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その瞬間、エルフレッドは動きを止めた。怒りのままに破壊を続けていた彼が突然、その動きを止めたことに周りは驚いたが蛇はそれさえも愉快だと言わんばかりに愉悦の表情を浮かべる。きっと人族の英雄は怒髪天に着こうとしているのだろう。
それ程までに人を怒らせ、苦しめることは蛇にとって最大の愉悦であった。しかし、エルフレッドの様子は蛇が予想したものと全く違った。大剣を下ろし俯いたエルフレッドは鼻で笑うような息を吐くと詰まらなそうな声でーー。
「気高さの欠片もない醜悪な存在だ。同じ巨龍であってもアルドゼイレンは真に気高いというのに......貴様は屑のような事ばかりする」
「ハハハ‼︎矮小な人間が何を言っても無駄だ‼︎しかし、同じ巨龍か......まあ、そういうことにしてやろう。模造品のように作られたお前達には俺の高等さはわからーー「だから、貴様は羽根を捥がれ地に落とされたのだ」
その瞬間、蛇は声を失った。にやけていた顔が引きつったようにひくひくと動き、硬直している。
「全ての知を有していながら、このような児戯に手を叩いて喜ぶようでは捥がれてもしかないな。貴様のやっていることは親の気をひこうと物を壊す子供と同じだ。そうやって地を這い蹲る事こそ相応しい」
今でウロボロスが何を言われても気にも留めなかったのは矮小な存在に何を言われても、と本気で思っていたからではない。無論、人間の事を矮小な存在だとは思っているが、そもそも彼等が自身の正体にさえ気付かず、あれこれ言っているだけだと思っていたからだ。
エルフレッドとてアルドゼイレンを引き合いに出したことから自身の正体に気付いていないと馬鹿にしていたのである。
「貴様は卑怯者だ。貴様は幼子のようだ。貴様は無様だ。貴様は空を見上げて指でも咥えていろ」
ウロボロスの表情に初めて嘲笑以外の感情が浮かんだ。瞳は赤一色に染まり、全身から闇の魔力が吹き出す。ブルブルと大きく全身を震わせ食い縛った歯をガチガチと鳴らすそれはーー。
明確な怒りであった。
神を除けば何よりも高等な存在である自分を、その場所を奪い取り、神の愛を受けながら何度となく神を裏切り、失望させ続けた矮小な存在が侮蔑を持って馬鹿にし続けている。
それはウロボロスに取って最も耐え難いことであった。エルフレッドは先程の蛇のような嘲笑を浮かべると大剣を肩に担ぐようにして持ちーー。
「貴様に神の隣は相応しくない。もし、俺が神の立場でそうしただろうーー」
「貴様に相応しいのは地の底だ。この塵が」
その瞬間、ウロボロスは牙を剥いてエルフレッドに襲い掛かった。先程と立場が逆転したように怒りを露にし、噛み殺さんと迫るのである。
「黙れ黙れ黙れ‼人族風情が‼俺を嘲るなど何たる無礼か‼思い上がりか‼ーー呪われよ‼ハディスに誘われよ‼」
我を忘れ、纏う闇と共に襲い来るウロボロスを躱しながらエルフレッドは尚も続ける。
「思い上がっているのは貴様だ。周りを差し置いて神の隣が相応しいのは自分だと本気で思っているのだからな?嘗ての部下達にさえ居場所を奪われた気持ちはどんな気持ちだ?三対の翼を持つ龍達に自身の居場所を取られた気持ちはーー「黙れと言っているのが解らないのかぁああ‼」
溢れんばかりの怒りに尾で地面を叩き壊しエルフレッドへと牙を剥く。召喚された魔法生物達が一斉に彼を襲撃し、ウロボロスもそれに追従するように飛びかかる。
大剣を盾にするエルフレッドの隙間を縫うようにして殺到している魔法生物達が彼の体に徐々に体を傷つけていった。更にウロボロスはエルフレッドのことを尾で打って壁に叩きつける。
障壁越しながら強い衝撃を受けて思わず膝を付いたエルフレッドに怒りが収まらない蛇は飛び掛かりながらーー。
「俺を馬鹿にしたことを死んで詫びるが良い‼永遠に物を言えなくしてやる‼そして、貴様が大事にしている人族の姫も壊し尽くしてお前の骸に供えてーー」
「物を言えなくなるのは貴様の方だ。この薄鈍が」
ウロボロスの体を一陣の風が貫いた。音より早く抜けていったそれが斬り裂き、蛇の体を粉微塵にするかの如く何度も何度も斬り裂き続けた。
「俺はこの屈辱を忘れん‼人族の英雄エルフレッド‼次に会う時は貴様に多くの災いを齎し、死を選ぶより後悔させてくれよう‼」
形を維持することが難しくなったのか闇の魔力の塊となった蛇は捨て台詞の如く叫び、消えていった。大剣を背中に担いだ鞘に直しながらエルフレッドはリュシカの方へと体を向けた。
「ーー無事でいてくれ‼」
ウロボロスの蛇の消失と共に魔法で作り出されたスクリーンのようなものは消えてしまった。状況が解らなくなってしまった中で彼は祈るような気持ちで叫ぶと彼女の安否を確認するべく彼女の方へと向かうのだった。
○●○●
レディキラーの手が何処かに触れる度にリュシカの精神は削られていくようだった。何処で覚えてきたのか、形容し難い程に嫌らしくねちっこいそれは、あまりに悍ましく不快で気持ちが悪い。
トラウマを刺激されるだけでなく生理的嫌悪も酷い。漂う体臭さえも汚物の如く感じて吐き気がこみ上げてくる。そんな状況の中でレディキラーの手が肩に触れてリュシカは思わず悲鳴を上げた。
「汚い手で私に触るなと言っている‼」
見えない姿を魔力で探り当て曲刀を振れば一瞬は気配が遠のくのだが、次の瞬間には体に纏わりつくように戻ってくるのである。
「お、おまえ、とても綺麗。だ、だから、許されない」
綺麗と言われ、これ程までに総毛立つ経験は未だ嘗てない。そして、気持ち悪さに硬直している間に弄られた場所に羞恥心と絶望が同時に襲い掛かってきた。
「イヤッ‼さ、触るな‼嫌だ‼」
爆発的に白炎が燃え上がり気配が遠のいた。全身を守るようにメラメラと燃え続けるそれには流石のレディキラーも近付けないようであった。
これはあくまでも仮想現実の世界の出来事だ。現実に起きたことではない。そうは解っているものの、リュシカは自身が酷く穢されたように感じてペタリと座り込んだ。
脳に直接刻まれたが故に感覚は諸に残っていた。それが嫌で嫌で仕方無く、恥しく、そして、辛くて涙が溢れた。
「お、おまえ、他のお、おんなと違う。な、なんで?」
触った感触でも確かめるかのように親指と人差し指をすり合わせる姿を見て、リュシカは限界がきたように口元を抑えた。
現実と完全にリンクしている訳ではないせいか、流石に胃の中の物が出てくるような事はなかったが何度も何度も吐くように震えて胸の辺りを強く押さえる。
現実で起きていないからマシなのか?それとも現実で起きていないのに感覚が残るから地獄なのか?
リュシカには何方なのか最早解らなくなってきていた。今は一刻も早く此処から逃げ出したい。彼女の願いはそれだけであった。ただ一つ言えるのはどうにかして現実世界に戻らなければ逃げる場所など何処にもないということである。
この魔法石の作り出した世界の中で意識を持って行動出来るのは自分とこの穢らわしい化物だけなのだからーー。
「嫌......こんなのもう嫌......出して......ここから出して......」
トラウマを乗り越えようと強く願ってここまで頑張ってきたというのに、何故このような酷い仕打ちを受けなくてはならないのか?これでは余計に酷くなってしまうだけではないかーー。
それ以前にどうして、このようなことになったのかが解らない。そして、出る方法さえも解らない。それが彼女の心をより不安定にし、傷付け、後向きな方へと誘っていった。




