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それはエルフレッドに言うべきではないことだと彼女は内心で苦笑する。エルフレッドを責めることを良しとしないと決めた事もあるが払拭出来る良い機会であると思ったのは本当のことなのだ。如何に辛く苦しくとも向き合い、乗り越える事が出来なければ元凶が居なくなったとて何らかの形で苛まれ続けるだろう。
ハッキリ言ってしまえばそれは弱さではない。傷だ。例えば、大きな骨折をして後遺症が残ったり、完治したはずなのに古傷が痛むなんてことがある。心に大きな傷を負ったこと、それを思い出し苦しむ事は単に心的な後遺症を発しているようなものだ。
だが、乗り越えた人々というのは苦しくも向き合ったが故に成したという話が多い。自身のトラウマを弱さ捉え、解消に努めることが結果的にトラウマからの脱却ーー成功に繋がることが出来る道筋なのだと多くの物が示していた。今はエルフレッドの為にもという外的要因もあって自身を奮い立たせることが出来ている彼女は今を絶好のチャンスだと捉えていたのだ。
「それに打算を言えば彼氏の為にトラウマを解消しようと健気に頑張る彼女など素敵ではないか?ますます惚れ直したであろう?」
「何故打算と解っておきながら本人に告げるかは解らんがーーここ最近、更に熱を上げているのは間違いないな」
微笑を携えて告げるエルフレッドに「フフフ、それでこそ私も頑張り甲斐があるというものだ」と軽口を叩くリュシカである。エルフレッドは本人に告げるか解らないと言ったが実際の所は解っていた。それは彼女の優しさだ。本来は向き合うことさえしたくないだろう過去の出来事ーーそれを軽口が言える程度の物だから気にするな。私は全く問題ないと言外に告げているのである。
そして、それが解っていながら解らないと告げるエルフレッドの言葉もまた優しさであり、軽口が言えるくらいなら安心だと彼女の考えに乗っかっているのである。お互いがお互いを思い軽口を告げている。そして、小さな優しさを愛おしく思い更に熱を上げているという言葉に全く嘘はない。心からそう思っている。
心からそう思っているからこそ、リュシカにはそれが伝わる。だから、より頑張ろう、必ず乗り越えようと思うのだ。良い循環がお互いの間に生まれていた。それぞれ出来事単体を見れば良くないことの連続であったが結果的に二人の中を深める出来事になったのは言うまでもなかった。
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蛇は快楽に溺れた存在につまらなさと侮蔑の感情を抱いていた。婚約式の一件から目を付けられている以上、次の一手まで派手に動く事は憚られる。それは何も蛇が冷静沈着に物事を進める存在であるからではない。寧ろ、蛇は本来、大掛かりな悪巧みを好んだ。
今までも騙す存在は王侯貴族とし、国家転覆を計らさせる等して大いに楽しんだ。多くの人々が苦しみ絶望の内に死んでいくことが蛇にとっての喜びなのである。故にこれまでも神々の計画を邪魔する際は大掛かりなことをして多くの人々を不幸のドン底に陥れ、そして、その光景に愉悦を覚えてきたのである。
しかし、大きな問題を起こすと人は集団となる。一人では小さき存在である人という種族は集団となると大きな力を発揮する。その結果、確かに創世神の思惑を阻止するに至ったが思惑の種自体を根絶やしにする事は出来なかった。愛に平等な神故にそれを許したという事があってただ、単に達成出来なかっただけであると考えれば、そもそも蛇が阻止した訳でもない。大掛かりな楽しみを優先した結果、本来の目的を達成出来なかったとも言える。
そして、今回、つまらなく感じつつもやり方を変えてみることにした。極力大掛かりなことはせず対象となる存在をより直接的に攻撃し、根絶やしにする。神の思惑を完全に阻止しーー嫌が応にも自身と会わなくてはならない状況にしてみようと考えた。
それが存外上手くいっている。対象の一人は完全に目星がつき破壊寸前まで追い込んでいる。もう一人はまだ予想の段階だが、まず間違いないだろう。そして、精神的に徐々に追い込まれている状況にあるのだ。自身の愉悦を我慢した結果、最高の結末が見えてきている故に今、大きく動くことは出来ない。その為、手駒となった存在を暴走させる訳にもいかないので飼い殺す為に餌を与え続けているのだがーー。
瞳から光を失った同族の雌に獣の様によがっている存在を見ていると醜悪すぎて反吐が出た。この存在は初めこそ聖典にもあった産み増やす行為を曲解して捉え、やはり自身は正義の使者なのだと酔いしれていたが今は初めて知った快楽に溺れ浸かり、それを求めるだけの只の下衆だ。しかし、対象の一人を完全に破壊出来る存在故に今は酷い侮蔑を覚えようとも生かしておかなくてはならないのである。
放っておけば一日でもよがっているであろう目の前のそれは非常に浅ましい。闇魔法が得意な蛇は精神を破壊した雌を彼に与え続けているが、あまりに早い頻度で使い壊されては躾も必要か、とも思うのだ。
(コイツが只の塵ならば既にこの手で消炭にしているもののーー)
成功しているが故に我慢している。しかし、裏を返せば今まで得ていた圧倒的な破壊と退廃に対する愉悦に比べれば何もかもが足りないのである。高等な存在である自身が下等な存在の為に我慢を強いられる事はなんたる屈辱で苛立たしいことかーー蛇は全てが腹立たしくもあった。
(確実に成功させねばなるまい。それが叶わなければ、この屈辱は晴らせないからな)
目の前で餌を貪る手駒という名の塵を眺めながら蛇は内に更なる侮蔑を溜め込むのであった。
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ブルーローズ宮殿にてアーニャと王妃クリスタニアは楽しげに会話をしている。その傍らに護衛として佇むルシエルは表情には出さないものの内心は非常に複雑であった。将来の国母となるアーニャは非常に優れた存在である。そして、欠点という欠点が見当たらない。いや、欠点はあるのだろうが出してはならならい人の前には出さない。そういった分別までこなす存在だ。
しかし、そういった分別をこなす存在でありながら、レーベンに対する異常なまでの愛情に関しては一切配慮しようとしない。それは彼女を彼女として繫ぎ止める行動として致し方無いかもしれないが彼女を貶めようとする存在からすれば唯一の欠点となり得るものなのだ。そして、倫理的にも真っ当だとは言い難く、既に多くの者が「可愛そうだとは思うけども流石に......」と眉を顰めているのである。
とはいえ、彼女の功績は大き過ぎる。ほぼ全ての学問に通じており、軍事防衛的にも優れた才能を発揮している。故に誰も文句は言えない。まあ、文句がないのではなく文句が言えないというところに問題があるのだがーー。
「お義母様。妾は確かにレーベン様に嫁ぎに参りましたが皆様と家族になる為に来たのですミャ。妾のことを思ってレーベン様の隣に居させてくれている事は有難いのですが、お義母様が辛いのであれば隣に居りますので何気兼ねなくおっしゃってください。妾は喜んで足を運びますミャア」
そして、気遣いも出来る。嫁いで来た矢先、開催国としての責任を問われても仕方がないアードヤードの王族に対して一切その責を追求しない。自身が一番辛い立場にありながら王妃の悲しみに寄り添い、王女の寂しさを埋めようとする。あの日以来、血の繋がった家族ばかりにしか顔を出さなくなっていた王女殿下も今ではアーニャのことを本当の姉のように慕い隙を見れば共に居ようとしている。そして、それを受け入れている。




