって熱心に教えていたエルフレッドに対して、いつも通りプリントに取り掛かっていたフェルミナが突然その動きを止めた。
「......畜産?」
エルフレッドはプリントを見て「ああ」と声を挙げた。
「そうですよ。小国家群は島でありながら平原が多く、古来より畜産業が盛んでーー」
「......先生、おかしなことを言いますのね?畜産とは家畜を飼うものですよ?その首輪はなんなのでしょうか?」
「......首輪?」と眉を顰めていたエルフレッドは異変に気付くのに少々時間を有した。普段の彼ならば自分が犯したミスにもう少し早く気づいただろう。いや、そもそも、こんなミスはしない。次点、流暢に喋り始めたフェルミナがどういった状態なのか即座に把握出来たハズだった。
「止めなさい。止めなさい!止めて!私は誇り高きホーデンハイドの娘よ‼︎獣じゃない!違う!違う!あああ、あああ‼︎」
頭を両手で抱えて狂ったように叫び始めた彼女にエルフレッドは驚愕した。どう考えても尋常な状態ではない。
「フェ、フェルミナ様!」
どうしたものかと声を掛けていたエルフレッドはそこで漸く理解した。自分がとんでもないミスをしてしまったことに気づいたのだ。ああ、そうだ。あの画像を見たではないか。首輪をつけられた彼女がどんな目にあっていたのかを思い出した。家畜の真似事を強要され頭を踏みつけられていたそれはーーそもそもなんで授業中に家畜なんて言葉が出たのだろうかを考えれば、それらは一つの線で繋がっていた。
初等部六年次の授業ーーそれが社会科の授業だったのでないか、と。
漸く気づいたエルフレッドはフェルミナを落ち着かせようと肩に触れた。しかし、それさえも悪手であった。
「私に触れるなあああ!!!」
椅子がエルフレッドの顎を打って意識をぐらつかせる。瞳孔が開ききった瞳で牙を剝いたフェルミナが机を何度も叩き潰して木っ端微塵に破壊する。
投げられた椅子がシャンデリアを破壊して壁に突き刺さった。
天蓋付きのベッドのレースが千切れ飛んだ。
引き裂かれた枕からは羽毛が舞った。
「違う‼︎馬鹿にするな‼︎止めろ‼︎触るな‼︎気持ち悪い‼︎悍しい悍しい‼︎あああ!!!うわああ!!!」
発狂したフェルミナはその目に映る何かを振り払うかのように辺りの物を破壊し尽くした。そして、突然その動きを止めると自身をの肩を抱いて糸の切れた人形のように崩れ落ちた。その瞳からは流している意識がないような頬を伝って落ちるだけの冷たい涙が流れて床へと落ちていった。
「ごめんなさい。お母様、私は弱くて、もう耐えられそうにないのです......侍女の皆様にも御迷惑を掛けてしまいました......お姉様は暴れる私が怖いのですね......お父様は姿を見に来ても下さらない......アハ、アハハ、こんな娘はホーデンハイドには相応しくないのですね......ハハハ、ハハハーー」
彼女は笑っていた。流れる涙はそのままに力ない瞳から涙を流してーーまるでそれは壊れてしまった人形のようであった。
「フェルミナ様......」
グラグラと揺れる視界がまともに立つことを許さない。這いつくばりながら体を進めるエルフレッドは自身に対して爪を向けるフェルミナを止めなくてはならないことを悟っていた。このままでは彼女は、その震える鋭い爪で自身の首を掻き切ってしまうだろう。獣人の鋭い爪だ。そうなれば、そこに残るのは彼女の亡骸だけである。
無理やり体を前に進めていたエルフレッドの前で震えるその手が狙いを定めたように止まった。
「フェルミナさー「こんな獣は死んだ方が良いですね」
その一撃は自身の喉を裁くのに相応しい一撃である。つぶりと突き刺さったそれは鮮血を撒き散らして辺りのカーペットを赤に染めていく。だくだくと流れる血の赤がカーペットの柄を塗りつぶしていった。
クラスメイトの声が聞こえた。逃げる私を追い詰めようと追い掛けながら嗤う声がした。男女関係なく嗤う、嗤う、嗤う。
担任の教師がニヤニヤと笑っている。あの男の抱く感情は本当に気持ちが悪くて悍しい。
母の苦しむ顔が見えた。姉の怯える顔が見えた。父は何時も通り私に背中を向けている。
専属の侍女がどうにか表情に出さないようにと頬を引つらせている。周りにいる人々が私を邪魔者扱いしている。ああ、答えは解っていた。クラスメイトがあの忌まわしい担任が言っていたじゃないか。
壊れた家畜・周りを害する家畜は殺処分だ、と。
考えるのが嫌になって答えは解っていも死にたくない私は全てを忘れたくなったんだ。そして、フワフワとした幸せな夢の中を漂っていた。
でも、もう夢は覚めてしまった。もう終わりだ。あの優しく包み込んでくれた麻色も大きな手で優しく撫でてくれたあの白色も、もう消えていったのだ。
何時までも訪れぬ死に違和感を覚えて私は突き刺さった爪を更に深く刺しこんだ。
「ーッ。フェルミナ様‼︎」
男の呻き声がした。不思議と嫌な気持ちにはならなかった。両頬に大きな両手が添えられた。心が温かくなった。目の前に大きな手で優しく撫でてくれたあの白色が浮かんで見えた。
「......エルフレッド?」
その白色はエルフレッドと言った。頭の中に記憶が浮かんでいる。優しくて大きくて呆れたように笑うことはあっても全く怒らない真面目で暖かいーー、それはエルフレッドだ。
「そうです。家庭教師のエルフレッドです。ここに貴女を傷つける人は居ません!貴女は誇り高きホーデンハイド公爵家のご令嬢だ!家畜であろうはずがない‼︎」
「でも、私は獣だから、いらない娘だから処分しないといけないと......」
その気持ちは変わらなかった。優しい彼だからきっと許してしまったのだろうが私は許されないことを繰り返したのだ。家族も侍女も皆傷つけて、病気で大変な大切なお母様の負担になってしまった。きっと誰も許してくれない。
「フェルミナ‼︎」
血相を変えた母親の顔が見えた。慈愛に満ちたーー。しかし、後悔に満ちた悲しげな表情を見て、ああ、あれは周りが嘘を吐いていたのだなぁ......と少し胸が軽くなった気がした。
「混乱もあるでしょうから一度お休み下さい。眠りから覚めた時に家族の愛が貴女を迎え入れて貴女を包んでくれることを私は切に願っております。それではフェルミナ様、良い夢を......」
ネトリと指先の暖かなそれを探った時、一瞬慌てた表情を浮かべたエルフレッドが優しげな笑みでそれを隠しながら告げた。同時に流れてきた暖かな風が優しく意識を奪っていった。でも、私は微睡む中で気づいてしまったのだ。私のその手が突き刺さっている場所は自身の首ではなくエルフレッドの肩でーー。




