神聖なる悪魔の苗床 2
朝露の乗った木の葉が、突然吹いた風にゆらゆら揺れた。
冷たい滴が、ばらばらと頭上から降ってくる。滴は服に小さなしみを作り、あるいは霧雨となって空中に漂った。わずかに湿った空気は冷たく、身体を冷やしていく。だがそれはとても清冽で、清々しいものだった。
その朝霧の中を、リゼ・ランフォードは進んでいた。波の音を右手に聞きながら、海沿いの森を東に進む。目的地は、アルヴィア唯一の貿易港メリエ・リドス。その中へ入るための裏道だ。道と言っても断崖絶壁の海面ぎりぎりの位置に突き出たでっぱりを飛び移りながら進まなければならないから出来れば通りたくないが、他に道がないのだから仕方がない。
頬を濡らした冷たい滴を拭って、茂みを掻き分けながら道なき道を進む。聞こえるものは潮騒と木々が揺れる音だけで、それ以外はとても静かだ。その静けさが心地好い。煩い連れがいないので、その静寂を破るのはせいぜい自分の足音ぐらいで――
と、背後の茂みから不穏な物音がした。
奇妙な叫び声と共に、茂みから黒い影が躍り出た。狼のような四肢を持つそれは、長い牙を剥いてリゼに襲い掛かる。しかし、魔物が喰らいついたのは人の肉ではなく、凍てつく氷の塊だった。
『凍れ』
魔物の口に叩き込まれた氷槍は、リゼの一言で瞬く間に成長し、魔物を氷漬けにした。さらに、氷の魔術に織り込まれた浄化の力が魔物の中の悪魔を滅ぼしていく。狼の魔物が物言わぬ氷の塊になるころ、今度は頭上から大ガラスが飛来した。
甲高い声を上げて啼くそれの脳天を、リゼは素早く刺し貫いた。掲げた剣の先端で、カラスがばだばだと暴れて羽を散らす。剣を引き抜き、落ちていく魔物の身体を真っ二つに斬り裂くと、黒い羽根が飛散した。舞い散るそれを振り払い、今度は真空波を作り出す。鋭いそれに斬り裂かれて、上空の魔物達がぼとぼとと落ちてきた。
『貫け』
高められた魔力は氷槍を生み出し、空を駆けて茂みから飛び出してきた魔物の胴を貫いていく。それでも勢いを殺しきれなかった一体が正面から突っ込んできたが、剣で打ち払った。黒い胴と首が別々になって、茂みの中に戻っていく。凍りついて転がった魔物の死体を蹴ってよけながら、今までと変わらない歩みで前に進んだ。
そして、進む先にある茂みの一つに、剣の切っ先を向けた。
剣の周りに氷槍を出現させようとした瞬間、茂みの陰から影が一つ現れた。魔物ではない。人間だ。それを認め、リゼは魔術を消した。
「味方を氷漬けにする気か?」
「味方なら、もっと堂々と姿を現したら?」
剣を納めながら言うと、突然現れた青年――キーネスは、腕を組んで「まあ、それもそうだな」と呟いた。
「しかし、ここで待っていて正解だったな」
「……よく私がアルヴィアにいると分かったわね。仕事が速いわ」
人の出入りがないバノッサにいたのだ。情報屋の耳に入るにしても、もう少し時間が掛かるだろう。だから迎えを待つよりも、メリエ・リドスに向かった方か速いし行き違いにはならないと思ったのだ。
「いや、あの辺りの潮の流れを考えて、流れ着くとしたらアルヴィアのどこかだろうと踏んだだけだ。それに、さすがに生存を疑っていた。船に乗っていた俺達ですら、何度も沈没しかけて死にそうになったんだからな」
「でもその分だと、船に乗っていた人は無事みたいね」
「ローゼンも救出した子供達も全員無事だ。何とかサーフェスに戻った後、俺とローゼンはメリエ・セラスからここに来た。到着したのは一昨日だ」
そう言うと、キーネスはリゼに背を向けて、すぐそこにある裏道へと足を向けた。
「ローゼンは役場にいる。詳しい話はそこでする。行くぞ」
港町メリエ・リドスは相変わらず賑やかな場所だった。大通りの並ぶたくさんの露店に、以前と同じく大勢の買い物客が列をなしている。年月の移り変わりにより店頭に並べられているものは以前とは異なるが、露店の賑やかさは変わらない。賑やかすぎて、むしろ騒々しいぐらいだ。メリエ・セラスほどではないにせよ、静けさとは程遠い。
が、それ以上に騒々しい人物がいた。
「リゼー!! 無事で何よりですわー!」
「……抱き着かないでよ」
市長室に入るなり抱き着いてきたティリー・ローゼンに、リゼは嘆息しつつ呟いた。うっとうしいし暑苦しい。さりとて引っぺがすのも苦労しそうなほどがっちり抱きついてくるので、やむなくそのまま放置する。ティリーはそれをいいことに思う存分密着してきた。
「こいつはたまげた。あんたまで内海で漂流して無事とは」
メリエ・リドス市長ゴールトンは、執務机の向こうで酷く感心した様に言った。市長よりも戦士の肩書が似合いそうな偉丈夫は髭を生やし始めたらしく、微妙に悪人面になっている。だがその声音は陽気な壮年男性のもので、子供の面倒を見る父親のような気安さもあった。
「運が良かったのよ。たぶんね」
そっけなくそう言ってから、リゼは市長室の中に視線を巡らせた。部屋の中にいるのは、ティリー、ゴールトン、そして入り口の横にキーネス。他は誰もいない。
「アルベルト……とゼノは?」
二人の姿が見当たらない。ティリー達と一緒にいてくれたらと期待していたが、やはり行方知れずなのか。リゼと同じで船が爆発した時は追跡艇から遠い位置にいたのだから、船に辿り着けたはずがないとは分かっている。それならせめて漂流して、どこかに流れ着いていればいいのだが――
するとリゼの質問に、ティリーは遠い目をしてため息をつきながら答えた。
「あーそれはですね。シリルのことも含めて運がいいのか悪いのか分からない状態で……」
「……どういうこと?」
奇妙な発言に、リゼは顔をしかめた。口ぶりからして二人の行方を知っているようだが、どうやら喜ばしい状況ではないらしい。それも、シリルのことも含めて。嫌な予感がしていると、ティリーの代わりにキーネスが話し始めた。
「まずシリル・クロウの行方だが、あの替え玉の子供がクロウからの伝言を預かっていた。その証言を信じるなら、悪魔教徒達はスミルナにいる」
替え玉の子供。悪魔教徒達が追手の目を欺くため、いつの間にかシリルとすり替えていた子だ。どうやらすり替えの時、一時接触があったらしい。
「子供の証言によると、クロウは『悪魔教徒達が教会に行くと言っている』と自分に告げ、『その教会は多分スミルナのことだ』と言っていたそうだ。どうやら奴らの会話を盗み聞きしたらしい」
「その証言、確かなの?」
替え玉の子供が嘘をついているか、悪魔教徒達がわざと嘘を聞かせた可能性もある。そう言うと、キーネスは机の上にあった何かを取り上げた。小さな、掌に収まる程度の大きさのものだ。
「これが数日前帰港した貨物船の倉庫に落ちていた」
キーネスが投げて寄越したのは、薄汚れた小さな袋だった。特に変わったものはない。見た目は何の変哲もない麻袋だ。口は紐を巻いて縛ってあったようだが、今は解かれている。
袋をひっくり返すと、中から出て来たのは五芒星が描かれたマラーク教の聖印だった。銀色に磨かれた円盤が明かりを受けて鈍く光っている。わずかに感じられるのは悪魔祓い師の悪魔除けの術の力だろうか。簡素な麻袋の中で、聖印は輝いていた。
しかし入っていたのは聖印だけではない。細長い布の切れ端が、遅れて袋の中から滑り出てきた。どうやらハンカチをちぎったものらしい。端がほつれて糸が出ている。その細長い布の表面には、炭らしきものでこう書いてあった。
『スミルナへ。C・C』
「――シリル・クロウ、か」
同じ文字が二つ並んだイニシャルを見て、その文字が表すであろう名前を呟いた。
「クロウの筆跡だ。どうやら俺達にそれを伝えたかったようだな」
取り上げられて捨てられる可能性を考えて、こうやってメッセージを残したのか。それだけシリルは必死だったのだろう。開けてはいけないと言われたお守り袋を開けて、メッセージを仕込もうと考えるぐらいには。
「これで少なくとも、クロウはアルヴィアにいる可能性が高いことが分かった。今はこの街の情報屋に頼んでクロウらしき人物がいなかったか調べているところだ」
キーネスのその言に、
「この街に金髪の上品そうなお嬢ちゃんがいたら目立つからな。さすがに顔を隠すぐらいのことはしているだろうが、背格好がそれぐらいの身元不明の子供の目撃情報がいくつか上がっているようだ」
ゴールトンが一枚の資料を見ながらそう言った。ということは、シリルと悪魔教徒の行先はスミルナだと考えていいということか。
「それで、アルベルトとゼノは?」
「……居所は掴んでる」
キーネスは苦虫をかみつぶしたような表情で言った。
「スミルナ教会地下牢だ。運悪くスミルナの貧民街に流れ着いたらしい」
スミルナの教会地下牢?
その単語に、リゼは驚くと共に先程のティリーの台詞に納得した。なるほど。運がいいのか悪いのか分からないというのはこういうことか。
彼らは教会に捕まっているのだ。悪魔堕ちした悪魔祓い師と、密入国した異教徒として。
「見方を変えれば、シリル救出とアルベルト・ゼノ救出が同時に出来て手間がかからないとも言えるんですけど……ってそこまで簡単なことでもないですわね」
そう簡単にはいかないだろう。スミルナ教会の警備はそこまで緩くはないだろうから。シリルを助けて、アルベルトとゼノまで救出するのは難しい。優先すべきなのは――
「……スミルナに悪魔召喚が出来そうな広い場所はあるの? 例えばスミルナの地下に水道なり洞窟なりがあるとか」
まさか街中に召喚魔法陣を描いたりしていないだろう。となれば、悪魔教徒達はマリークレージュのように地下に潜んでいるに違いない。スミルナは大都市で地下水道があってもおかしくないから、そこにいるのではないかと思うのだが。
「スミルナの地下には巨大な洞窟があるという噂だ。街から出る下水は、下水道ではなく全てそこに流して、海に捨てているらしい」
「らしい……?」
「教会が街の防衛のためと称して、詳しいことは全て秘匿しているんだ。だから一般市民は地下洞窟があるらしいということしか知らない。情報屋も洞窟のことはほとんど調べられていない。海の中に洞窟の入り口があることが分かっているくらいだ」
なら、入ることはできても内部構造は分からないということか。海の中なら排水溝から侵入するのも無理そうだ。ということは、やはり地上から街に入るしかない。
「じゃあ、スミルナに忍び込む方法は? 裏道とかないの?」
リゼは指名手配されている身だ。正面から堂々とは入れない。穏便に侵入する方法があればいいのだが、
「そんな都合のいいものはない。顔を知られていないならともかく、指名手配犯は無理だ。ただでさえ今のスミルナは、年明けの祭典のために警備が厳しくなっている。汚水の流れを遡る勇気があるなら、海底洞窟から侵入する手はあるがな」
さすがに汚水の中を潜るのはごめんだ。やはり街に入る方法は限られているらしい。
「なら、方法は一つね」
あまり気は進まないが、これしか方法がないなら仕方ない。愚図愚図していては悪魔教徒達が召喚を始めるかもしれないのだ。そうなったらマリークレージュの二の舞になる。手段を選んではいられない。そう思っていると、突然、
「……あの、リゼ?」
恐る恐る、といった様子で、ティリーが口を開いた。
「貴女まさか、真正面から堂々と入ろうとか考えてませんわよね?」
「他に何があるの?」
即答すると、ティリーはやっぱりと呟いてがっくりと肩を落とした。
「そりゃ教会に捕まれば地下牢まで行けますけど……」
「捕まってどうするのよ。門を突破して街の中に入れればいいだけなのに。それに向かうのは地下牢じゃなくて地下洞窟よ」
「どちらにしても駄目です!! 教会には悪魔祓い師が山のようにいるんですのよ!?」
「ラオディキアの悪魔祓い師は悪魔祓い師長以外、私一人で十分だったわよ」
悪魔祓い師どころか騎士もいたが、誰も彼も馬鹿みたいに特攻してくるだけ。魔術を使えば怯えるか驚くかで統率もろくにとれていなかった。悪魔祓い師長のセラフとかいう奴はさすがに強かったが、それ以外は有象無象だ。だからスミルナとて同じ。そう言うと、ティリーはわざとらしく頭を押さえてよろける仕草をした
しかしそれとは対照的に、豪快に笑ったのはゴールトンだった。彼は一しきり笑ってから、楽しそうに目を細めてリゼを見た。
「全く剛毅な嬢ちゃんだ。しかしな、神聖都市の悪魔祓い師は首都に近付くほど高位の者が配置されるようになる。ラオディキアは七つの神聖都市の末端。対してスミルナは聖都エフェソの一つ前、二番目の都市だ。ラオディキアの悪魔祓い師とは格が違うだろう」
よくぞ言ってくれましたというように、隣でティリーが何度も頷く。ゴールトンの話の通りなら、正面から殴り込みをかけるのも一苦労ということか。ならどうしろというんだ。
そう思っていると、不満げな表情のリゼはと裏腹ににやりと笑ったゴールトンが、驚くべきことを言った。
「心配しなさんな。正面から堂々と入る方法はある」




