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図書室で借りた臨床心理学書の退行の項目を読みながらエルフレッドは頭を掻いた。
半永久的に症状が治らない事もある。
安心感のある空間で徐々に、外に意識を向けさせるしかない。
焦りは禁物である。フラッシュバックなどで強いショックを受けると更に酷くなる可能性がある。
(治療法は安心出来る空間でゆっくり気持ちを解していくこと。ショックを与えないように虐めを思い出させるようなことをするのはNGってことか?)
図書室のテーブルの一角、あまりに解決策に乏しいそれを眺めながらエルフレッドは思考を巡らせる。見れば見るほどに専門家に任せた方が良い気がするが、しかし、暫くの間、勉強を教えるというのに対処法を全く知らないとなると教える側としても授業が難しくーー。
「んニャア?......あっ」
「......?失礼致しました。アーニャ=アマテラス=イングリッド様に置かれましては此度のクラスにてクラスメイトとなってーー」
「や、やめるニャア!学園内は平等ミャア!見てる、ほら、周りが見てるからニャアーー」
それは多分彼女が大声を出しているからなのだろうが、それを指摘するというのは躊躇われた。
「失礼しました。それにしても、イングリッド殿下は大層難しい本を嗜まれているようで......」
アーニャが持っている本の題名を見るにとてもじゃないが学園生が見るような本ではない専門書が数冊握られている。きっと、そういう職業を目指す人の為に並べてあるといった本なのだろうが、それを無造作に六冊ーー、ジャンルに関連性の無い本であるから将来の夢というわけでもなさそうだ。
「アーニャでいいニャ。別に理解すること自体はそう難しいことじゃないミャア。一つ一つは点だけど広域で繋がってる点を線で繋げていくだけの話ミャア」
そう言って早速一冊の本の目次に目を通し始めて「この数千年間で文明に大きな変化が無いのはこれ以上の進化が必要ないレベルに達しただけだからだと思うのだけどミャア」と独り言を呟いている。
「それはアーニャ殿下の元来の知識が豊富でないと出来ないこと。同学年でその知識量は感心の至り尊敬致します」
「......バーンシュルツ子爵子息殿はどうもむず痒い喋り方をするミャア。もっとフランクでいいミャ。大体それを言うなら臨床心理学書なんてそうそう読む本じゃないミャ。心理学者になりたいーーと言うわけでも無さそうだしミャア」
「あ、エルフレッドで大丈夫です」と真顔で返して彼は少し困った様子で頬を掻いた。
「いえ、余り深くは言えませんが自分が家庭教師をすることになった先のお相手が心に傷を負っておりまして......治せるわけではないにしろ酷くならないように務めようと理解を深めているところです」
彼がそう言うとアーニャは瞳を真ん丸く見開いて驚いた様子をみせた。
「それは素晴らしいことだけどミャア。何だか意外だミャア。失礼を承知で言うとエルフレッド殿は結構自分優先なタイプだと思ってたミャ。夢の為なら周りを蔑ろにするとばかりーー」
「......それを言われると否定は出来ません。あくまでも今は自身の夢の優先順位が高いのは事実ですから。ですが関わった方にはなるべく迷惑を掛けず寄添いたいという気持ちくらいは持ち合わせていますよ」
「そうなのニャ。どうやら私は思い違いをしていたようミャア」
そう言うと彼女は本を閉じて席を立った。そして、整えるように九本の尻尾を軽く振るとエルフレッドに向けて口を開いた。
「君は余り深く言えないと言った。だから、これは妾の独り言ミャア。あの子は元来非常に聡明な娘ニャ。それなのに純粋で穿った所のない優しい娘ミャア。私もまた、あの娘と一緒に小難しい話を延々と語り合いたいと思ってるミャア」
彼女はそう言うとエルフレッドに向けて深々と頭を下げた。
「"従妹"をよろしく頼むニャア」
「......確かに承りました」
そう言うと彼女は呆れた様子でありながら晴れやかな笑顔を浮かべると「だから、独り言だと言ってるニャア」と呟いてーー。
「よろしくミャ♪」
そして、彼女は受付カウンターへと向かっていく。エルフレッドは暫しそれを目で追っていたが背伸びをして欠伸をすると臨床心理学書へと向き直った。
「期待に答えなくてはならないな」
一人の人間の人生が掛かっていると思えば真剣に思う気持ちはより強まった。この一時間で何度も読んだ内容であったが一字も読み漏らすまいと彼は食い入るように文章に目を通すのだった。
○●○●
その日、ヤルギス公爵家の庭園は健康に良く美味しいとされるハーブティーを中心とした健康に良い食品で彩られていた。
「本日は突然の誘いに答えて頂き誠にありがとうございますわ!季節がら身体を壊しやすい時期で御座いますから本日は身体に良い物を取り揃えさせて頂きました!身体休めと思って御堪能頂ければ幸いですわ!」
随所より挙がる「美味しい」の声に頬を緩めながら挨拶周りをするメイリアを尻目にユエルミーニエはレイナへと話し掛けていた。
「レイナちゃん!お久しぶりねぇ!お陰様ですっかり良くなりましたのよ!きっとエルフレッド君が家庭教師を引き受けてくれたからですの!」
「あら?オススメはしましたけど少々堅苦しい所のある息子ですし、ご迷惑をおかけしてはおりませんか〜?」
「いえいえ!それがフェルミナもすっかり懐いちゃって!とても素晴らしい先生ですわ!エルフレッド君!」
(ただの家庭教師だったのね......早とちりだったわ......)
そんな二人の様子を見ながらアナスタシアはハーブティーに口をつけた。仄かに香るスッキリとしたカモミールの香りが心に安寧と和らぎを与えてくれるーー。
「あ、そうそう!アナスタシア!今度カターシャちゃんと一緒においでなさいな!美味しい茶菓子が入ったの!フェルミナも喜びましてよ!」
「......え?」
一瞬、ほんの一瞬だったが姉の表情が感じ取れなかった気がした。それにだ。ゾワリと走った悪寒が自身に何らかの警鐘を鳴らしているのである。それは勘違いかもしれないが、もしかしたらーー。
「え、ええ。勿論よ。私がお姉様の誘いを断る訳が無いでしょう
?」
アナスタシアがそう答えるとユエルミーニエは心配気な表情を浮かべてーー。
「どうしましたの?少し顔色が悪いようですの?あまり無理をしてはいけませんわ」
「大丈夫よ、お姉様。ちょっと貧血気味なだけだから。寧ろ今日のような会なら今の私にピッタリだわ」
「そう。それなら良いのだけど......」
心配そうな表情を浮かべる姉を見てアナスタシアは気持ちを切り替えた。今の所可笑しなところはない。きっと、さっきのは自身の考え過ぎだったのだとーー。
「ユエルミーニエ様!王妃様のお茶会を休まれておりましたから大層心配しておりましたわ!本日はお身体に良い物を寄りすぐりましたから、どうぞ召し上がられて御自愛なさって!」
挨拶周りを終えたメイリアにそう声を掛けられてユエルミーニエは頬を緩めた。
「そう言って頂いて有り難いですの!実はレイナちゃんのところのエルフレッド君がねぇ、家のフェルミナの家庭教師をしてくれおりますの!だから最近は本当に気が楽でしてよ!だから身体も本当に良くなってきてますの!」
ユエルミーニエの言葉を聞いてメイリアは一瞬大層安堵した様子で「家庭教師でしたか......」と呟いてーー。
「それは良かったですわ!私もどうにか力になりたいと思っていましたからフェルミナちゃんの調子が良い時にでもまたいらして下さい。微力ながら心をケアする魔法を掛けて差し上げますわ!」
「まあ当代一と名高い大聖女でもあられるメイリア様の聖魔法を掛けて頂けるなんてフェルミナも大層喜びますの!母親としても是非宜しくお願い致しましてよ!」
そんな会話をしながら輝かんばかりの笑顔を浮かべるユエルミーニエに周りは表情を明るくするのだった。
「......え?今の表情?どういう意味なのでしょう......」
しかし、その隣に座るレイナだけは何故か血の気のない顔色でそう呟いて、どうにか表情をだけを整えている。そんな状態であった。




