追跡 6
狭い廊下に、二人分の足音が響く。この漁船は大分年期がいっているようで、歩くたびに床板が軋み、静かに進むことが出来ない。どこかに潜んでいるかもしれない敵に位置を知らせることになってしまうが、仕方ない。見つかったら交戦するしかないだろう。と思ったのだが、
「人の気配がないな」
先行するアルベルトが廊下を覗き込みながら言った。それにならって、ゼノも廊下の角から顔を出す。確かに、廊下には誰もいない。上での騒ぎと比べて、船内は不気味なほど静かだ。
「悪魔教徒は上にいる奴らで全部なのか? だったら助かるんだけどな」
「人数が足りないから、隠れていないのであればあと三人いるはずだ。シリル達を見張っているんだろう」
廊下の左右にはいくつかの扉がある。あの中のどれにシリル達や悪魔教徒がいるのだろう。物音も話し声もしないから、どれかは分からない。もっと近づいて一つ一つ調べていくしかないかと思ったゼノは、廊下の方へ慎重に足を踏み出した。すると、
「待ってくれ」
唐突に腕を掴まれ引き戻された瞬間、廊下奥の部屋の扉が軋みながらゆっくりと開いた。勝手に開いたかのような緩慢な動きだったが、建てつけが悪い訳ではない証拠に、戸の陰から黒い服を着た人物が現れる。しきりに廊下の様子をうかがっているそいつの腕には、黒いローブをかぶせられた小柄な人間が抱えられていた。
「あれってまさか……」
悪魔教徒に抱えられている人物は意識がないのか身動きが取れないのか、抵抗する様子はない。悪魔教徒が身じろぎすると、黒いフードがずれて隙間から薄汚れた金髪がこぼれた。
ほとんど無意識のうちに、ゼノは一歩前へ踏み出した。けれど、廊下の陰からは出ない。それぐらいの冷静さはあった。床がみしりと音を立てたが、奴は気づいていない。チャンスはあの悪魔教徒が背中を見せた瞬間だ。それまで、落ち着いて――
――その時、 風を切る音が右の方から聞こえた。
反射的に頭を下げると、飛来したナイフが背後の壁に深々と突き刺さった。続けて二本、三本と、鋭いナイフが飛んでくる。突然の攻撃にゼノはよけるのに精いっぱいで、剣を抜いている暇もなかった。
しかし、アルベルトは違った。彼は一歩踏み出しながら抜剣すると、ナイフを次々と叩き落としたのだ。さらには弾いた一本を掴み、ナイフが飛んできた方向へ投げ返す。壁ではない、柔らかいものにナイフが突き刺さる音。その次の瞬間には、暗闇から短剣を手にした悪魔教徒が飛び掛かって来た。
瞬間、ゼノは剣を抜いて飛び出した。狭い船内にも関わらず器用に剣を振るい、悪魔教徒に斬り掛かる。悪魔教徒が手にしているのは小さな短剣。ゼノの大剣を受けるには力不足に思われた。が、
高らかに響く金属音。それに一拍遅れてゼノは驚きで目を見開いた。ゼノが振るった大剣は、あろうことか悪魔教徒が片手で持った短剣で止められてしまったのだ。
力を込めて押しても悪魔教徒はびくとも動かない。どうしてだ。自慢じゃないが腕力には自信がある。その上この得物の差。受け流すならともかく、真正面から受け止めるなんて不可能だろうに。
その時、ゼノの左側から凄まじい速さの突きが放たれた。剣が狙うのは悪魔教徒の右肩。全くぶれることなく目標を貫き、確実に傷を負わせる。悪魔教徒の力が弱まったのを見たアルベルトは、すぐさま剣を引くと相手の手から短剣を弾き飛ばした。
しかし、悪魔教徒は引こうとしなかった。それどころか丸腰のまま、こちらに殴り掛かってくる。さして筋肉のついているように見えない細い腕だったが、アルベルトが避けた瞬間、その背後にあった壁が大きな音を立てて陥没した。
「な、なんだ!?」
壁は完全に破壊され、木片が飛び出ているというのに、悪魔教徒は平然としていた。しかし筋骨隆々の大男ならまだしも、この悪魔教徒は細く、それほど力があるようには見えない。さきほどの剣を合わせた時といい、こいつは一体なんなんだ。
「ゼノ! 下がれ!」
アルベルトの警告に従って、ゼノは後方に跳んだ。次の瞬間、先程までいた場所が悪魔教徒の一撃で大きくへこむ。退治屋にも人外かと思うようなとんでもない腕力の持ち主はいるが、こいつは何か違う。何か酷く不自然だった。
するとアルベルトが前に出て、悪魔教徒を見つめた。何かを探すようにじっと。そして彼は言った。
「ゼノ、気をつけろ。こいつは悪魔憑きだ」
「悪魔憑きって、“憑依体質”じゃない限りもっとおかしくなっちまうもんじゃないのか!?」
少なくともこいつは奇妙な言動を繰り返したりめちゃくちゃな行動を取ったりはしていない。シリルを連れ去る。追手は排除する。やっていることは悪事だが、ちゃんとした目的意識を持って行動している。悪魔憑きならそれすらも出来ないはずだ。
「いや、“憑依体質”でなくとも自我を保つ方法は一つだけある。成功する人間がこの世にどれだけいるのかは分からないが……少なくとも悪魔教徒達の一部は成功しているみたいだな」
そこで、アルベルトは悲しそうな顔をした。
「悪魔を受け入れるんだ。自分の意志で、悪魔を取り憑かせるんだ」
「馬鹿みたいに頑丈ね」
炎に包まれ、甲板まで落下したにもかかわらず、術師は何事もなかったかのように平然と立ち上がった。術で身を守ったというわけでもない。ローブは燃え尽き、現れたいかつい顔には焼けただれた跡がある。だが落下による負傷は見受けられず、火傷の痛みを気にしている様子もない。そして当然、術者が健在である以上、嵐がやむ気配はなかった。
「わたくしの魔術に耐えるとは、やりますわね」
ティリーは悔しさ半分、驚嘆半分に呟き、術師を睨み付けた。無論、新しい魔術を唱えることも忘れない。今度は加減なし、高火力の魔術をぶつけてやるつもりのようだ。それがどれ程効くのか分からないが。
何しろこいつらは、
「悪魔憑きだわ。悪趣味なことにね」
悪魔召喚によって喚び出した悪魔の使い道には二通りあるという。一つは喚び出した悪魔をそのまま使役すること。そしてもう一つは、悪魔をその身に宿らせ、己の力とすることだ。
普通の悪魔憑きとは違って、自らの意志で悪魔を取り憑かせるのだ。狂人になることはなく、自我を保ったまま、悪魔の強大な力を得ることが出来るという。
「うわあ、噂には聞いてましたけど、本当にやる馬鹿がいるんですのね。さすが悪魔教徒ですわ」
「悪魔教徒に馬鹿じゃない奴がいるとは思えんがな」
「……ま、それもそうですわね」
悪魔は人の魂を喰らう。耳元で甘言を囁き、幻影の地獄を見せ、精神も肉体も完全に破壊してしまう。悪魔に取り憑かれて狂うことなく自我を保ち続けられるなんてありえない。“憑依体質”でさえ、最後には侵蝕に耐え切れず死んでしまうのだから。
もしそれが出来るのだとしたら、そいつは元々正常な人間ではないのだろう。
「それで、どうするんだ。悪魔憑きならお前でないと対処できないんじゃないか」
キーネスは奴らの様子を伺いつつそう言った。確かに、悪魔を祓うのも滅ぼすのもリゼにしかできない。しかし今は風の結界を張るので手一杯だ。そこまでする余裕はない。
「だからあの術師をどうにかしないとね。今のままじゃ悪魔祓いも浄化も無理」
悪魔憑きと戦うだけなら、浄化の魔術は必要ない。ティリーとキーネスに頑張ってもらおう。ただ、分は悪いけれども。
そうしてるうちに術師はローブの燃え滓を払いのけ、手に雷を纏わせはじめた。その横を、剣を持った悪魔教徒達が固める。両者の睨み合いが続く中、突如としてしわがれた声が響いた。
「汝らに我らを殺すことなどできはせぬ」
「あら、貴方喋れたんですの? 一言も言わないから命じられたことだけこなす犬だと思ってましたわ」
ティリーはからかうように言ったが、術師は無表情のままだった。まだ術を放つ様子もない。ただそれほど歳を取っているようには見えないのに、老人のようなしわがれた声で言った。
「ただの人間、ただの魔術師に抗うことは出来ぬ。そして“救世主”よ。そうやって結界を張っている限り、汝もだ」
「そう。あなた達、やっぱり私を知っているのね」
囁くように話しているのに、術師の声は不自然なほどに響いてくる。老人のような声と思ったが、円熟し老成した者の声ではない。似ているだけで、もっと不気味で邪悪なものだ。
そう、これは悪魔の声なのだ。
「汝は我らの大いなる計画の障害と成り得る存在。消さねばならぬ」
「大いなる計画? どうせ悪魔召喚で魔王を喚び出そうって魂胆でしょう? 麻薬をばらまいて混乱を起こしてまで」
吐き捨てるように言って、リゼは剣を抜いた。鋭い切っ先を悪魔教徒達に向けると、細い刀身が炎を映して煌めく。
「抗えないかどうかはやってみれば分かる。いざとなったら結界を解いて私があなたを潰すわ。――悪魔を喚び出そうとする害虫が」
「黙れ。我らが如何様にして悪魔を信ずるに至ったか知らぬ癖に」
「知りたくもないわね」
悪魔を崇める者の事情など、知ったことか。
「あの悪魔教徒は俺が引き受ける。君は逃げた奴を追ってくれ」
そう言って、アルベルトは目の前の悪魔教徒に剣の切っ先を向けた。こいつの邪魔がなければ、あの悪魔教徒を追える。アルベルトは足止め役を買って出てくれると言うのだ。
ゼノが返事を返す前に、アルベルトは悪魔教徒めがけて剣を奔らせた。悪魔教徒は後ろに飛んで避け、壁に刺さった投げナイフを引き抜く。悪魔教徒のナイフとアルベルトの剣がぶつかって、甲高い音を立てた。
「――すまねぇ!」
そう言って、ゼノは駆け出した。悪魔教徒はそれを阻止しようとしたが、アルベルトが割って入る。その隙に、ゼノは廊下の奥へ走った。
シリルを抱えた悪魔教徒はとっくの昔にいなくなっている。廊下の奥は行き止まりだから、出てきた部屋に戻ったのだろう。ゼノは悪魔教徒が出てきた扉の前に立つと、後を追って部屋に入ろうとした。しかし扉は何かに引っ掛かっているのか開かない。扉は古く痛んでいるように見えるのに、押しても引いてもビクともしない。もどかしくなって、ゼノは大剣を叩きつけて扉を豪快に破壊した。
扉の残骸を蹴っ飛ばしながら中に入ると、そこにいたのは手を縛られ、猿轡をつけられた子供達だった。全部で四人。恐怖からか、部屋の隅で震えている。だが悪魔教徒の姿はどこにもなく、四人の中にシリルの姿もなかった。
「大丈夫! オレは味方だ。助けにきた!」
ゼノは四人の内、一番年上の少年に近寄ると、猿轡を外し、ナイフで手を縛るロープを断ち切った。子供達の怯えた様子に心を痛めながらも、ゼノは少年に尋ねた。
「ここにいるのはおまえらだけか? 誘拐犯は? 他に女の子がいなかったか?」
問い詰めると、少年は戸惑いながらたどたどしく答えた。
「お、女の子ならいたよ。金髪の知らない子。さっきあの黒ずくめの奴が連れていった」
「どっちに!?」
「あっち」
少年の指差す方向には、入ってきた方とは別の扉が半開きの状態になってあった。悪魔教徒は何を思ったのかシリルだけを連れて逃げたらしい。追い掛けなければ。ゼノは少年にナイフを渡すと、
「これで他の皆の縄を切ってやれ。たぶんすぐに黒髪のにーちゃんが来るから、それまでここでじっとしてろ。そいつはオレの仲間で味方だ。安心しろよ」
そう言うと、少年は年長者の責任感からか、怯えながらもしっかりと頷いた。それを見たゼノは少年に笑いかけて、すぐに身を翻す。そして半開きの扉から、シリルを連れ去った悪魔教徒を追った。
悪魔教徒はシリルを抱えたまま、廊下の奥へ逃亡しているところだった。ゼノはすぐさま走り出し、後を追う。少女を抱えている割に意外にも相手は速い。ゼノはとっさに愛用のナイフを取り出すと、逃げる悪魔教徒の背中めがけて思いっきり投げつけた。
さしてコントロールは良くないのだが、投げたナイフはものの見事に悪魔教徒の右肩へ突き刺さった。痛みのためか悪魔教徒は軽くのけぞって足を止め、振り返る。その隙にゼノは悪魔教徒に近づき、剣を抜いた。そして、
悪魔教徒は突然、ローブを翻しながら右手を振り上げた。
とっさに、ゼノは後ろへ思いっ切りのけ反った。振り上げられた何かはかろうじて避けたが、服の胸元がざっくり持ってかれた。ちぎれて飛ぶ布切れ。ゼノはそのまま体勢を崩して尻餅をついたが、気合いで弾けるように立ち上がり剣を振り上げた。
「肩やられてるのになんなんだよ!」
半ばやけくそに叫びながら、ゼノは剣を振り下ろした。渾身の力を込めて振り下ろしたというのに、剣はあっさり弾かれ、振り払われてしまう。体勢が崩れたところへ襲いかかってきた一撃を紙一重で避け、後方に下がったゼノは思わず舌打ちした。
逃げた悪魔教徒が持ち出してきたのはあろうことか重厚な作りの戦斧だった。とても重そうな、鈍く光る黒い刃。両手で持っても重そうなのに、悪魔教徒は片手で軽々と振り回している。つーかそんなものどこに持ってたんだ。背中に背負ってローブで隠していたのか。
斧の柄は短く、リーチはさして長くない。しかし狭い通路内にもかかわらず、遠慮なしに振り回してくる。左右の壁を破壊してもお構いなしなのだからタチが悪い。
だが奴の主な目的は逃亡のようだった。この狭い船内でどこへ行くつもりなのか知らないが、破壊するだけ破壊した後、シリルを抱えてとっとと退散していく。彼女を盾にしようとしないのは助かったが、奴が抱えている状態ではどちらにせよ思い切った攻撃を仕掛けることができなかった。
しかしゼノも伊達に退治屋をやっていない。対人戦は得意ではないが、人外のパワーを持つものに対処するのは慣れている。要は逃げる上に急所が小さい魔物を追いかけていると思えばいいのだ。
横薙ぎに斬りつけられてきた戦斧を避け、破壊されて散らばった壁の残骸を飛び越える。その時に程よい大きさの木の板を拾い上げると、相手に向かって投げつけた。悪魔教徒の視界がふさがれた隙を狙って、一気に間合いを詰める。しかし悪魔教徒は木の板を振り払うでも避けるでもなく、戦斧を振り下ろして一刀両断にした。
戦斧は床に深々とめり込んで、木の欠片を飛び散らせた。危うくゼノも真っ二つにされるところだったか、かろうじて避けて飛んできた破片を振り払う。そして悪魔教徒が再び攻撃に転じようとする前に、斧の柄を思いっ切り踏み付けた。
悪魔教徒が人外の腕力を持っていようが、ゼノの体重がプラスされた戦斧を振り上げることは出来ないだろう。仮に出来たとしても、こっちが斬りつける方が速い。ゼノは剣を横薙ぎに振るい、悪魔教徒の頭部を狙った。
「てめえ! シリルを返しやが――」
敵に肉薄したゼノが気迫を込めながら剣を振り抜こうとした、その瞬間、悪魔教徒は思いがけない行動をとった。
少女を投げ付けて来たのだ。
「うわっ!?」
振り下ろそうとした剣を寸でで止め、懐に飛び込んできた少女を受け止めた。勢い余って尻餅をつきそうになったがかろうじて踏みとどまる。その一瞬を狙って悪魔教徒が戦斧を手に迫ってきたが、ゼノが対処するより先に、突然現れたアルベルトが一瞬にして悪魔教徒を斬り伏せた。
「アルベルト! いつの間に来てたんだ!?」
倒れた悪魔教徒を静かに注視するアルベルトに、ゼノは驚きながらそう言った。すぐ後ろまで来ていたのだろうに、全然気付かなかった。
「でも危なかった。助かったぜ」
「間に合ってよかった。それより、その子は――」
アルベルトは微笑むと、ゼノが抱えている少女に視線を向けた。そうだ。なんとかシリルを取り戻したのだ。まさか相手があんな行動をとるとは思わなかったが、無事取り返せたことには変わりない。そのことに、ゼノはひとまず安堵した。
それにしてもシリルは気絶しているのだろうか。さっきから声もあげないし身動きもしない。温かいから死んでるわけではないが、ひょっとしたら何かされて体調が悪いのかもしれない。とにかく確認しなきゃと、かぶさられている黒いフードをはぎ取って――
ゼノは絶句した。




