6.妖魔対策室
リアガラスのない後部座席からは朗らかな春の空気が入り込む。
車は東京タワーのある赤羽橋を抜け、虎ノ門付近を通過すると霞が関へと行く先を進めた。
通過している桜田通りには様々な中央官庁の建物が沿線に並んでおり、独特の厳かな雰囲気を感じさせる。
街路に並ぶトチノキは臙脂と薄緑の混ざった新芽を芽吹かせて、もうすぐ訪れる新緑の季節に備えていた。
ハンドルを握る涼子は先程の荒々しい運転を慎み、優しくアクセルを踏み込んで車を走らせる。
車内はスピーカーから鳴るFMラジオの音声だけが小さく音を奏でていた。
真羅は初めて妖魔を見た後ということもあり最初は落ち着かない様子だったが、車に揺られて数分後には寝落ちしてしまった。
そんな寝息をたてて、幸せそうに眠る真羅を見てアマテラスは母のような優しい微笑みを浮かべる。
「真羅くん、疲れて寝ちゃったみたいですね」
「朝も早かったですし無理もありません。アマテラス様もお疲れでしょう?」
「いえ、私は車に乗っていただけですので……。真羅くん意外に大丈夫そうですね」
アマテラスは恐ろしい妖魔に襲われた真羅が恐怖で音を上げてしまうのではないかと少し心配していたが、そのようなこともなく平然とした態度の真羅を見て愁眉を開いた。
「そうですね。ですが彼があのことを知った時にどうなるか。そこが一番心配ではありますね」
「た、確かに……そうですね」
涼子の言葉に気付かされたアマテラスは返事も小さく首肯した。
先程の安心感は消え、その弱々しい態度には隠しきれない不安が垣間見える。
その不安を感じ取った涼子も口を噤むと目の前に見えてきた桜田門を黙って見据えた。
暫し二人が沈黙している間に真羅が目を覚ます。
彼は両手を上げて伸びをすると寝ぼけた顔で周りを見渡す。
「俺寝てたのか……。もうついたのか?」
「真羅くんおはようございます! とってもかわいい寝顔でしたよ」
「そうですね。とってもスケベな寝顔でびっくりしていまいました」
「いや、なんでスケベが出てくるんだよ! それよりここが妖魔対策室の本部か」
桜田門前の交差点の角地に立つ赤と白の円盤がついたアンテナが目を引く建物。
ここが警視庁本部庁舎だ。
建物は地上18階建てで、東京の治安を守る102の警察署の本部でもある。
そして右奥には日本の警察組織の頂点に君臨する警察庁が入る合同庁舎の建物が見える。
その二つの建物のちょうど中間に建てられた真新しいビル。
それが妖魔対策室本部の建物だ。
車を駐車場に止めると涼子が先導して案内を始めた。
10階建ての真っ白な近代的なビルには幾何学模様のように窓ガラスが配置され、正面玄関の前には大きく鮮やかな朱色の鳥居が設置されている。
鳥居の表の両脇には阿吽の口を開ける二対の狛犬、裏の両脇にはニ対の稲荷神の石像が置かれている。
真羅は子供のように建物をまじまじと見つめると感嘆のため息を漏らした。
「な、なんか不思議な建物だな。和と洋というか過去と現在というか……」
「真羅さんはスケベなだけでなく表現力にも乏しいのですね」
「いや、これをなんと言えばいいかなんてわからんだろ。アマテラスはどう思う?」
「そうですね。私は数回来た事あるので新鮮な言葉は出ませんが……強いて言うなら――ごちゃ混ぜでしょうか。絵具をべちょべちょに塗ったような感じですね」
――て、天然がいる。
真羅はそう思いながら苦笑いを浮かべる。
アマテラスはいつもどこか抜けていて、仕事先でもその天然キャラを遺憾なく発揮していた。
彼女は自分の表現に納得したのか、うんうんと一人頷いている。
「おほん。さ、さすがですアマテラス様。真羅さんにも爪の垢を煎じて飲ませてあげたいくらいです。いや全身の垢のほうがいいでしょう。そのほうが真羅さんは大喜びしそうですしね」
「真羅くん、私の垢……飲む、の?」
「おい! なんで涼子さんは俺にだけ厳しいんだよ。それにアマテラス自分の言ってることが変だと自覚しろ」
真羅は少し頭が痛くなったのを感じ、この先が不安になってきた。
妖魔対策室にいる神や人間も変わり者ばかりだったらどうしようと未知なる恐怖が彼の心に巣くっていたのだ。
3人は建物の中に入るとエレベーターで最上階へと向かう。
電子板が10階を示し扉が開くと目の前の光景に真羅はさらに驚いた。
室内は外のように明るい。
上を見上げると一面青く澄み切った空あり、床には確かな踏み心地を感じさせる茶色い土まであるではないか。
確かにエレベーターで屋上に行ったはずなのにと訝しがる真羅。
「あはは、不思議ですよね。これはまあイザナギさんの趣味みたいなもので彼が作った疑似空間みたいなものです」
「あの小屋にイザナギ様がおります。どうぞこちらへ」
涼子が目を配らせた視線の先には1件の茅葺屋敷がぽつりと佇んでいた。
案内されるままに真羅はついていく。
目視以上に距離があり、200メートルほど歩いてようやく屋敷に到着する。
涼子が4回ノックし、『失礼いたします』と木材で作られた引き戸を開けると暖炉を囲んで胡坐をかく二人の老人の姿があった。
「おー待っておったぞ」
こちらに気付いた麦わら帽子に黄色いアロハシャツを着た老人が嬉しそうに手招きをする。
もう一人の白い着物姿の長い白鬚を蓄えた老人は小さく会釈して優しい微笑みを真羅達に向けた。
「アマテラス様とその神御柱である天木真羅様をお連れいたしました」
「うむ。涼子ちゃんご苦労であった。いつ見てもエロい女教師みたいな姿をしておるな。はっはは」
「スケベ爺もとい榊菊之助様。殴りますよ?」
矍鑠とした老人と涼子のやり取りを見て小さくため息をつく真羅。
――やはり俺の不安は的中しやがった。
「まあ涼子ちゃんに殴られるのも悪くはないのだが、今日はこの二人と話をせねばならんしな」
「そうじゃぞ菊之助。お前が若い女を見るとせくはら? したくなるのは分かっておるが、それはまた今度にしろ」
「イザナギもしたいくせに俺だけに罪を擦り付けおって」
「わ、わしは神じゃぞ。そんなことせんわい。多分、絶対せんのじゃ……」
二人の爺の押し問答を呆れ顔で眺める真羅。
その様子を察してアマテラスが話を進めるように二人を促すと真羅とアマテラスは藁で作られた円座に着座した。
イザナギは白鬚を擦りながらアマテラスに向き直る。
「おほん。久しぶりじゃのアマテラス。やっと決意が決まったようでなによりじゃ」
「はい。偶然ではありましたが真羅様に付き従う決意ができました」
「偶然というよりは運命に近いと思うがのう。ほほほ」
「う、運命……。そ、そうでしょうか……」
運命という言葉に過剰に反応したアマテラスは両手で顔を抑えて体をよじらせる。
くねくね、もじもじと艶めかしく。
そんなアマテラスを見てイザナギは苦笑いを浮かべると、今度は隣にいた真羅に話を移した。
「ま、まあそれはそれとして、真羅くん。今日はいろいろ大変だったようじゃの」
「いきなり、妖魔に襲われたのだからな。銃をぶっ放したそうじゃないか」
「何というか無我夢中で、あまり良く覚えてなかったのですが無事二人を守れて良かったです」
「またこれから妖魔と戦っていくことになるが、力を貸してくれるか」
「――はい」
真羅は言い淀むことなく二人を真っすぐに見て答えた。
真羅の決意の返事に菊之助は『あっぱれ』と手を叩く。
実は神御柱となった者でも命を賭けた戦いに巻き込まれるのはごめんだと戦いから退く者も少なからずいる。
だが国が神御柱を管理すると決めている以上彼らは一般の生活に戻ることはない。
そんな者達は妖魔を退治する退魔課から離れ、サポート役の支援課や情報を収集する諜報課などに回されることになる。
祝福のムードが室内を包む中真羅は申し訳なさそうに手を上げた。
「あの、もう少しこの戦いについていろいろ聞きたいのですが」
「ふむ。なんでも聞くがいい。私とイザナギが知っていることならなんでも答えよう」
「この戦いではこちらの世界ともう一つの世界が存亡を賭けて戦っているんですよね? ですが神は死ぬことはないと聞きました。なぜそんなに神様方は力を貸してくれるのでしょうか?」
「確かにわしら神はこの戦いに負けたところで死ぬことはないし、消えることもない。例え負けたところで新しい世界がまた誕生することになる。じゃが、わしら神の記憶というものはこの世界と繋がっているのじゃ。だからこの世界が消えたらこれまで過ごしてきた記憶が消えてしまうのじゃよ。何もない無からの始まりが待っているのじゃ」
神々は己の記憶をかけて戦っているのだ。
過去に神は負けて記憶を失っている。
スサノウがアマテラスのことを曖昧な言葉で姉と表現したのにはそんな理由があったのだ。
「わしらは2000年前に敗北して記憶を無くしている。今ある日本神話の話も高天原に残る記憶の残骸をつなぎ合わして構築したもので、わしらにも本当のことはわからないんじゃ。人間にとって記憶、思い出が大切なようにわしらにとっても譲ることのできない大切なものなのじゃよ」
イザナギの言葉にアマテラスも深く首肯した。
神と妖魔は互いの記憶を賭けて戦っている。
千年戦争は千年に1回行われるため1000年分の記憶、勝てば次は2000年分の記憶となるため神々の決意も尋常ではない。
「じゃ、じゃあ今神様の記憶は2000年分しかないってこと……。ということはこの世界もまだ2000年しか経っていないってことじゃないですか?」
「そうじゃ、それ以前のこちらの歴史は我々神が作った歴史じゃ」
この世界がまだ2000年の歴史しか歩んでいないことを知り真羅は驚愕する。
「じゃ、じゃあ世界の歴史は?」
「この千年戦争は世界の神がいる地域で行われておるのは知っておるかな? この世界すべての時間はまだ2000年しか経っておらん」
「そ、そうなんですか。あともう一つ聞きたいのですがよろしいでしょうか? もう一つの世界から妖魔が来て暴れているようですが、俺たちが向こうの世界に行くことはできないのでしょうか?」
「行くことは可能じゃが、それは最終手段じゃ。今はまだその時ではない。行ったところでまだリスクが高すぎるからのぉ」
「もう他に聞きたいことはないか?」
「と、とりあえず大丈夫です」
真羅はかぶりを振り答えると菊之助はおもむろにポケットをまさぐり、1本の鍵を取り出して真羅の手の平に置いた。
「その鍵は今日から君の家となるとこの鍵だ」
身に覚えのない話に真羅は困惑した表情を浮かべると後ろに立っていた涼子が慌てて真羅の肩を叩く。
「これまた失念しておりました。今日からこちらでご用意する家に住んでいただきます」
「は? 荷物とかはどうするの?」
「そちらはすでに業者に頼んで運び出しておりますのでご安心を。ちなみに隣のお部屋はアマテラス様のお部屋になりますよ」
無表情でサムズアップする涼子を見て真羅は今日何度目かわからないため息をつく。
そんな二人のやり取りを見て菊之助はやれやれと首を振った。
「ご、ご安心をって……」
「ではお部屋に案内しますので行きましょう」
菊之助とイザナギに礼をして真羅とアマテラスは部屋がある本部から少し離れた場所に向かう。
二人が去った室内で菊之助とイザナギはお茶を啜りながら、神妙な面持ちをしていた。
「彼にはまだあのことは伝えていないようじゃの」
「そうだな。あれを知った時彼が先ほどの決意のまま我々の力になってくれるか心配ではあるの」
かくして真羅は会社の元同僚、妖魔対策室の現同僚と一つ屋根の下で生活をくることになったのだった。