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Savior 《セイヴァー》  作者: 紫苑
悪魔教徒編
94/177

真に救われるべき者は 8

「な、何を……」

「動かないで」

 わざと低い声で言うと、荒事には慣れていないのか、クリストフは青い顔をして固まった。下手に反撃されたら氷漬けにしなければならなくなるから、大人しくしてくれるのはありがたい。さすがに助けてくれた恩人を氷漬けになどしたくなかった。

「時間がないからさっさと答えて。あなたはあの男性以外、誰かに悪魔祓いをした?」

 問いかけると、クリストフはおびえながらもすぐに答えた。

「い、いいや。していない。悪魔祓いをしてから、ずっとここで祈っていた」

 嘘ではないだろう。嘘をつくメリットもない。あの男性以外悪魔憑きはいないし、そうすぐに取り憑かれたりしないから当然だが、他の人間に術を使っていなくて安心だ。もし町の人達があれを知ったら、パニックになるかもしれない。

「それが一体――」

「黙ってろ」

 リゼの質問にクリストフは疑問を抱いたようだが、説明している間が惜しい。リゼは一言でクリストフの台詞を封殺し、目を閉じて意識を集中させた。

『虚構に棲まうもの。災いもたらすもの。深き淵より生まれし生命を喰らうもの』

 ゆっくりと唱えると、足元に魔法陣が出現した。空気が渦巻き、魔力が風を起こす。幾何学模様が描かれた光の帯が、クリストフを取り巻いた。

『理侵す汝に我が意志において命ずる。彼の者は汝が在るべき座に非ず。彼の魂は汝が喰うべき餌に非ず』

 渦巻く光の中、クリストフは苦しげな表情をした。光の帯が近づくたび、身体を振るわせ、膝をつきそうになる。その彼の身体の中には、黒いものが蟠っていた。

「やっぱりその力、ロクなものじゃなかったようね」

 どうやってこの力を得られたのだろう。クリストフに取り憑き、悪魔祓いの力を与えていたのは、悪魔だった。いや、本当は悪魔を祓ってなどいない。そんな風に見えただけか、一時的に離れさせただけだろう。あれを見た以上、そうとしか思えない。

 だから、さっさとクリストフの悪魔を祓ってしまわなければ。

 リゼはさらに魔力を集中させると、中断していた術を再開した。

「待て! この力があればたくさんの人を救えるんだ! これから救っていくことが出来るんだ! だから奪わないでくれ!」

 クリストフはリゼが何をするつもりなのか察したらしい。光の帯の中から必死に懇願する。だが無理だ。悪魔の力(そんなもの)で人は救えないのだから。少なくとも、今クリストフの持つその力で、悪魔憑きは救えない。

 救えるはずが――

 その時、すさまじい音と共に、部屋の扉が蹴り開けられた。振り向く間もなく、飛び込んできた人物に突き飛ばされる。バランスを取り損ねてよろめき、膝をつきそうになったが、何とか体勢を立て直した。顔を上げ、先程まで自分がいた場所を見ると、そこには息を切らしたテオが、クリストフを庇うように立っていた。

「兄を殺さないでくれ」

 絞り出すように、テオは言った。

「恨むなら僕を恨め。兄は関係ない。責任があるのは僕だ」

 クリストフを庇うように両手を広げたまま、テオは必死に懇願する。確かにクリストフの喉元に剣を突きつけているこの状況を見たら、そう思ってしまうだろう。だがもちろん、リゼにそんなつもりはない。まさかテオが来るとは思わなかったが、こうなったら説明するしかない。

「違う。その人を殺すつもりなんて欠片もないわ。もっと別の、重大なことよ。あなたの兄は――」

 悪魔に取り憑かれているのだ。悪魔祓いの力は偽物なのだ。そう言って、クリストフは納得するだろうか。おとなしく悪魔祓いを受けるだろうか。テオは納得するかもしれないが、クリストフはそれでもいいと悪魔祓いを拒否するのではないか。例え悪魔の力でも、悪魔憑きを救えるならそれでいいと――

「テオ。やはりお前が、ソフィアさんに毒を盛ったのか」

 不意に、クリストフが静かに言った。何故今その話を? 突然のことでリゼは面食らい、掛ける言葉を失ってしまう。しかしそれ以上に、兄に疑惑を向けられたテオは狼狽え、驚きの表情を見せた。

「違う! 僕は毒を盛ってなんていない! 兄貴、信じてくれ! そんなことは考えたこともないんだ!」

 首を振って、テオは必死に否定する。だがクリストフに信じる様子はない。

「なら何故自分の責任だなんて言った? 何故自分を恨めと言ったんだ」

 と、厳しい口調で問い詰める。テオは兄に信用されていないことを悲しみつつも、呟くように答えた。

「ソフィアさんが兄貴を殺すんじゃないかと思ったんだ……毒を盛られたのを、兄貴の指示だと思い込んだんじゃないかと……」

「毒を盛ったのを、俺のせいにするつもりだったのか」

 思いがけないことを言われて、テオの顔からさらに血の気が引いた。

「違う……なんでそう思うんだ? そんなことは言ってないのに!」

 否定するが、クリストフは無言のまま、冷ややかな目でテオを見下ろしている。それは、弟を見る兄の目ではなかった。

「どうやって地下から抜け出した。誰の手引きだ」

「手引きだなんて。ララが僕を呼んだんだ。鍵も開けてくれた! 兄貴の身が危ないからと……」

「ララを利用したのか。あんな幼い子を、騙して鍵を取らせたのか!」

「違う! ララは兄貴を助けたがってた。一人じゃできないから、僕を頼ってきただけだ。利用してなんていない」

「嘘を言うな。お前がそう思うよう仕向けたんだろう」

 会話になっていない。クリストフはテオが悪いと思い込んで、弟の全ての発言を曲解し、こじつけている。

「お前は悪魔憑きがどうなってもいいんだろう。悪魔憑きが目の前で苦しんでいても平気なんだろう。お前は――」

 ぶつぶつと呟きながら、クリストフは弟を睨む。その瞳は冷たく、怒りと憎しみを宿していた。それだけではない。悪魔憑きであることを示す赤い色が、彼の茶色の瞳を覆い尽くそうとしていた。

 悪魔は甘言を囁き、人の心に毒を吹き込む。信頼には疑惑を。愛には憎しみを。甘言に囚われた人間には、親しい者の言葉すら届かない。

 悪魔はそうやって、取り憑いた人間を孤独に追い込むのだ。

「テオ。聞いて」

 硬直しているテオに、リゼは囁きかけた。彼は夢から覚めたように、はっとして顔を上げる。

「落ち着いて聞いて。今、あなたのお兄さんは悪魔に取り憑かれてる。あなたの話を聞かないのも、悪いと決めつけているのも精神汚染が進んでいるせい。だから何を話しても無駄だし、真に受けない方が良い」

「……! そ、それは本当なのか……?」

 リゼの言葉に青ざめて絶句するテオ。彼の問いかけにリゼは頷いた。テオはさらにクリストフの瞳の色を見て、それが嘘でも夢でもないことを理解したらしい。愕然とした様子で呟いた。

「一体いつから?」

「たぶん悪魔祓いが出来るようになった時。つまり今日の昼間よ。クリストフは天啓を受けて悪魔祓いの力を授かったと言っていた。でも本当は天啓なんかじゃなかった。彼に囁きかけたのは神じゃない。悪魔よ」

 あるいは、以前から取り憑かれていて、今日になって悪化したのかもしれない。悪魔祓いが出来ないことを思い悩み、力を持たない自らを責めたために。悪魔はその負の感情に、弱った精神に引き寄せられ、これほど速くクリストフを蝕んだのかもしれない。

「でも、兄貴には神から授かった聖なる力があるはずだ。なのになんで悪魔に取り憑かれてしまったんだ……?」

「いいえ、あれは聖なる力なんかじゃない。マラークの神とは関係ない、生まれつき備わった能力よ。――お隣の国に行けばいくらでも見られる類の、ね」

 その言葉の意味を、テオは理解したのだろうか。彼ははっとして、兄を凝視した。

 悪魔祓い師が悪魔に取り憑かれたなんて話は聞かないから、神から聖なる力を授かっていれば、悪魔に取り憑かれることはないのかもしれない。だがクリストフの力は神の力ではなく魔力だ。クリストフの魔力で悪魔憑依は防げない。

「テオ、お前はどうしてあんなことを……」

 よろめくように一歩前へ出たクリストフの周りに、黒い靄が現れる。思ったより悪化のスピードが速い。急がなければ。

「悪魔に取り憑かれたなんて、それじゃどうしようも……」

「諦めるのは速いわよ。まだ彼を助けられる。悪魔を祓いさえすればね。悠長に祈ったって救われない」

 クリストフに悪魔祓いの術は使えない。しかしリゼには出来る。これで彼を救える。不確実な祈りではなく、確実な魔術という力で。

「どうすればいい?」

 隣で、テオはぽつりとそう言った。

「僕はどうすればいい? 何を手伝えばいい? どうやったら兄を救える?」

「そうね。クリストフが逃げようとしたら阻止して」

「わかった」

 どうして悪魔を祓えるんだ、とは訊かなかった。訊いている場合ではないと思ったのかもしれない。テオは身構えると、兄の様子をうかがった。

 しかしその時、テオの背後に人影が忍び寄った。重そうな椅子が脳天に振り下ろされる前に、彼の腕をつかんで引き寄せる。椅子は床に激突して、木片を散らしながら半壊した。

「こ、この人は……!?」

 立ち上がりながら、自分を襲った男を見たテオは、驚いて息を飲んだ。

 襲撃の犯人はあの悪魔憑きの男だった。ただ男の外見は、朝方見た時より大きく変わっている。肌は青白く、ますます痩せこけ、異様な雰囲気を纏っている。見開かれた両の目は赤く染まり、千鳥足なのに重量のある礼拝堂の椅子を片手で軽々と持ち上げていた。

「この人、悪魔は祓われたんじゃ……」

「いいえ、たぶんそう見えただけ。この人自身も祓われたと錯覚しただけ。この分だとむしろ悪化しているわね」

 クリストフの悪魔祓いが一体どんな様子だったのか分からないが、普通の人に悪魔は見えないし感じられないのだから、一見して普通の状態になれば治ったと思うだろう。一時的に抑え込んだのか、それとも暗示をかけたのか、取り憑かれている当人ですら治ったと思ったのだ。しかし実際は、より悪魔憑きが進行してしまったようだ。

 それにしても、暴れて悪魔祓いを邪魔されては困るから部屋の閂を掛けたのに、どうして出てこれたのだ。物音がしなかったから、無理矢理開けたのではない。どうやら閂が外されているらしい。一体誰がやったのだ。今この礼拝堂には、この男以外三人しかいないのに。

 しかし、四人目の姿を探している暇はなかった。奇声を上げながら悪魔憑きの男がつかみかかってきたのだ。後ろに下がってそれを避けると、男は勢い余ってよろめき転んでしまう。しかし男はそのままリゼを無視して、その先にいたテオの元へ向かった。

 男の目的が自分だと知って、テオは一瞬戸惑ったらしい。迷ったように辺りを見回していたが、すぐ何かを思い立ったように男に背を向けて走り出した。その後を、悪魔憑きの男が奇声を上げながら追いかける。テオの逃げる先には、クリストフが黒い靄を纏わせ、ぼうっと立ち尽くしていた。

 テオの意図を理解したリゼは、すぐにクリストフの元へ向かった。複数人の悪魔祓いをするためには、当然のことながら、悪魔憑き達が同じ場所にいる方がやりやすい。クリストフと悪魔憑きの男。テオは二人を一か所に集めようとしてくれているのだ。

 しかしその時、クリストフは走り来るテオに向けて、右手を差し出した。右手に収束していくのは黒い靄とクリストフ自身の魔力。二者は交じり合い、人の頭ほどある球体を作り上げた。狙いは、テオだ。

 テオはそれに気づいたが、今さら方向転換は出来なかった。彼が方向を変えようとしたとき、球体から黒い波動が迸る。そのまま波動はテオを吹き飛ばそうとしたが、その前にリゼが割り込んで、剣に魔力を集中させた。

 剣に集まった魔力は楯のように広がって、黒い波動を弾き、そらした。波動は柱の一本にぶつかって、中央の部分を消し飛ばす。第二波がないことを確認したリゼは、すぐに身を翻してしゃがみこんだテオを飛び越えると、後ろから迫ってきた悪魔憑きの男の背に蹴りを食らわせた。男はもんどりうって吹っ飛び、クリストフの近くに倒れ伏す。間髪入れず、リゼは悪魔祓いの術を発動させた。

 二人の悪魔憑きの足元に、魔法陣は広がった。現れた光の帯が二人を捕らえ、体内の悪魔を縛り上げる。悪魔憑き達は苦しみ、魔法陣の中で膝をついた。

「た……すけてくれ……!」

 光の中で、クリストフはそう言って手を伸ばした。その先にいるのはテオだ。兄が助けを求めているのを見て、テオは驚きながらもふらふらと前へ出る。

「兄貴……?」

「惑わされないで。あれは悪魔がやってるのよ」

 クリストフに近づこうとしたテオに、リゼは叱責を飛ばす。悪魔祓いの術中にあっても、しぶとく抜け出そうとする悪魔はいる。そういう時、悪魔はああやって、宿主とは別の人間を誑かそうとするのだ。

「失いたくない……この力があれば……救うことが……」

 切れ切れに呟きながら、魔法陣の外に出ようとするクリストフ。しかし、外には出られない。魔法陣から立ち上る光の壁に縋り付き、助けを求めて弟に手を伸ばす。しかしテオはそれに応えることなく、静かに言った。

「兄貴、その力じゃ救えないよ。その証拠に、その人は悪魔に取り憑かれて苦しんでる」

 するとテオの言葉が届いたのか、クリストフは焦点の定まらない目で傍らで呻く悪魔憑きの男を見た。たった今、その男の存在に気付いたとでもいうように。

 今の今まで、その男の存在を信じたくないがために知らないふりをしていたとでもいうように。

『――疾く去り行きて消え失せよ』

 最後の文言と共に、悪魔祓いの術が完成した。眩い虹色の閃光が迸り、二人の男の体内に居座る悪魔をあぶりだしていく。黒い靄が立ち上り、悪魔憑きの身体を離れ、光の檻の中に蟠った。

 だが悪魔はしぶとかった。浄化の光に囚われてもなお、そこから抜け出し、宿主の元へ戻ろうとする。黒い波動を纏わせ、浄化されるまいと抵抗した。

 その上、それに応えるように、クリストフは真上の悪魔に手を伸ばした。まだ悪魔祓いの力を求めているのか。そんなものはないのに。

「クリストフ!」

 術を強めながら、リゼは叫んだ。

「いい加減にしろ! その力で悪魔憑きは救えない!」

 その瞬間、クリストフは手を止めた。悪魔はそれを嘆くように、光の檻の中で蠢動する。さらには術を破壊しようと黒い波動を迸らせたが、そうはさせじと、リゼはさらに魔力を集中させた。

『消え失せろ!』

 高められた魔力が波動を打ち消した。悪魔祓いの光は悪魔を取り囲み、縛り上げて浄化していく。そして次の瞬間、悪魔は断末魔の悲鳴を残して、完全に消滅した。

 光は消え、礼拝堂に再び静寂と暗闇が残った。どこにも悪魔の気配がないことを確認し、リゼは安堵のため息をつく。

「兄貴は……?」

「無事よ。そこの人もね」

 不安そうなテオにそういうと、彼は安堵したらしい。ほっと胸をなでおろし――すぐに不思議そうな顔で、リゼを見つめた。

「でも、あなたはどうしてそんな力が……?」

 さあ、どうやって説明しよう。何かしら言われるのは覚悟の上だが、正直に説明した方がいいのかどうか。なんにせよ、テオは怒るだろうけれど――

 その時、不意にぞっとするような気配を覚えた。悪魔は祓ったはずなのに、強力な悪魔の気配がする。すぐ近く、この礼拝堂の中に。それに気づいて、リゼは再び剣を構えた。

 すると突然、テオが目を見開いて硬直した。

 糸が切れた人形のように、テオは床に倒れ伏した。苦しげに呻き、痙攣している。その背中には、何かが刺さっていた。

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