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Savior 《セイヴァー》  作者: 紫苑
悪魔教徒編
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真に救われるべき者は 3

 今から百年ほど前のこと。バノッサ・デミトリウスという一人の司祭がいた。

 彼は非常に熱心な司祭だった。町の教会の司教を務める立場ながら、決まった礼拝の時に説教をするだけでなく、自ら信者と語らい、町人の声に耳を傾け、神への信仰を説いた。聖典を研究し、あらゆる司祭と神の教えについて論争し、祈りの意義を問うた。

 それだけではない。彼は教会に纏わる日々の雑事全てに積極的に取り組んだ。儀式に必要な聖具の用意。細々とした儀式の実行。司教の身ならやる必要もないにも関わらず、時には下位の司祭や信者と共に、礼拝堂の清掃まで行った。バノッサは労働を神聖なものととらえ、勤勉さが神に至る道であると考えたのである。やがて、彼は礼拝堂の清掃だけにとどまらず、町全体の環境にも目を向け始めた。

 それだけなら変わった司教だと思われた程度であっただろう。しかし、バノッサはそれだけでは終わらなかった。多くの罪人と交わるうちに、あることを、人々に教えて聞かせるようになった。

 彼の主張はこうだった。間違いを犯す人の手で、救われる者を選別してはならない。悪魔祓いは、悪魔に取り憑かれた者の祈りによって為されなければならない。真の信仰者であれば、祈りによって神の救済が与えられる。そしてその真の信仰者とは、形だけの信仰に胡坐をかかず、日々勤勉に生きる者だ、と。

 その教えを聞いた教会は、即座にバノッサを異端者と認定した。バノッサの主張は、教会と悪魔祓い師を否定するものであったからだ。異端として排斥されたバノッサは教会を去り、弟子と同志を引き連れて西へ向かう。そして海沿いの平地に居を構え、ささやかな礼拝堂を建てて、弟子・同志達と自給自足の共同生活を始めた。

 数年後、意外なことに、“祈りのみによる救済”を掲げるバノッサの元には罪人と呼ばれる者達が集まり始めていた。神の教えだからと祈りの日の労働を禁じる教会に対し、バノッサは勤労を素晴らしいものと考え、例え短時間でも真摯に神に祈るならば、生活に必要な労働はしてもよい。むしろするべきであるという考えだったからである。

 贅沢はしない。必要最低限の物しか食べない。身につけない。恋情は穢れ。勤勉は美徳。娯楽は悪魔の誘惑。隣人を愛し、持つ者は持たざる者に施し、一切の欲を絶って身を清廉に保ち、神に祈りを捧げよ。それがバノッサの掲げる教義だった。勤労を美徳とし、罪人であっても最低限の生活を保障してくれるバノッサの教えは、例えそれが異端であっても、罪人達にとっては素晴らしい教えだったのである。

 多数の悪魔憑きと罪人が集い、手を貸し合い、共同生活をする場所。そしてバノッサの死後、彼の弟子がこの町の自治を引き継ぎ、その名は町の名として残り、姓は宗派の名として残り、現在まで、悪魔憑きとその親族が教義に従い、互いに助け合う場所となっている。




 バノッサで見る、二度目の太陽が上がった。

 テオが持ってきた食事(薬湯付き)を食べた後、リゼは寝間着から自分の服に着替えた。海水で濡れた割にはそれほど痛んでいない。洗濯してくれたことをアンに感謝しつつ、グローブまで全て身に着けた。貴重品も持ったところで、部屋の扉に向かう。腰に剣がなくて落ち着かないが、こればかりは仕方ない。リゼは足早に部屋を横切り、扉に手を掛けた。

 すると、扉が向こう側から開いた。

「おはようございます――って何をなさってるんですか?」

 扉を開けたアンは、リゼが寝間着から着替え、小鞄まで持って立っているのを見て目を丸くした。手に箒を抱えているところを見るに、掃除に来たらしい。リゼは「自分でやるから置いといて」とだけ言って、さっとアンの横をすり抜けた。

「え? ちょっと、どこへ行くんですか? まだ安静にしていた方がいいですよ!」

 慌ててアンが引き留めようとしたが、リゼは足を止める気はなかった。そのまま廊下を歩きながら、振り返らずに言う。

「少しは動いた方が治りが速い」

 アンの話によると三日も寝ていたようだし、ある程度動かないと身体が鈍るのだ。幸いなことに、ここは教会から異端とされたデミトリウス派の町。ここには礼拝堂はあれど、本家たるマラーク教の教会とは繋がりがない。つまり手配書のことを知らない。外に出ても、そこまで問題はなさそうだった。

 それに、外出の理由は運動したいからだけではない。

「それに、この町を見て回りたいから」

 バノッサは悪魔憑きが互いに助け合って生活する町だ。当然、ここには悪魔が大量にいる。気配は濃く渦巻き、気持ち悪いほどだ。こんな状態ではどちらにせよゆっくり休めない。静養するためには、静養できる環境が必要だ。

 静養したい訳でもないが。

「待って! わたしも行きます!」

 リゼが階段を降りようとした時、後ろでアンがそう言った。物音がするのは、箒を置いているからだろうか。リゼがため息をつきつつも歩くスピードを緩めないでいると、どたどたと音がしてアンが走って追いかけてきた。

 一階まで降りて玄関に向かう頃には、アンはリゼの隣に当然のように並んでいた。大げさにため息をついてみてもアンは動じない。

「なんで私についてくるの」

 玄関の扉を開けつつ、隣のアンに問う。すると彼女は、

「まだ住まいも仕事も頂いてないので、引き続きあなたの看病をすることにしたんです。この町に来たばかりで、他に親しい方がいませんから」

「看病ならいらないわよ。それに、別に私とも親しくないでしょう」

 目を覚ましてから約一日。必要最低限の会話しかしていない。それも体調のこと以外ではバノッサについて教えてもらったくらいで、お互いのことについては、名前ぐらいしか知らない。親しいというには無理がある。大体、看病のためなら散歩にまでついてくる必要はないではないか。

 リゼはもう一度ため息をついてから、ニコニコ笑うアンをじろじろと見て、ふとあることが気になった。

「そういえば、あなた、この町の人じゃないの?」

 アンの身なりは質素で使い古されたものだが、彼女自身が纏う雰囲気がどこか町娘らしくない。上品でしとやかといった感じだろうか。いやむしろ、どこか浮世離れしているような……

「はい。先程も言いましたが、実はわたし、この町に来たばかりで」

 アンは頷いてそう答えた。

「つい最近まで、両親と巡礼の旅をしていました。しかし旅の途中、両親とも悪魔に取り憑かれてしまって――。すぐに教会へ向かったのですが、間に合いませんでした」

「……」

「本当に突然のことで、驚いてしまって――そんな時にこの町のことを知りました。悪魔憑きとその親族が、互いに助け合いながら穏やかに暮らしていると」

 バノッサの町並みは、決して整っているとはいえない。風雨で痛んだ家。修繕が繰り返されて継ぎ接ぎだらけになった家。傾いている家。そしてそのどこからも、悪魔の気配がする。悪魔憑きが集まっているのだがら当然だ。

 しかし、町の雰囲気はただ暗いだけではなかった。町の大通りを歩いていると、似たような状況のラオディキアの貧民街とは違い、道行く人達は皆穏やかな顔をしている。ごくごく普通の、平穏な村のようだ。

「そして噂通り、ここは素晴らしい町です。皆がこんなにも穏やかに暮らしているんですから」

 悪魔憑きではない、何人かの若者が、漁で取ってきたのであろう魚の籠を抱えて談笑しながら歩いていく。煉瓦造りの家の中では、女達が料理をしている。小さな子供と老人が、ゆったりと散歩している。体力のある者が食料を調達し、食事を作れる者が食事を作り、悪魔憑きでない者が悪魔憑きに食事を与え、世話をする。たわいもない雑談に笑いあう声。子供達が無邪気に遊ぶ声。食事と団欒を楽しむ声。

 そして、狂った悪魔憑きの声と、誰かを悼んで泣く声と、死を前に恐怖に震える声が聞こえる。

 この町は悪魔憑きで溢れている。恐怖で溢れている。だが、

「クリストフ殿が来るまで、ここは地獄じゃったからのう」

 いつの間にか子供を連れた老人が近くに来ていて、そう呟いた。老人は昔を思い出すように遠い目をしている。

「地獄……?」

 穏やかでない表現だ。それほど、ここの状況は悪かったのだろうか。いいや、今も良いとは言えないが、バノッサは昔から悪魔憑き達が支えあう場所なのだから、この状態が普通のはずだ。悪魔憑き達で溢れている、今の状態が。

「今よりもっともっと酷かったよ。食べる物も、着る物も、ほとんど与えられなかった。どんなに苦労して手に入れても奪われた。これならペルガモンの貧民街にいた方が何倍もマシだと何度思ったことか。だが、この町から出ることさえできなかった。それを、クリストフ殿は変えてくださったんじゃ」

 老人の視線は、通りの一角に向いている。そこでは、クリストフが町人達に囲まれて、何かを話していた。説教でもしているのだろうか。町人達は熱心に聴いている。時折、子供がクリストフにじゃれついたが、クリストフは困ったように微笑むだけで、子供の相手をしながらゆっくりと話を続けた。

「神父様は町の方に慕われているのですね。いきなりこの町に来たわたしのこともすぐに受け入れてくださいましたし、町の方々が慕うのもわかります」

 人々の様子を見て、アンがそう言った。確かに、これだけ悪魔憑きに溢れた町なのに、町の人々はクリストフと話す時、穏やかな顔をしている。子供達も楽しげだ。だが町の人々の視線には、親しみだけではない、別の感情も含まれていた。

 畏敬だ。ただの尊敬ではない。まるで“救世主”でも見ているかのような目で見ているのだ。

「慕われている、ね」

 経緯は知らないが、老人曰く“地獄”だったバノッサを変えたなら尊敬もされるだろう。しかし、“畏敬”までいくだろうか。

「兄には不思議な力がある。悪魔を祓うことは出来ないが、光明を与えることが出来る」

 いつの間にか、テオが隣に立っていた。その後ろに隠れるように、ララがぴったり張り付いている。甘える妹の頭をなでながら、テオは町人達と語らう兄の姿を見つめていた。

「光明……?」

 テオの発言の意味を図りかねていると、クリストフ達の方からざわめき声が聞こえてきた。どうやら、クリストフのもとに一人の悪魔憑きが運ばれてきたようだ。悪魔憑きは正気こそ保っているものの、やせ細り、すっかり生気をなくしていた。ほとんど死んでいるのではないかと思うほどで重症で、身体の周りを(普通の人間には分からないだろうが)黒い靄がまとわりついている。彼女を連れてきた親族らしき男は、クリストフに一言何か言って頭を下げた。

 クリストフは悪魔憑きの前に膝をつくと、短い祈りを捧げた。十字を切り、数語文言を唱える。そしてそれを終えた後、両手を広げて身体の前に出した。

 二つの掌の間に現れたのは、握り拳ほどの輝く光球だった。光球は小さな太陽の如く煌めきながら、クリストフの掌の上で浮遊する。そして光は、悪魔憑きの胸の中へすうっと吸い込まれていった。

 途端、悪魔憑きの様子に変化が訪れた。生気のない顔にわずかに赤みが差し、先程まで微動だにしなかったのに、深く息を吸って身じろぎをする。そして悪魔憑きは目を開け、目の前のクリストフに弱弱しく微笑みかけた。

 悪魔憑きの瞳は朱に染まっている。悪魔が祓われた訳ではない。

「ああやって光を与えられることで、一時的に苦痛を忘れ、心安らかにすごすことが出来るようになる。神から与えられた、兄だけの聖なる力だ」

 アンは関心の眼差しをクリストフへと向け、町の人々は彼に恭しく礼を取っている。その中心でクリストフは慈愛に満ちた表情で、何かを話している。説教でもしているのだろうか。その掌には光の粒子が浮かび、人々に降り注いでいる。静かながら、荒々しく力強い光。よく知ってる。あれは、あの力は、

 聖なる力? いいや、違う。あれは、

 魔術だ。

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