真に救われるべき者は 11
「これでようやく出発出来るな!」
少ない持ち物を整理しながら、ゼノ・ラシュディは勇んで言った。
ゼノがいるのは、ある街の隅にある今にも倒れそうな廃屋の中だった。床はなく、地面は剥き出し。故に寝ていると地面からじかに冷気が伝わってきてとても寒い。窓枠はあるがガラスはないし、風が吹き抜けるたびに小屋全体がギシギシ鳴る。そんな場所であるが故に、お世辞にも快適とは言えなかったが、一週間ほど世話になると、不思議と愛着のようなものが湧くものだとゼノは思っていた。もちろんもっと泊まりたいかと聞かれたら、速攻でいやいいですと答えるが、それとは別に、長く一か所に留まると馴染んできて、出発するとなるとほんのちょっぴり名残惜しさが湧いてくるのだった。本当に、ほんの少しだけだけれども。
そもそもこんな廃屋に一週間も泊まることになったのは、悪魔教徒を追いかけて船上で戦った後、マストが倒れた衝撃で吹っ飛ばされて海に落ちたせいだった。それも、奇跡的に無事だったボートを運よく見つけられて溺死を回避できたのは良いものの、嵐と潮流のせいで追跡艇にも戻れず、そのまま漂流する羽目になった。終始曇り空で方向もろくに分からず、潮の流れに逆らうこともできず、内海を漂流すること数日間。普通の船でも転覆するような嵐が多発する割に、漂流中の天候はさして悪くなかったのは僥倖だったが。よりによって、ようやくたどり着いた場所が悪かった。
北の方を見ると、白い壁で囲まれた白亜の建物が目に入った。外壁にはたくさんの彫刻が施され、尖塔は天高く空に伸び、てっぺんの十字架が陽光を受けて光っている。巨大な円形の窓には色鮮やかなステンドグラス。周囲には小型の尖塔がいくつも立てられ、中央の建物とアーチで繋がっている。それもまた細かい装飾が施されていて、あれを作った建築家はとにもかくにも模様をつけないと気が済まない病気にでもかかっていたのだろうかと思うほどだった。ミガー王都の王宮とて派手で凝った造りだが、あそこまでではない。アルヴィアの教会の趣味は、全くよく分からなかった。
数日間の漂流の後に辿り着いたのは、あろうことかミガーではなくアルヴィア帝国、それも神聖都市スミルナだった。正確には流れ着いたのは貧民街の方で、スミルナの敷地外ではあるのだが、教会はほぼ目と鼻の先である。せめてすぐ近くのメリエ・リドスに着ければよかったのに、何の因果かこのざまだ。運がいいのか悪いのか分からない。
と、貧民街の着いた直後はそう思ったのだが、実際の状況はそれほど悪くなかった。貧民街の人達は漂着したゼノとアルベルトを快く迎え入れてくれて、宿まで提供してくれたのである。宿といっても廃屋だったが、雨露を凌ぐには十分で、二人はありがたく使わせてもらうことにした。財布をひっくり返して食料を手に入れることもできて、漂流で疲れ切った身体を休ませることもできた。
だが、こんなところでゆっくりしている場合ではなかった。速くシリルを探しに行かなければならないのだ。
「昨日話した通り、まずはメリエ・リドスに行く。それでいいか?」
すでに出発の準備を終えていたアルベルト・スターレンが確認するように言った。それに対し、ゼノは首肯する。
「俺達二人だけじゃシリルを助けられないもんな。まずは皆と合流だ」
内心では、今すぐにでもシリルを探しに行きたい。だが船上での悪魔教徒との戦いから、一人二人ならいざ知らず、何人も来られたらたった二人では太刀打ち出来ないだろう。猪突猛進するきらいのあるゼノも、さすがにまず仲間と合流する方が合理的だと思ったのだ。
といっても、アルベルトに説得された結果ではあるが。
「じゃあ行こうぜ! ――あ、でもその前に、ディックさんに挨拶とお礼をしとかないとな」
ディックはゼノとアルベルトにこの廃屋を提供してくれた人である。悪魔憑きの親を抱えているにも関わらず、何かとゼノ達に便宜を図ってくれた。おかげで随分助かったので、出来る限りお礼をしたいところだ。といっても、所持金は残りわずかなので、大したことは出来ないのが悔やまれるが。
「そうだな。今なら家にいるだろうし、行こうか」
そう言って、アルベルトは廃屋の扉へ向かう。ゼノも荷物を背負いなおすと、アルベルトの後に続いた。
しかし数歩もいかないうちに、突然アルベルトは足を止めた。ぶつかりそうになったゼノは、大げさによろめきながら立ち止まる。別に、扉の前には何もない。押し黙ったまま動かないアルベルトを不思議に思いながら、ゼノは問いかけた。
「アルベルト、どうした?」
「――誰か来た」
簡潔な返答に、ゼノは戸惑いながら周囲の気配を探った。確かに、廃屋の外に誰かいる。それも、『誰か』どころではない。これは多分、相当な人数だ。一体何があったのだろう。お祭りでもあるのか?
「――誰が来たんだ?」
「分からない。でも、これは……」
その時、凄まじい音と共に、廃屋が吹っ飛んだ。
元から建っているのもやっとな建物だったが、突然の攻撃で根元からバラバラに破壊された。木片が飛び散って転がり、鋭く尖った木片のいくつかは爆風に押されて次々と地面に突き刺さる。柱代わりの丸太が軽々と宙を舞い、巻き上がった砂埃がそれに追従した。さらには礎石までもが吹き飛ばされ、地面に落ちてぱっくりと割れる。ほんの一瞬のうちに、廃屋は竜巻にでもあったかのように完全に破壊されてしまった。
そんな中にあって、ゼノとアルベルトは怪我一つ負わなかった。どうやら廃屋が吹っ飛ぶ瞬間、アルベルトが防御壁を張ったらしい。廃屋を破壊した爆風と、飛び散った木片がぶつかっていたら、大変なことになっていただろう。アルベルトに先に行って貰ってよかった……と安堵しつつ、ゼノは何が起こったのかと周囲を見回した。
そして、事態を把握してぴたりと静止した。
吹き飛ばされた廃屋の周りを、輝く銀色の鎧が囲んでいる。鎧が日の光を反射して、目が痛いほどだ。彼らの手にあるのは、鎧と同じ銀の槍や剣。胸には五芒星の紋章。同じ模様の旗が、風にたなびいている。その中でただ一人、杖を担いだ若い男だけが、銀の刺繍が施された黒いローブを身に着けていた。
悪魔祓い師だ。
廃屋を囲む教会の守護騎士達。それを率いる悪魔祓い師。これは大変まずい状況だ。いつの間にか、ゼノとアルベルトのことが教会まで伝わっていたのだ。以前聞いた話ではアルベルトはこっちで指名手配されているらしいし、ゼノはミガー人。間違いなく密入国扱いになる。漂流したせいだなんて、彼らは聞きやしないだろう。このままでは、二人そろってお縄になってしまう。強行突破するしかないか。そう考えて、ゼノは覚悟を決めた。
問題は、あの悪魔祓い師だ。騎士だけでも多勢に無勢なのに、悪魔祓い師の実力は騎士より上。しかも彼らは神の力で炎や雷を操ることができるらしい。先程廃屋を破壊したのもこいつだろう。ゼノはさすがに悪魔祓い師と抗戦したことはないが、要するに魔術師を敵に回すようなもの、厄介なことこの上ないものだと考えている。はたして、強行突破できるだろうか?
「よぉ、アルベルト。久しぶりだな」
すると突然、悪魔祓い師は、知り合いに呼びかけるような気安さで、アルベルトにそう言った。アルベルトの方は険しい顔をして、悪魔祓い師を見つめている。この二人は知り合いなのか? 二人を見比べながら、ゼノはそう思った。
この分だと、ロクな知り合いではないのだろうけど。
重い、沈黙が降りた。風が吹き抜け、砂埃を舞い上げ、小さな木片が転がっていく。教会の旗がたなびき、悪魔祓い師の白いローブがゆらゆらと揺れる。そしてその風が収まった時、アルベルトによって、沈黙は破られた。
「ウィルツ……」
アルベルトが呟くように名前を言うと、悪魔祓い師ウィルツは小馬鹿にしたようにニヤリと笑った。




