真に救われるべき者は 2
面倒な場所に来てしまった。
真っ先に思ったのがそれだった。
アルヴィア帝国。教会が最も強い権力を持つ国。指名手配騒動が治まるまで戻るつもりはなかったのに、戻ってきてしまった。船から落ちた時、内海のどの位置だったのか見当もつかないが、こうしてアルヴィアに流れ着いたところを見ると、アルヴィア寄りの位置だったらしい。海でおぼれて死ななかったのは僥倖だが、まさかアルヴィアに来てしまうとは……
頭を抱えたい気分だったが、さすがに行動に移すのはやめておいた。それよりも状況を把握しなければならない。アルヴィアということは、手配書の心配をしなければならないのだから。
まずは……この人は誰だ?
ベッドの横で椅子に座っていた女性は、リゼが怪訝そうな目で見ているのに気付いたらしい。はっとしたような顔をしたと思うと、それからすぐにこっと笑った。
「そうだ。まず自己紹介をしなければなりませんね。わたしはアンと申します。お名前を伺ってもよろしいですか?」
女性――アンは胸に手を当てて、礼儀正しく尋ねた。名前、か。アルヴィアでは指名手配されている身だが、確か名前は知られていなかったはずだ。けれど――
「……ソフィア」
リゼはとっさに思い付いた名前を口にした。手配書に名前までは記されていないとはいえ、馬鹿正直に本名を名乗ることもないだろう。そんなリゼの思惑など知らないアンは満足げに微笑んで、「ではソフィア殿と呼ばせていただきますね!」と明るく言う。――なんとなく、めんどくさそうなタイプな気がする。何が楽しいのか、ニコニコ笑っているアンを見て、リゼはそんなことを考えた。
「でもよかった。あなたを助けられて。最初は死体なんじゃないかと思って怖かったんですけど、思い切って助けにいってよかった。危うく救助が必要な人を見殺しにするところでした。――あ、あなたの荷物と服はこちらにあります」
一気にそう言ってから、アンは丁寧に畳まれた服と荷物を差し出した。唐突なことで少し戸惑ったが、よく見ると服は洗濯されているようである。アンがやってくれたのだろうか。全く初対面の彼女がここまでしてくれたことを訝しみながらも、リゼは礼を言って受け取った。
よく見ると、服は洗濯してあるようだが、携帯用の小鞄はそのままで、海水で少し痛んでいた。中を見ると特になくなっているものはなかったので、勝手に開けるのはよくないと思ったのかもしれない。なんにせよ、荷物が無事なのはありがたい、のだが。
「――剣は?」
剣がない。まさか流されてしまったのだろうか。鞄はしっかり口を閉じていたおかげか財布の中身まで無事なのに、肝心の剣がないとは。あれがないと、魔術を使うにも時間と手間のかかる羽目になるのだが。それに、あれは叔父にもらった大切な――
「剣なら、わたしではなく神父様が預かられていますよ」
考え込んでいると、アンが何気なくそう言った。
「神父……様が?」
神父ということは、この町には教会があるのだ。しかも、剣があることには一安心だが、神父が預かっているとなると厄介なことになる。教会関係者には会いたくないのに、これでは顔を合わせざるを得ないではないか。
「神父様はもうすぐいらっしゃると思いますから、その時にお尋ねになったらいいと思いますよ」
リゼの心境など知る由もないアンが、親切心からかそう言う。この分だと、どちらにせよ神父に会う羽目になりそうだ。どうしようかとリゼは考えこんだが、残念なことに、考えている時間はほとんどなかった。
不意に、ノックの音がした。止める間もなくアンが「どうぞ」と答える。すると、扉が開いて、一人の人物が入ってきた。
すらりとした長身の金髪の男だ。よれよれになった白い法衣のようなものを来て、首からは五芒星のペンダントを下げている。まるで司祭のような恰好だが、男の浮かべる笑顔は人のよさそうなそれで、司祭らしい高慢さは見受けられなかった。
「やあ、目が覚めたようだね」
金髪の男は金髪の男は朗らかにそう言うと、ゆっくりとベッドサイドまで近づいた。まさか、彼がアンの言う神父なのだろうか。そう思っていると、男は穏やかに言った。
「私はこの町の神父を務めているクリストフ・セーガンだ。お嬢さん、お名前は?」
やっぱり神父だったらしい。会いたくなかった……などとは言ってられない。神父がいるなら、速く剣を返してもらってとっととこの町を出なければ。そう考えたリゼは、まずはなるべく不自然にならないように、とっさに思い付いた偽名を名乗った。
「……ソフィア、です」
「ソフィアさんか。目を覚ましてよかった。ここに来た時は酷く衰弱していたし、三日間眠り続けていたから心配したよ」
クリストフは安堵したようにそう言った。
「三日間……そんなに……」
「差し支えなければ、何があったのか教えてくれないか?」
何があったのか。
誘拐されたシリルを助けるために悪魔教徒達を追いかけ、内海の荒れる海上で奴らに追いついた。しかし船の中にシリルの姿はなく、見つかったのはサーフェスでさらわれた子供達と、シリルの替え玉らしい少女だけ。その上、悪魔憑きの悪魔教徒が船に火をつけたせいで、追跡艇に戻る間もなく船の崩壊に飲み込まれた。
ティリーやキーネス、子供達は追跡艇が転覆していない限り無事だろう。問題はアルベルトとゼノだ。あの二人は無事なのだろうか。あの燃えるマストが倒れてきた時、彼らはその下にいたはず――
「ソフィアさん。ソフィアさん? どうかしたのか?」
クリストフに問い掛けられて、リゼは我に返った。そう、今の名前はソフィアだ。顔を上げると、クリストフと心配そうな顔をしたアンがこちらを見つめている。
「まだ体調が悪いのでしょう。ゆっくり休ませた方が……」
「いいえ、心配はいらないわ。少し、ぼうっとしてただけ」
実際、浜辺にいた時ほどの倦怠感はない。食事を摂っていないから力はでないが、頭はすっきりしている。――ここがアルヴィアだと分かった時の衝撃のせいで。
「ミガー行きの船に乗りました。途中で大きな嵐にあって、そこから先のことはよく覚えていません」
適当な嘘が思いつかなかったから、そう言ってごまかすことにした。内海は荒れることが多く、規定航路を通っていてもいつのまにか流されていて、運悪く嵐に会い沈没してしまうことがあるらしい。そのせいということにしておけばいい。
「そうか。内海は少しでも航路を外れると危険だというからな。助かったのは奇跡だ」
幸いにも、クリストフは納得してくれたらしい。
「バノッサは決して裕福な町ではないが、雨露を凌げる場所と最低限の食料はある。ゆっくり養生してくれ」
「……ありがとうございます」
クリストフの言葉に、嘘はなさそうだった。だが、見ず知らずの相手を助けてくれたのは、純粋な善意からなのだろうか。財布を始め持ち物が無事な以上、所持品を奪う目的ではないことは確かだ。ただ、
「ですが、知人のことが心配なのでメリエ・リドスに行きたいんです。剣を預かっていると聞いたのですが、返していただけませんか」
彼らは手配書のことを知っているのだろうか。もし知っているなら、長居しない方がいい。あの手配書だけで指名手配犯だと断定されることはないだろうが、万が一ばれたら面倒だ。シリルやアルベルト達を探さなくてはならないし、さっさと剣を返してもらってメリエ・リドスへ向かいたかった。
しかし、クリストフは申し訳なさそうな顔をすると、こう言った。
「すまないが、武器の所持は禁止しているんだ。悪魔憑きが大勢いるから、障害事件を起こさないようにするためだ」
悪魔憑きが暴れて周囲の人間を殺傷したという事件はよくある。ただ狂うだけでなく、悪魔の甘言が人の疑心暗鬼を増幅し、時に武器を取らせるのだ。それを警戒しているというのは、分からなくない話だが。
「なら問題ないわ。剣を返してくれたらすぐこの町を出ます」
とにかくこっちは急いでいるのだ。剣さえあれば、あとは自分でなんとかできる。必要な物だけ調達したら、すぐにメリエ・リドスへ向かうつもりだった。のだが、
「すぐこの町を出るって、まさかその状態で旅をするつもりなのか?」
ところがクリストフはそう言って少し怒ったような顔をした。
「それは駄目だ。薬師の見立てでは、少なくともあと数日静養する必要がある。病人を、魔物のいる町の外に出すわけにはいかない」
言い聞かせるように言って、彼はリゼをベッドに押し戻そうとする。思いがけない返答に、リゼは面食らった。ものすごく既視感のあるやり取りだ。手配書の人物だと知って引き留めようとしているのかと思ったが、彼が一流の俳優でないならば、どこかの誰かと同じように善意で言っているのだ。厄介なことに。
「ともかく、ゆっくり身体を治して欲しい。それと目が覚めたのだし、薬師を呼んで来るよ」
「わたしが行きましょうか?」
アンが尋ねるが、
「いや、もう行かなければならないんだ。私が呼んで来るよ」
では失礼するよ。そう言って、クリストフは一礼し部屋を後にした。
神父が出て行ったのを見て、リゼはほっとため息をついた。とにかく彼の善意は本物のように見える。後は神父が手配書のことに気付いていないか、だが――
「お気持ちは分かりますが、漂流していたんですからしばらく休まないとダメですよ」
クリストフが部屋を出たところで、アンが心配そうに言ってきた。どうして彼女らはこうも人の体調を気にするのだろうか。
「心配ならいらないわよ。十分元気だから」
「そんなまさか。無理をしたら後に響きますよ?」
ますます心配そうな顔をしながらアンは言う。そりゃあこちらとて元気一杯という訳ではないが、色々と都合がある。のんびりと寝てなどいられない。しかし説明するのも面倒なので黙っていると、アンは休養の重要性について話し始めたが、リゼは聞き流すことにした。
幸いにもアンの話は再び響いたノックの音によって遮られた。反射的に「どうぞ」というと、扉が軋みながら開いていく。さすがにアンは話を中断し、やってきた人物を出迎えた。
入って来たのは十代後半くらいの少年だった。手には木の椀が乗った盆を持ち、傍らには、五歳くらいの女の子がぴったり張り付くようにしてついて来ている。彼はベッドサイドまで近付き、
「薬師のテオです」
ぶっきらぼうにそう言うと、彼はぺこりと頭を下げた。クリストフが言っていた薬師とはこの少年らしい。随分若いなと思っていたら、テオは素早く「他に医者がいないので」と付け加えた。
「ああそれと、神父様は僕の兄です。こっちは妹のララ」
傍らの女の子を指さして、テオは言った。ララは人見知りしているのか、兄の後ろに隠れるようにしてこちらを見ている。テオはいつものことなのか気にした風もなく、そのまま話を続けた。
「それで、ソフィアさん。身体の調子はどうですか」
一瞬、誰に言っているのかと思ったが、すぐに偽名を使っていたことを思い出した。速くこれに慣れなければ。そう思いつつ、少し考えてから答えた。
「……別に悪くないわ」
浜辺で目を覚ました時は身動きが取れないほど倦怠感が凄まじかったが、今はそうでもない。力が出ないのは食事をしていないせいだ。わざわざ薬師に出てきてもらう必要はない。と思うのだが、そう言う訳にもいかなさそうだ。
「思ったよりも元気そうだな……でもこれは飲んで欲しい」
そう言うと、テオは持って来た木の椀を差し出した。お手製らしい荒削りの椀の中には、鮮やかな緑色の液体がなみなみと注がれている。液面に浮かんでいる葉っぱと独特の青臭い臭いには覚えがあった。
「……これは?」
「薬湯。滋養強壮に効く」
案の定、椀の中身は推測通りの物だった。道理で不吉な予感がするわけだ。全く同じものかはわからないが、この薬湯は知っている。なにしろ、昔、飲まされたことがあるのだが……
「苦くて不味いが、効果は保証する」
テオが言う通り、この緑色の液体は凄まじく不味いのだ。初めて飲んだ時、あまりの不味さに吐き出してしまったくらいである。故に、効果の程もよく知っているのだが。
――やはり飲むべきなのだろうな。
どちらにしろ、この町を出てメリエ・リドスに向かうなら、体力を回復させておく必要がある。それにはこの薬湯がうってつけだ。好き嫌いなど言ってはいられない。意を決して、リゼは薬湯を飲んだ。
……味は、記憶にあるものより遥かに不味かった。




