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彼女は予想外の言葉にグラスを置いて彼を見た。その瞳に浮かぶ色はとても情熱に溢れている。
「後悔......とは?」
彼女の瞳が様々な色を移している。それはどちらかと言えば不安げな物であった。エルフレッドはそれを即座に察して微笑むとーー。
「別にアーニャと婚約したいと思った訳ではない。俺がもう少し早く自分の感情に気づき、もっと早く行動に移せていたらこんなに沢山の人々に迷惑を掛けることはなかったのだ。いくらタイミングの問題とはいえ......そんな後悔だ。責任感と自身の感情に板挟みにされてリュシカの事を遠ざけた。本当にすまないと思っている」
「そうだったんだな。確かに急に会わなくなったから私が何かしてしまったのではないかと不安になったぞ?」
彼女は少しホッとした様子で再度シャンパンに口をつける。きっと、ここで何も言わずとも全ては丸く収まった状態だ。現状維持だが波は無い。平穏無事を望むならば今ここで話を打ち切り他愛も無い会話をして家に返すべきだろう。
しかし、今日はそんな日ではない。一なのかマイナス一なのかどう転ぶか解らないが用意は既に済んでいる。引き返す事など許されない。
「もう不安に思う必要はないぞ?リュシカ」
彼の声は少し震えていた。エルフレッドとて全く経験がないことには緊張の色を隠すことは出来ない。例え彼女が今でも好意的な言動を繰り返していたとしても答えを聞く、その瞬間まで何も安心することは出来ないのだ。
「......もう不安に思う必要がない......とは?」
アルコールが少し早いペースで入っていたことが彼女の思考を緩慢にさせていた。普段ならば少しは察していただろう彼女が全く予想が出来ず、図らずとも驚かすような状態になってしまったのは良かったことだろうかーー。エルフレッドが二回手を大きく叩くと牡丹の間のライトが暗く落ちた。彼はサプライズなど気取った様相は如何かと思っていたが、次にライトがつく瞬間まで決心を固める時間があり、正しく準備した物を彼女に渡すとするならば、こうして電気を消すのは非常に合理的に思えたのだ。
そして、灯りが着くとテーブルの上には十二本の薔薇の花束が置かれていたのである。
「婚約できるまでは密かな付き合いになることを許してほしい。俺と付き合ってくれないか?」
「あ......えっ......嘘......えっ?」
彼女は酷く混乱しているようだった。両手で口元を覆い目を大きく開いて息をすることも忘れるくらいに驚いている。
「嘘ではない。俺はあの日、気づいてしまったんだ。自分の感情がおかしくなってしまう程、リュシカに好意を抱いていることにーー。だから本当に後悔した。もっと早く気づいていれば貴女に秘事のような真似をさせなくて済んだのにと」
言葉が出ないリュシカに対してエルフレッドは心臓が張り裂けそうだった。早く答えが欲しかった。だが、こんな思いを彼女にさせて来たのだと思えば、今日この瞬間の僅かで長く感じる時くらい幾らでも待っていようと思ったのだ。
「だ、だって......今まで私が追う側だったから......」
「そうだったかもしれないな。しかし、気づいたんだ」
「お母様が......凄く気合の入った格好をさせるけど......きっとアーニャの話だって......」
「それも間違いではない。ただ、主な話はこっちだったがな」
「それに私......病気だって言えてない......頑張るけど......後継だってーー」
「良いさ。最悪、二人で冒険者になろう。皆はどう思っているかは知らんが俺は元々平民だ。領民には悪いがそっちの方が性に合っているさ」
無論、エルフレッドとて本心から領民のことをどうでも良いと思っているわけではない。だが、彼女を手放すくらいなら国を捨てても良いと思ったのは事実である。なんなら辺境警備軍総長に伯爵教育を行って引き継ぐくらいの計画は立てようというものだ。
彼女は涙を零した。そして、薔薇の花束を受け取った。ボロボロと溢れる涙の中で嬉しそうに微笑んで花束を抱き締める。
「......本当に私で良い?」
「リュシカしかいない」
「......アーニャの方が問題ない結婚が出来るかもよ?」
「構いはしないさ。それにアーニャはリュシカを捨てて付き合おうとか考える男は願い下げだそうだぞ?」
肩を竦めて微笑んで見せるエルフレッドにリュシカは「アーニャらしいなぁ」と微笑んだ。
「夢みたいで信じられないけど......よろしくお願いします」
彼女が目元を人差し指で拭いながら微笑んだ。そして、様々な感情が押し寄せる涙を流している中でエルフレッドは自身の胸ポケットに忍ばせた細長い小箱を取り出した。
「ありがとう。ーー色々考えたが結局これしか浮かばなかったんだ。婚約の際はより凝った物を渡したいと考えているがな。恥ずかしい話だがアーニャに尻を叩かれてここに来たというのもある。期待させるような物で無かったらすまんな」
「もう。私は幸せで一杯だというのに更に貰ってそんな失礼なことを言うわけがなかろう?......開けても?」
「ああ、勿論」
恥ずかしげに顔を背けるエルフレッドの前で胸に抱いた花束もそのままに彼女は手先を器用に使って小箱の包装をはいでいくーー。
「......アイオライトのネックレス?」
「そうだ。誕生日が三月二日だろう?日付で変わる特別な石の方にさせてもらった。石を言ってしまえばサプライズも減るかもしれんが婚約の際はアクアマリンを使わせて貰おうと思っている」
声にならない声を出しながら再度涙を流し始めた彼女は大層嬉しそうに頬を緩めてーー。
「期待以上だ。誕生日など教えたこともなかったのに......嬉しくて......嬉しくて涙が止まらない......」
喜びに顔を歪める彼女にハンカチを渡してエルフレッドはシャンパンへと口をつける。少し緩くなってしまっていたが達成感からか今まで飲んだどのシャンパンよりも格別に思えた。
「ねぇ。エルフレッド」
不意に名前を呼ばれて彼がリュシカに意識を向けると小箱からネックレスを取り出した彼女は微笑みながら首を傾げてーー。
「着けて」
「ーー喜んで」
微笑みながら席を立ったエルフレッドは薔薇の花束を抱えたままの彼女の前に立つと首の後ろに手を回した。何となくだが彼女はそういう風に着けてほしいと望んでいることが解ったからだ。彼女は着けやすいように薔薇の花束を少し下げると嬉しそうに瞳を細めてーー。
「そのままでいて」
「......そのまま?」
薔薇の花束が押し付けられるように近づいてきて二人の間で花弁を揺らした。ハラリと花弁を何枚か散らして床へと落ちる最中ーー。
二人の唇が重なった。
薔薇の花束が潰れない程度の抱擁、そして、優しく触れるようなプレッシャーキス。しかし、エルフレッドの頭を沸騰させるには十分の行為であった。
「初キスの味がシャンパンの味なんて少し大人みたいだね?」
そう言って嬉しそうに微笑んでいる彼女に返す言葉が見つからずーー。
「ヘタレかもしれんが返す言葉も浮かばん」
と顔を真っ赤にしながら席へと戻ったエルフレッド。緩む口元をどうにか引き締めながら羞恥の感情に染まっている目元を右手で抑えて呻くように呟いた。
そんな様子にリュシカはクスリと笑ってーー。
「全然、ヘタレじゃないよ?私が嬉しくて舞い上がっちゃうくらいだからね」
後から思えば恥ずかしくなるようなこともしてしまう程に舞い上がっているとリュシカは再度はにかみ笑いを浮かべて席に着くのだった。




