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「メルトニア......さん?」
視界がグラグラと揺れる。優しく微笑む顔がまるで遠退いていくかのようだった。名前を呼ばないと直ぐに消えてしまうような気がして、思わず名を呼んだ。
しかし、それは無意味だったのかもしれない。彼女の描いた見知らぬ印が体の自由を奪っていくのが解ったからだ。
「ダーリンもよく知ってると思うけど〜私って天才でしょ〜?とりま、餓死しない為に万が一の対策を考えてたんだ〜」
説明も半端にしか聞こえない。意識を保とうと必死に頭を振っても抗う事の出来ないような強い眠気が襲って来ているのだ。
「駄目だ......メルトニアさん......止めてーー「空間魔法や昏睡魔法を上手く使えば人間だって冬眠出来るじゃないかってさ〜。そして、どうにか完成したのがこの魔法な訳〜。勿論、連続使用をするのは危険だし〜、コールドスリープみたいには使えないけどね〜」
どうにか止めさせようと伸ばす手を彼女は優しく払い、魔法で拘束ーー気付けばベッドの上に転がされていた。
「ゆっくりお休み。ダーリン。目覚める時には全てが終わってるから......ちゃんと貴方の家族は取り戻すよ」
優しく微笑む彼女の顔が酷く儚げで力の籠もらぬ手を懸命に伸ばした。駄目だ、駄目なんだ。それじゃあ、それだけじゃあーーそこに君が居ないと僕はーー。
言葉が出たかも解らない。ただ彼女が一瞬だけ名残惜しそうな顔をした事だけが頭に鮮明に焼き付いた。
「バイバイ、ダーリン。一ヶ月半の良い夢を〜」
完全に意識が奪われる前に聞こえた言葉ーー後ろ手に手を振る彼女の姿を最後に僕の意識は消えていった。
「あ〜あ。道連れにしようと思ったのになぁ〜」
意識を失い、すやすやと眠るアルベルト。メルトニアはその姿を見る事はしなかった。余りに名残惜しいーーきっと、その姿を見れば私はルシフェルの元に向かう事は出来ないだろう、と彼女は心の底から思ったのだ。
アルベルトはそれでも良いと言ったが、それは彼の家族を見捨てる行為に他ならない。ーー自分のように悪い方へと転がそうとする女の為に大切な家族を失わせる訳にはいかない。
彼女は自身の瞳から零れ落ちた涙を拭い、空を見上げた。願わくば、次に彼が好きになる女性は彼を助け、共に歩んでいけるような自分とは真反対の素晴らしい女性で有ることを切に祈るのみだ。
「さ〜て、一世一代のスパイ大作戦〜!いっちょ、かましてやりますか〜!」
自分を奮い立たせる為に態とらしく明るい声を張り上げて、彼女は背伸びをしてみせた。そして、転移魔法を唱えると一足飛びの如く飛び出して、その姿を消したのである。
月が綺麗な夜の出来事ーー彼女が姿を消したその場所には星が零した雫の様に煌めく一粒の水滴が小さな染みとなって残されるだけとなっていた。
○●○●
メルトニアからエルフレッドに送られてきたメッセージ。
『ダーリンは一ヶ月半寝てるだけだからよろしく〜』
余りにも何時も通りで緊迫感の無い様子に呆気に取られたものの、その後、彼女と連絡が取れる事はなかった。とりあえず、アルベルトの様子を確認しにいった彼は、精巧に掛けられた物質保存魔法の応用に感嘆の息を漏らすと共に現状、アルベルトではメルトニアを止めることが出来なかったことを思い知った。
世界政府の島への潜入と世界大会が後一週間に迫った時の話である。エルフレッドは自身の中途半端な気持ちを諌め、決心を固めるしかないと心に決めたのだった。
「そなたが悩むのならば私が行く」
それは苦悩したエルフレッドに対してリュシカが告げた言葉だった。当然ながら却下されるべき内容である。彼女は何に置いても守られなくてはならない存在なのだ。
だが、その言葉があったからこそ彼は悩みを解消することが出来たと言っても良い。それはそうだ。自身がやらなくては誰かがやらなくてはならないことだ。そして、実力差的に助ける事が出来るのは自身だけなのである。
ならば、迷っている場合ではない。友を斬る為ではなく助ける為の戦いなのだと自身を奮い立たせることにしたのだ。
そして、その頃には対ルシフェルの状況は大きく動いていた。世界政府に対する革命行為にグランラシア聖国からはエルニシア率いるヴァルキリー、クレイランド帝国からはジャノバが赴く事になった。
アードヤードからはエルフレッドは勿論の事、潜入作戦に対して鬼神アハトマンが招集され、ライジングサンの王配コガラシと連携を取ることが決まっている。
作戦を立てたのは現特務師団団長とアマリエ、そして、アーニャである。この人選には軍仏として名を馳せたラクリマが関与しており、後継者として関わっているラティナの言葉があったからに他ならない。
作戦失敗時の防衛は海域の関係からゼルヴィウスが担当ーー戦力として有能なカーレスやケルヴィンもその傘下に着いていた。着実に敷かれていく包囲網、全てはルシフェルとエルフレッドの戦いが円滑に行われる為だ。
そして、エルフレッドが負けてしまった場合に次の戦力をぶつける為の布陣でもある。彼の提言もあって他のSランクに匹敵する戦力はルシフェルとエルフレッドの戦いが終わるまで介入しないことになっていた。
理由としては単純にエルフレッドが協力戦を苦手とすることーーそして、その後の勝率を少しでも高める事が挙げられる。
世界大会終了後、転移で島へと潜入するノノワールとヴァルキリー。そのタイミングに合わせてエルフレッドはアルドゼイレンと共に島へと潜入ーー若干先行する形でアハトマン、ジャノバ、必要と有らばコガラシが潜入する流れだ。
実力が未知数なルシフェルと行動が不確定なメルトニアという存在を無視すればアーニャの計算上、九十%は成功する作戦故に幾分気持ちに余裕があった。
現在は諜報部隊の帰還待ちだ。三日前には全てが解り、作戦がより明確になるというがーー。
「やはり、アマテラスの一族の関係者の方でしたかーーヒイラギさん」
作戦会議の為、アードヤードの王城の一室に呼ばれたエルフレッドは嘗ては二本と偽っていた八本の尾を揺らす旅館の女将、ナギサ=ヒイラギの姿を見て彼は思わず苦笑した。
「何じゃ、ナギサ。エルフレッドに疑われておったのか?」
諜報員だという事がばれたにも関わらず、さして気にした様子も無いナギサーーどうやら彼女はシラユキの従姉妹の孫らしいーーは「いえねぇ、英雄様は勘が鋭い上に話が御上手で、ついつい楽しくなって話し過ぎてしまいましたのよ」と悪びれた風も無く笑うのだった。
「全く、そちは諜報員としては優秀ながらお喋り好きは玉に瑕よのう?」
「それでも今までは上手くいっておりましたのよ!それに旅館の女将も本業ですからねぇ!ちゃんと嘘と本当を混ぜたのですけれど......やっぱり、エリクサーを飲まれていたとはいえ、心配になって助けてしまったのが正体発覚に繋がった原因かもしれませんねぇ。まあ、あの時は殿下の婿様になる可能性も有りましたし!」
楽しげな笑みを浮かべながら語る彼女には再度苦笑を浮かべざるを得ない。
「......帰った記憶が無かったのでそんな事だろうとは思っていました。何らかの形で御礼させて頂きます」
少し申し訳無さそうに告げれば彼女は口元に手を添えながら微笑んでーー。
「あらあらまあ!御礼だなんて!ーーでしたら、また、当旅館に来て下さいな!婚約者様と来られる日を楽しみにお待ちしておりますね!」
御礼だなんて、と言いながらも、ちゃっかり旅館の宣伝をしてくる彼女に「解りました。全てが終わった際には必ず伺います」と頭を下げるエルフレッドだった。




