幼女白書『雛と音符と視えない翼』
『飛べない翼に意味はあるのでしょうか?』
「嬢ちゃん、かたわなんか……」
「なぁに、それ?」
おたまじゃくし。前足がない。後ろ足だけの歪で不完全な音符。
私がまだアリスだった頃、夏祭りの露天商のおじさんがくれたカエルの赤ちゃん。
「……持ってけ。サービスだ。一匹やる」 「……?」
7日後、おじさんからもらった後ろ足だけのおたまじゃくしは、干からびて死んでしまった。
醜く変色した彼女(彼だったのかもしれない)は永遠に大人になることはなかったのだ。
私がお世話をしなかったから、水も変えずにそのまま放置したから。
永遠にカエルになれなかったおたまじゃくし。彼女は今もなお 私を、憎んでいるのだろうか?
永久にまとわりつくドロドロ。欠落した空白は今日もなお 世界を蔑み、色を求めて彷徨っているのだろうか?
「本当に生きたかったの?あなたは」
そんなのは――
『雛と音符と視えない翼』 指揮者:日野 愛歌
「ひなね、鉄棒やりたい!」
私は希望をげんきいっぱいに唇にのせ、悠久の空へと響かせる。
「えー、ひなちゃんには無理だよー」すかさず遮断。
どうやら私の歌声は入道雲にさえぎられ、まっかな太陽までは届かなかったようだ。むう、残念。
「そんなことないもん!ひな、もう大人だもんっ」あーーん!と、泣きじゃくる癇癪少女。
ふふ……5才の幼稚園児にこのGは耐えられまい。
「せんせー。またひなちゃんが泣いてるよー」戦争を知らない子供たちが戦争を知らない大人たちに核兵器のボタンを預ける。
「いじわる・・・なんで、なんでひなにはやらせてくれないの?」解からないわけじゃない。理解はしている。
ただ納得がいかないだけだ。 神様はいつだって不平等。
私が何かに挑戦しようとすると、先生も友達も、声を揃えて雛鳥の好奇心を押し潰す。ぐしゃぐしゃと、ばりばりと。彼らは容赦なく踏み砕く。
飽くなき探究心。私には、それを持つことは許されないのだ。
こどもの存在意義を奪われた哀れな雛鳥は、静かに不満を吐露する。
「ひな、つまんない……」
私の名前は『小鳥遊 雛』5才。性別は女。、私立 九尾鶴幼稚園所属『ひがのこ組』の年中さん。
毎日絶え間なく続く親鳥と他の雛からの過剰な甘やかしに、いいかげんうんざりしている。
そんな色ちがいの雛。それが私だ。
私にだって冒険する権利があるはずだろう。みんなと同じように。
なにか、証明さえできれば。私にだって出来るという証。
世界を自由に行き来する通行手形。欲しい。それさえあれば私の世界はきっと広がる。
●ある日、噂を耳にした。青い鳥の噂。九尾鶴幼稚園の裏山で目撃したと吹聴する児童。
よって群がる群集たち。
「チャーンス♪」唇がにやりと歪む。
次の週末、私はその幸せを呼ぶという青い鳥の探索に出かけた。
●幼稚園の裏山。ここには古来より青い鳥が出るという伝説がある。≪ひがのこ組男子児童談≫
きっとだいじょうぶ。怖くない、怖くない。
裏山には、何度かてつなぎ遠足で引率の先生と行ったことがある。
一人で行くのは確かにはじめて。否定はしない。でも私は5才の淑女。もう立派な大人だ。
私が雛鳥だとしたら、もう自分の翼で≪世界≫に飛び立つ季節のはず。準備はできてる。あとは、次の風が吹くのを待つだけ。歪な音符は、まだ視ぬ明日に想いを募る。
「よし、出発だ」
≪中略≫
●結論から言おう。計画は頓挫した。大失敗。
先生からは、こっぴどく叱られた。一人で裏山に入ってはいけない。何故?そんなに私が信用ならんのか、貴様は。
逆に自分の限界を世界に知らしめる形となってしまったアホなガキンチョ。
井の中のおたまじゃくし。無様なことこの上ない。
「悔しい……」
ずぶ濡れの雛鳥は、行き所のない怒りを母鳥にぶつける。
沈黙のディスタンス。灼熱のインフィニティ。
被告はあなた。裁判官は私。さあ、人形裁判を開始めよう――
「ねぇ、どうして?」彼女は答えない。
「ねえ、答えてよ?」彼女は答えない。
「なんでなんでなんで?」彼女は答えない。
「どうしてどうしてどうして?」彼女は答えない。
プツン。私の中でなにかが弾けた。
「どうして、ひなには右腕がないのぉおおォおぉ……っ!!!! おかぁさぁぁァああああん」
サリドマイド奇形児。それが私が機械仕掛けの神から与えられた識別コードだった。
肩からばっさりと抜け落ちた肌色。欠落した右腕。
ない。何かが足りない。見えないんだけど視えるもの。スカスカの空白が、5才の私には少しだけ重たい。
私がまだ胎児だった頃、母の子宮の中に忘れてきてしまった大切なパーツ。
永遠にカエルになれない後ろ足だけのおたまじゃくし。雲をも掴む民。
――幸せってなんですか?
【サリドマイド児とは、サリドマイド製剤の睡眠薬や胃腸薬を服用した母親の胎内で薬の影響を受け、
四肢や耳に先天的な障害を受けて生まれた子どもである。1962年に薬の販売は停止されたが、
回収が徹底しなかったため、1959年から1969年の間に全国で309人の男女が出生した。小鳥遊 雛さんは
1968年1月、右腕が退化したサリドマイド児として誕生した。
「人間には手と足が二本ずつあるのだと私がはじめて気がついたのは五才の時でした」と、彼女は語ったという】
「ごめんね、ひなちゃん……ごめんねぇ……」母がぽろぽろと涙を流す。ああ、違うんだ。私はあなたを悲しませたいんじゃなくて――
「お母さん、どうしたの?おなか痛いの?だいじょうぶ……? ひなね、お母さんにはずっと笑っててほしいな……」
切なる願い。刹那の邂逅。お願い、笑って?お母さん。
「そうだ!ひなちゃんが絵かいてあげる。お母さんとひなの絵――ニコニコしながら、二人でおててつないでるの。」
雛鳥は儚い幻想郷に想いをはせる。
「……うん、ひなちゃんは優しいね。だいじょうぶ。もうだいじょうぶだから……。
ひながそこにいてくれるだけで、ママはがんばれるから」 「うんっ」私は満面の笑みで母の決意に応える。
「ありがとう――」
そう言って、くしゃくしゃの顔の母は、私を強く抱きしめる。イテテ…少し骨が軋む。
そのきれいなてのひらで 私のあたまを優しくなでてくれる、くりくりと。気持ちいい。
苦しいこと、つらいこと、哀しいこと、ぜんぶ忘れられる。母に愛されている間は何もかも――全てが、零になる。
「お母さん だっこだっこ♪」音符が無邪気に跳ね回る。
あったかい……ふわふわで、ふよふよな感触。お母さんのぽかぽかが私の世界を優しく包みこむ。にっこりと笑うピカピカな太陽。
「お母さん、大好きだよ?」ん…ねむい。ダメだ、ねる……。世界が急速に色を閉じてゆく。視界が歪む。暗転。
私も赤ちゃんができて、お母さんになったら きっと――。
きっと――。
≪エピローグ≫
――15年後。
季節は、桜笑み命が芽吹く ふわらずの春。
25才になった私 小鳥遊 雛は、現在、都内の幼稚園で保育士の仕事をしている。こどもは可愛い。触れるとぷにぷに。すごく癒される。
でも、そんな甘い気持ちだけじゃ保育士は務まらない。
「あと、10分か――はやく着き過ぎちゃったかな」
私が未来を担うこどもたちの道を創ってあげなければならないのだ。毎日が失敗と発見の連続。でも、充実している。
お母さんは、私が高校3年生のとき、肺がんを患い天国に旅立ってしまった。だけど――寂しくなんかない。
私には今、大切な人がいる。
「ごめん、待った?」「んーん。今来たとこ」私は何食わぬ顔で、優しい嘘をつく。
4月28日、日曜日。天気は快晴。時刻はAM9:50
今日は証券会社に勤める2歳年上の彼と週に一度のデートの日だ。
「おなかだいぶおっきくなったね。無理しちゃダメだよ?」「ありがとう、愁くん」
しあわせの秘訣は、素直に≪ありがとう≫を伝えること。
そして、なんと今年の7月――彼と私の赤ちゃんが産まれるのだ。
「それじゃ行こっか」「うんっ」 彼が私の視えないてのひらをそっとにぎってくれる。壊れないように優しく。すり抜けないように力強く。
男の人のぬくもり。フレグランスの香り。あったかい。
彼と私とおなかの赤ちゃん。 お母さんがくれた心と身体。雛と音符と視えない翼。
つらいこと、苦しいこと、哀しいこと――彼とならきっと乗り越えられる。
だって私の白馬の王子さまは世界一かっこいいんだから。
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拝啓
天国のお母さんへ
『私は今、しあわせです』
敬具 ≪WORLD END≫