29
蛇は失笑した。途中まで望むべき展開であったにも関わらず傲慢な風を名乗る人族の英雄が現れてからというものの全てが望まぬ形に崩れていった。彼の望む人族の不幸と絶望、退廃と荒廃は今日という日には起きなかった。とはいえーー。
「神の暴走と人族の死ーー中々面白い物を見せてもらった」
多少は胸のすく思いがあった。多くが負傷し、何人かが死んだ。惜しむらくは罪なき人々に死が訪れぬことであったが、まあ、それでも人族が死んだこと一つ取っても大きな愉悦を得る事が出来たのは蛇にとって幸いなのである。そして、もう一つ。蛇にとって最も邪魔な存在が誰なのかを理解出来たのは蛇にとって僥倖であった。
「エルフレッド=ユーネリウス=バーンシュルツ。なるほど、あの神の息子であったか。いつもの如く邪魔な存在だな」
蛇は納得したように頷いて影へと潜った。とはいえ、あの傷では早々活動も出来まい。一番はそのまま死んでくれれば良いのだがーー。
蛇はエルフレッドの死を願いながら次の策略の為に記者ジェームズと名乗る存在の所へと向かう。胸糞悪いが一度王族に味方をするような真の正義に当たるような記事を書かせるのが良いだろう。さすれば、かの者が書く記事は世界に認められ大きな影響力を持つようになる。
次の崩壊のために善行をーー蛇にとっては虫酸が走る行為さえも次の崩壊の為ならば我慢出来ようというものだった。
「さらば人族の英雄を次に出会う事が無いことをーー大いなる死の神ハディスに誘われることを俺は心より願っている」
呪詛と悪意の祈りを捧げて蛇はジェームズの所に向かうのだった。
○●○●
倒れ力を失ったアーニャを転移にて王城に飛ばしたエルフレッドは自身は魔力も尽き、倒れ込んだ。死んだ地面に吹き付ける雨。神は自体の終焉を見届けたかのようにその雨を止めてエルフレッドの体を癒さんと太陽の光で照らした。しかし、エルフレッドとて限界であった。何故、自身に意識があるのかさえ解らない程に疲弊していた。王城の者達がきっとアーニャを癒してくれる。彼女が死を選ばないことだけを願い、どうにか尽力して欲しいと思った。
自身は暫し、忘れられて野晒しだろうが、それがある意味罰なのならば、これ以上に相応しい罰はないと自嘲する。
頭が船を漕ぎ、意識と無意識の狭間を彷徨っている内に彼の思考は多くの物事を考えるのだ。きっとアーニャは生きてくれる。仲間に支えられて絶望と戦いながら何らかの形で未来への折り合いをつけてくれるハズだ。だが、その中に自身は居ないだろう。出来ることならば力になりたいが彼女がそれを望まぬ事は初めから解っていたことである。
時に思うのだ。自身は確かにこれでも良いと思っていた。この結末は受け入れて然るべきだと考えていた。だが、皆はきっと忘れているのではないだろうか?自身とて如何に強かろうと、大人びようと、単なる十七の少年でしかないという事実をーー。
エルフレッドの強い心。周りを救わんとする猛々しさと傲慢さ。その強靭さは確かに異常なものだ。だが、限界がないという訳ではない。こうして、人助けを続けた後に助け起こされることもなく野晒しにされていれば心惜しく思う気持ちがない訳ではないのだ。罰だと自嘲した心も時が経てば酷く冷えた。
仲間達とは対等な存在だと考える。しかし、その関係は少しづつ崩れていっていた。それは自身のせいでもあった。単純に周りが甘え頼っていい存在であり続けた結果、磨耗していってる事に気付かれずにいた結果、まるで保護者かのような扱いをされていることに気付いてはいた。だが、それを受け入れていたのも自分であった。
今、こうして限界を越えて起き上がることの出来ない現状にあるせいか、その事実が辛くなった。
しかし、今更言える筈もない。支柱として支える者は大黒柱でなくてはならず、自身が折れれば崩れ去るものだと理解しなくてはならない。その瞬間からその役割に甘んじて然るべきなのだ。それに気付いた自身が引き受けてしまった。それだけが答えだ。
(......俺も存外疲れていたのだな)
報われなくても戦い続ける事を選んだ自身にこのような感情があることを初めて知った。何かで保たれていたバランスが崩れようとしていた。確かに本来の平等というものは等しく平らにラインを引くことではない。多くを持つ者が与え、少ない者が貰い等しく平にすることを指すべきだ。しかし、多くを持つものが与えた時にそれに見合った感情ないし賞賛が与えられない状況が続いたとすれば人は与える事が出来なくなる。
ーー何故ならば精神が足りなくなってしまうからだ。
余裕ある精神を以て与え続ける行動はその後の周りの精神への補填によって賄われる。では、命を賭けて人々を救い、友を助けた者へと与えられるべき物は?精神はーー?心無い人は偽善という言葉を当てるであろう。死を望んでいた彼女を助けた事を非難する。無論、アーニャ自身からその言葉を与えられる事は致し方無い。だが、世の何も知らぬ人々から与えられるべき者は賞賛であって然るべき。さすれば次があり、無ければ次はない。足りなくなった心では人は何も与えられないのだからーー。
杞憂かもしれない考えが頭を過ぎり彼は意識を失った。極々微細な皹が入った大黒柱ーー少なくとも彼が意識を失うその瞬間まで、この場には誰も現れなかったことを明記しておこう。
○●○●
目を覚ましたエルフレッドは王城の一室にいた。多くの者がアーニャの元に居る中で彼のベッドの近くに居たのはリュシカだった。漸く目を覚ました、と涙ながらに告げる彼女の姿を見ているだけで少しだが心が救われた気がした。それ程、多くない時を過ごし部屋を後にする彼女ーー後ろ姿を見詰めるエルフレッドは考えていた通りになったと理解する。
アーニャは時間は掛かったが冷静さを取り戻し、仲間達の支えもあって生きる選択肢を選んだ。目を覚まさぬ可能性が高いレーベンに寄り添って生きる事は国王として勧める事は出来ないと両国王は説得したが、その為に生きることを選んだのだというアーニャの言葉を否定することは出来なかった。婚約は継続され、国民はそれを喜んだ。
多くの国民が畏怖や畏敬から彼女を国から追放することを望むと考えていた皆はその反応に大いに驚いたが、実はその裏にはちゃんと理由があった。
世論を動かしたのは一つの記事であった。ジェームズという記者が書いた一つの記事ーーそれは王都の腐敗した貴族による保身の為のアーニャ暗殺計画とそれを命掛けで守ったレーベンの記事だった。悲しむべきことだが責められるべきはアードヤード王国だとし、その贖罪の為に戦った英雄エルフレッドの想いは汲み取るべきであり、悲しみにくれるアーニャ殿下を追い出すことは果たして善行と呼べるのか?と強い文言で書かれたその文章に国民の気持ちは大きく動かされた。
少し真実を知り過ぎているというおかしな点はあったものの彼自身のアリバイや潔白は証明されており、アーニャに寄り添ったその記事は絶賛された。世論を良い方向に導いたということもあって国王より感謝状も送られたという。
多くのものが良い方向に動き始めた中、数々の予定が変わっていった。例えば学園行事の多くは三学期に移行され、闘技大会は一ヶ月程延期となった。アーニャは半月程休学の後に学園には復帰したものの代表戦に出る気力は無く、放課後の時間はレーベンと過ごしたいとの希望もあって代わりにリュシカが出場することになった。となればSランクの修行は一時中止ーー。当面の予定は白紙となった。
そして、悪い面が全くなかった訳ではない。アーニャはレーベンが目を覚まさない時間が半月も経つとある意味病的な愛情を見せ始めた。
レーベンが目を覚まさなくても月日や健康次第では体外受精で彼の子を産むと言い始めた。そして、同じように目覚めぬ息子におかしくなり始めたクリスタニアの賛同の元、学園卒業もしくはレーベンの体調如何によってはそれを認めるように仕向けているという。
社交の場に出ていた母親よりそんな情報が入り、心配ながらも姿を現すことを躊躇っていたエルフレッド。そんな彼の元にアーニャより一枚の文が届いた。簡潔に『話がしたい』と書かれた文を読んだ彼は重たい腰を上げて王城に向かうことにした。




