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アーニャの姿が掻き消えた。瞬きをする間にエルフレッドへと到達ーー。爪を振るい白の焔を撒き散らす。
「......グッ⁉︎」
障壁程度では抑えきれない熱波が彼の身を焼いた。苦し紛れながらも大剣を払えばアーニャは舌を打って距離を取った。纏わりつく白の焔を血振るいのように振り消せば、皮膚の爛れた右腕が見えた。その威力はガルブレイオスをも越えていると理解するのにそう時間は掛からなかった。
回復魔法を唱え、傲慢な風を大剣へと纏う。身体中を覆うように魔力を活性化ーー上級無魔法リミットブレイクで一気に能力を引き上げ、眼前で悠々と焔を揺らす神の姿を目に焼き付けんとする。体が揺れて消えるように見えていた動きが一切の無駄無く、理力で作った足場を蹴っているだけだと理解した瞬間、彼は戦慄しながらも大剣を振るった。
体位を側方にずらしながら胴を抜くように薙ぎ払い、捉えた感触に手を振り抜けば薄ら笑うアーニャの顔ーーあの速さから大剣の上で手をついて宙を飛んだ。凡そ人間離れしたその動きはあの速さの中でも、こちらの動きが見えているということかーー。
祝いの席に相応しい晴天の空が陰り初めてドス黒い雲に覆われていく。緊迫した雰囲気の中に薫る雨水の薫り。天候が崩れるまでそう時間は掛からないだろう。魔力の気配に振り返りざまに大剣を振るえば焔と風が打ち消し合った。アーニャの姿は既になく、視界の上では完全に見失った。
エルフレッドは冷静に魔力で気配を探り、頭上から迫り来る影を捉えた。回転し威力を増した踵落としと風の吹き上げで威力をました大剣の振り上げがかち合った瞬間ーー。
彼の腕の腱が耐え切れずに切れた。
激痛に顔を歪めながらも回復魔法で腕を治し、離れた距離にリミットブレイクを解く。かち合ったそれを踏み台に後方へと宙返った彼女は反回転するようにクルクルと回った後に着地。余裕の表情で扇子を開いて自身を仰いだ。
沈黙に睨み合えば二人の間に雨粒が落ちたポツリポツリと音も無く降っていたそれは数秒もせぬ内に土砂降りの雨となる。全く余裕の無いエルフレッドは視界を確保する程度に風を放ち、ずぶ濡れていくのに対してアーニャは何もせずとも雨粒の方が蒸発していく。全身から湧き上がる白の焔に蒸発した雨の水蒸気さえも瞬時に消えて、平時と変わらぬ状態でそこに立っていた。
ザーザーと強い音と共に地面に叩き付けるような痛いくらいの雨の中で睨み合う二人ーージリジリと距離を詰めるエルフレッドに対して扇子を持つ彼女は全くの不動。何処からでも掛かって来るがいいと言わんばかりの表情で数度目の交錯の時を待っているのだ。
ひしゃげ足場の悪い地面が雨粒で更に泥濘んでエルフレッドの進みを阻んだ。焔にとっての天敵の天候ですら今の彼にとっては自身の邪魔をする壁のように思えた。身体を伝い滴る雨粒はまるで滝行に励む僧のそれの如く、勢い良く地面へと溢れ落ちていくのである。
空気に確かに重さを感じた。底知れぬ圧力が彼の歩を止めさせんとしている。泣き喚く空さえ敵だとするならば、神においても正しいことをしているのは彼女の方なのだろう。しかし、エルフレッドは立ち向かわないといけない。確かに自身は彼女のように賢い訳ではない。今の状況さえ、彼女の絶望の理由を全て理解出来る訳ではない。そう、エルフレッドとて彼女から見れば”奇跡を信じる凡夫”でしかない。
だが、確率が限りなく零であっても希望に縋ることが出来るのならば彼はその可能性に掛けたい。全ての確率が見えている彼女がこのように絶望して全てを破壊し、自らを滅しようとする確率ですら希望であって欲しいのだ。そして、その時が来るまで彼女を支え、共に有ってくれる友人達の姿を思い出して欲しいのだ。例えーー。
その中に恨まれし自身の姿がなかったとしても、だ。
彼の足が乾いた地面を踏んだ。この土砂降りの中でさえ平時と同じ程にーーいや、それ以上に乾き水を欲している死に向かう大地は彼女の領域。エルフレッドは踏み入れた瞬間に天まで轟かんとする咆哮を上げながら飛び掛かった。鋭く気合いの入った飛び上段切りーー、半身で躱される。止まらぬ回転運動で放たれる左袈裟ーー、首を傾げるのみ。返す大剣はメビウスの輪を描く様に右袈裟ーー、反対側へと首を傾げるのみ。首を落とさん勢いの高めの左払いーー身を屈める。その勢いのまま回転、同じ場所を通った回転斬りにアーニャは漸く扇子を動かした。
ガキンッ!!
と硬質な物同士がかち合った音と共に大剣と扇子が鍔ぜり合うガチガチと全身を震わせながら力を込めるエルフレッドに対して、アーニャは扇子を持った右手を震わすのみで抑え込んでいる。
「ーー何故、そこまで止めようとするミャ?お前は優しい男ミャ。妾の苦しみや絶望を理解しているハズミャ。何故、解き放ってはくれないのミャ?」
その声色は心の底から解らないと困惑している声は悲痛に満ちている。怒りや憎悪の中に何かが潜んでいると感じていたエルフレッドが捉えていたのは深海の闇より深く重い悲しみだった。彼は力む身体をそのままに少しでも彼女に伝えたいと冷静ながら有らん限りの感情で言う。
「......限りなく低くても希望が零じゃないならば生きて欲しいと願うものだ。支える友だっている」
瞬間、虚無へと返り、呆れたと言わんばかりに溜息を吐いたアーニャは鍔迫り合いを辞めてエルフレッドをいなした。前方に受け身を取り、頭上に振ってくる足を大剣で受け止めた彼を踏みつけるようにして見下す彼女は踏み潰してくれると言わんばかりに力を込めながらーー。
「零の後に零が何個も続く数字の事を希望とは言わないミャ。天文学的数字は等しく零ミャ。何故だか解るミャ?何故ならば、それよりも高確率の可能性が何千〜何万と続くからミャ。枝葉の先に着いた蟻が持ってきた砂粒のようなそれに何の意味があるのミャ?それとも妾は人が壁に向かって走っていって、そのまま通り抜ける確率と似たような希望に縋って苦しみ続けないといけないのミャ?ーー阿呆らしい」
アーニャが全身の重心を下へ下へと勢いをつけて大剣ごとエルフレッドを何度も何度も踏みつける。その度に彼は苦しそうな呻き声を上げながら障壁ごと地面にめり込んでいく。
「......それでも零でないならば友人を死なせる訳にはいかんーー「だから零だと言っているミャ‼︎お前はもっと利口な男だと思っていたミャア‼︎ならば、お前はこの瞬間分子になるミャ⁉︎突然、太陽が爆発して世界が破滅すると思うミャ⁉︎確率は零じゃない‼︎零じゃないことに何の意味があるというのニャアア‼︎」
怒りの限りエルフレッドを蹴飛ばしたアーニャ。半ば埋め込まれ、逃げ場を失った上に蹴り飛ばされたエルフレッドは防御の上からでも全身の様々な部位が様々な損傷を訴える中で、全身全霊の回復魔法を唱えて再度立ち上がるのである。
「俺は即死に等しい状態から甦った‼︎死の運命にあったシラユキ様を助けることだって出来た‼︎そもそもが凡才である俺が死を何度も乗り越えて、ここに立っている‼︎零で無いならば希望に縋ることは何ら悪いことじゃない‼︎無様だって生きていれば‼︎苦しくたって生きていれば‼︎可能性は......可能性は絶対にあるんだ‼︎それを知っているからこそ俺は止める‼︎戦う‼︎何度だって告げる‼︎頭の良いお前ならば俺よりも良い可能性にだって気付けるハズだ‼︎」
エルフレッドは叫んだ。それはあくまでも経験論で奇跡に恵まれた人間の意見かも知れない。しかし、零ではないことは起きることを知っていて、実際に起きたことを証明している。だから同じように救われる可能性のある友を止めないといけないという使命感にかられているのだ。




