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Savior 《セイヴァー》  作者: 紫苑
悪魔教徒編
93/177

真に救われるべき者は 7

 次に目が覚めた時、日はとっくに暮れ、部屋の中は薄闇に覆われていた。

 起き上がって周りを見回してみたが、部屋の中には他に誰もいない。薬湯の椀は誰かが片づけたのか、汚れもなく綺麗だ。

 喉が焼けるように痛い。薬湯に混ぜられていた何かのせいだ。発熱しているのか少し身体が熱い。ほとんど吐き出していてもこれなのだから、大量に飲んでいたらもっと酷いことになっていたかもしれない。

 リゼは痛む喉に手を当てると、擦れる声で術を唱えた。癒しの術が発動して、喉の痛みを癒していく。やがてそれは、小さな違和感を残す程度に治まった。軽い眩暈はするが、すぐ治まるだろう。そう思っていると、不意に、異変に気が付いた。

 なんだこれは。

 悪魔の気配だ。今、この町に悪魔憑きは一人しかいないはずなのに、濃い悪魔の気配がする。それもすぐ近く、とても強力な奴が――

 あの悪魔憑きの男の症状が悪化したのか? いや、それにしては強すぎる。あの男に取り憑いていた悪魔とは桁違いに強い。リゼがベッドから飛び降りて部屋を出ようとすると、その前に扉が開いてアンが飛び込んできた。

「ソフィア殿! 目が覚めたんですが? 身体は大丈夫ですか?」

「アン……何が起きたの?」

 アンの質問には答えず、逆に聞き返すと、アンは少し考え込んでから、意を決したように言った。

「また奇跡が起きたのです」

「奇跡?」

 怪訝に思って尋ねると、アンはすぐに説明を始めた。

「朝方にいらっしゃった新しい入信者の方が、あの後もう一度悪魔祓いをとおっしゃられたのですが、神父様は祈りの積み重ねによるものだからと諌められました。しかし、相手の方も譲らず、見捨てないでくれと主張なさり――」

 当然だ。死にかけているのに、祈れと言われても納得できないだろう。ましてや救われた人間がすぐそこにいるのだから。しかしクリストフはどうしたのだ。彼に悪魔祓いはできない。どうしようもないはずなのだが……

「神父様は礼拝堂に籠られ、長い間悩んでおられました。礼拝も中止になって……けれど、夕刻前になって神父様は礼拝堂から出てこられました。とてもすがすがしい表情で、すぐに新しい入信者の方の元へ向かわれて――」

「向かって、どうしたの」

「神父様が悪魔を祓ったのです」

 耳を疑った。

 そんなことが出来るのか。クリストフは悪魔祓い師ではない。話を聞く限り悪魔祓い師であったこともない。まさか魔術か? いいや、突然そんなことが出来るようになるとは思えないし、彼にそこまでの魔力はないはず。

「本当です。神父様が『悪しき霊よ。立ち去れ!』と命じられた途端、悪魔憑きの方は正気に戻られました」

 信じられない話だ。クリストフが悪魔祓いを? 彼がそんなことできるはずがない。まさか本当に聖なる力を授かったのか? なら、この悪魔の気配はなんなのだ?

 たった半日の間に、バノッサで何が起こったのだ?

「――アン、井戸はどこにあるの」

「井戸……ですか?」

 突然なにを、という風に首をかしげるアン。その彼女に、リゼは言った。

「喉が渇いたけど、薬湯を飲んであんなことになったんだから、他人が用意した飲み物は怖くて口に出来ない。悪いけど自分で用意したいの」

 そう説明すると、アンははっとして頷いた。こちらですと言うアンに続いて、リゼは部屋を後にした。

 井戸は町の中心地にあった。雨よけの三角の屋根が付いた古びた井戸だ。夕闇が迫る中、井戸の中を覗き込むと、思ったより近いところに水面があった。水が満ちている。この辺りは地下水が豊富なようだ。

 リゼはしばし井戸を覗き込んでいたが、ふとあることを思い出して振り返った。

「……水差しを忘れた。悪いけど、取りに行って貰える? 水を汲んでおくから」

「いえ、それはわたしが……」

「大丈夫。水汲みも出来ないほど重傷じゃないから」

「そうですか? では……すぐに戻りますね」

「ゆっくりでいいわよ。悪いわね」

 そう言ったが、アンは踵を返すと、小走りで部屋の方へ戻っていった。ゆっくりでいいのだが、あの分だとすぐ戻ってきそうだ。さっさと用事を済ませなければならない。

 日は落ちて、月のない空は暗い。たくさんあるはずの星明かりも、弱々しく陰っている。雲が出ているのではない。今朝は快晴だったし、今だってそうだ。原因は一つ。ここバノッサに、悪魔がいるからなのだ。

 リゼは目を閉じて、気配の出所を探った。いや、そこまでする必要はなかったかもしれない。それぐらい、気配の出所は明白だった。

 礼拝堂だ。




 礼拝堂の薄闇の中、小さな灯の光が煌めいている。

 その細い蝋燭の炎は温かな色をしていたが、礼拝堂を満たす薄闇に対してとても頼りなく見えた。風もないのにゆらゆらと揺れて、今にも掻き消えてしまいそうだ。それでもかろうじて消えることなく、周囲を照らし出す光。それに照らされた祭壇の前で、跪いたクリストフが祈りを捧げていた。

「こんなところにいたのね」

 祈るクリストフに近づきながら、リゼはそう声をかけた。一応覗いた私室(礼拝堂の隣の小屋にある)にいなかったからここだろうと思ったのだが、当たりだったようだ。

 クリストフは祈りを中断すると、ゆっくりと立ち上がった。

「ソフィアさん、大丈夫か?」

 クリストフはリゼが来たことに驚く様子もなく、心配そうにそう言った。まあね、とリゼが返すと、彼は頭を下げ、心底すまなさそうに謝罪する。

「弟が君に大変なことをしたようだ。兄として謝罪する。本当に、すまなかった」

「……彼はどうしたんですか」

「地下牢にいる。客人を殺しかけたんだ。弟とはいえ、許す訳にはいかない」

 いいや、違う。テオじゃない。直感だが、彼は嘘をついていない。第一薬湯に毒を入れたら、誰が犯人かすぐに分かってしまうではないか。そんな単純なことをするほど、テオは馬鹿ではないだろう。

 だが、それを証明することはできない。そもそも確証もない。直感だけで、彼を擁護するのは無理がある。そして、今したいのはそのことではなかった。

「一つ聞きたい。悪魔祓いをしたというのは本当?」

 時間が惜しいから、リゼは単刀直入に尋ねた。

「ああ、そうだ」

 クリストフは静かに、しかしきっぱりと首肯した。

「どうしてそんなことが……」

「天啓だ」

 クリストフはそう言って、祭壇の方を向いた。燭台の明かりが、彼の白い法衣を照らしている。

「ここで祈りを捧げていたら、天井から眩いばかりの光が射し、御使いが現れたんだ。御使いは私に神の力を与えると言って下さった。その力で、人々を救うようにと」

 空を仰いで、クリストフは静かに言う。

「この力があれば、多くの人を救える。気休めじゃない。誤魔化しでもない。たくさんの悪魔憑きを救うことが出来る」

 両手を掲げたクリストフの声は、歓喜に満ちていた。彼にとっては念願の力。欲しくてたまらなかった力だろう。だが、

 神の力だというなら、何故こんなに嫌な予感がするんだ?

「……もう一つ聞いていいですか。あなたが悪魔祓いをしたあの男性は今どこに?」

「そこの部屋だ。他に空いている部屋がなかったから、そこに泊まってもらっている。それがどうしたんだ?」

 クリストフは礼拝堂の右手の部屋を指して不思議そうに言った。だがリゼは礼もそこそこに、彼が示した扉に近づく。ノックもせず扉を開くと、家具の少ない、ベッドと机があるだけの狭い部屋が現れた。

 中にいる男は、ノックもしなかったことを咎めることはなかった。部屋には静寂が満ちたまま。明かり一つすらない。その中心で、男はじっと立っている。リゼは男の様子を観察した後、無言のまま扉を閉め、こっそりと閂をかけた。

 それからリゼは踵を返し、クリストフの元へ行った。不思議そうな顔をしてリゼの挙動を見ていた彼に、

「この町を出ます。剣を返して下さい」

 そう言うと、クリストフは驚いたような顔をした。

「え? ああ……しかし身体の具合は……」

「それならほぼ治りました。祖父の教えで、毒を飲んだ時の対処法を知っているので。それより毒を飲ませるような人がいる町に長く留まりたくありません」

 わざと強い口調で言うと、クリストフは引き留める理由もないと悟ったようだ。

「……もっともだ。剣を返そう」

 そう言って、懐から小さな鍵を取り出した。そのまま礼拝堂の隅にある物置に近付き、鍵穴に鍵を差し込む。クリストフは開かれた戸から、布に丁寧に包まれた細長い物を取り出した。剣は彼の私室ではなく、こんなところにあったらしい。予定通りの場所を探ししていたら、見つけられないところだった。

 クリストフは捧げ物を持つように剣を両手に乗せると、リゼの元まで運んだ。

「海水で濡れていたから、洗って磨いておいた。勝手なことをしてすまないが、錆びたりしていないはずだ」

 クリストフが布を解くと、見慣れた銀の柄が現れた。魔法陣の形の装飾が、ランプの明かりで鈍く光っている。磨いておいたという言葉通り、見える範囲に錆びも曇りもない。リゼは剣を受け取ると、柄を握り、鞘から一気に引き抜いた。

 そしてリゼは曇りのない銀の刃を、クリストフの首元に押し当てた。

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