利用 3
(……え?)
不意に神殿の入り口に人影が現れた。遠くて容姿の詳細は分からないが、どうやら兵士ではない。神殿内の逃げ遅れていた人が出てきたわけでもない。文字通り“降って湧いた”のだ。
その人物は何かを探すように視線を彷徨わせると、こちらに顔を向けて静止した。
次の瞬間、その人物は滑るように神殿の中へと消えて行った。
背後で魔物がぎゃあと啼いた。空気を掻き乱す音と共に黒い羽根が舞い落ちる。魔物の鋭い嘴が襲い掛かる直前に、横薙ぎに振るった剣で魔物の首を斬り飛ばした。崩れ落ちる魔物の身体。その後ろに、また別の魔物が控えている。新たな魔物は動かなくなった黒い死骸を飛び越えて、アルベルトに襲いかかってきた。
「あらよっと!」
アルベルトが剣を振るう前に、呑気な掛け声と共に大剣を振りかぶったゼノが魔物へと斬り掛かった。翼を叩き落とされ、魔物は体液を撒き散らしながらじたばたとのたうちまわる。ゼノは再び剣を振りかぶると、魔物の首を断ち切って止めを刺した。
「よ! アルベルト。大丈夫か?」
そう言ってから、ゼノは何かに気づいたように足元を見回した。
「……これ、全部おまえがやったのか?」
「……? まあこの辺りはそうだな。それより助かった。ありがとう」
「ああ。いいっていいって。助け合うのは当たり前――」
「悪いが後は頼む」
「ええ!? おい、どこ行くんだ!?」
戸惑っているゼノを後に残して、アルベルトは神殿の方へと向かった。周りを見回すと、敵はもうほとんど残っていない。魔物はもう間もなく掃討される。ここを離れても問題ないだろう。
神殿の入り口前に立つと、煤と焦げた臭いがじわじわと流れてきた。中は暗く、人がいる気配はない。あれだけの爆発と火災で生きている人はいないだろう。
だが、先程は人がいた。神殿にゆっくりと近付きながらアルベルトは中の様子を窺う。確かに人がいたのだ。そして何かを伝えたがっているように、こちらを向いた。
「誰かいるんですか?」
がらんどうの石の空間に、音がわずかに反響する。壁面の崩れかけた装飾から落ちた水滴が、瓦礫の上ではじけて小さな音を立てる。問いに対する答えはない。魔物退治の喧騒とは裏腹に、神殿は奇妙なほど静寂に満ちている。待っていても返事は得られなさそうだ。そう思ったアルベルトは、思い切って神殿の中へ歩を進めた。
一歩の中に入ると、熱気と異臭が押し寄せてきた。まだ鎮まりきっていない火が、暗闇の中でちろちろと揺れている。足元には消火作業の影響であちこちに濁った水たまりが作られていた。それ以外に転がっているのは、瓦礫と融けた陶器や金属器。何かの燃えかす。侵入を阻むかのような熱と臭いを振り払い、残り火に照らされた神殿の奥を見やると、そこに再び人の影が浮かび上がった。
それはほとんどうすぼんやりとした輪郭しかなく、明確な像を結んでいなかった。捉えられるのは動作だけで、何者なのか全くわからない。しかし何かを伝えたいらしく、ゆっくりと手を伸ばし神殿の奥を指さすような仕草をした。
(奥に来いということか)
人影は消え去り、そこにはただ薄闇があるばかり。影が何のために奥を指し示したのかは分からない。ただ、害意は感じなかった。この奥に、行かなければいけない何かがあるのだろうか。神殿の中は耐え難いほどの臭気で満ちていたが、アルベルトは意を決して、奥へと歩を進めた。
その時、氷雪をはらんだ旋風が熱気と臭気を打ち消した。
「何か視えたの?」
振り返ると、そこにはリゼが立っていた。熱気を避けるためか、魔術で織り上げた冷たい風を纏っている。その後ろから、ティリーがひょこっと顔を出した。
「はぁいアルベルト。何か気になるものでも視えましたの?」
ひらひらと手を振りながら、陽気にそう訊ねる。その所作に若干脱力感を覚えた。
「二人とも、どうしてここに?」
「貴方が神殿の方へ向かうのをたまたま見つけて気になったんです」
「神殿に入りたいけど熱くて入れないから、魔術でガードしてくれって無理やり連れて来られた」
「そ、そうか」
なんとなくそうかなとは思っていたが、リゼが不機嫌そうな顔をしている訳が分かって、アルベルトは苦笑した。ティリーの、ことに知的好奇心を発揮しているときの強引さは、特筆すべきものがある。戦っていたリゼを連れてくるのだからよほどだ。熱気は元より充満している異臭が身体に悪影響を及ぼす可能性があるから、風の守りはアルベルトにとっても有り難いが。
「で、何か視えたんですの?」
「……人影だ。ほとんど輪郭だけで、はっきりした姿ではなかったけど」
奥を指さして消えてしまった、と説明すると、リゼとティリーはそろって神殿の奥の方を見た。そこには何もない。ただ薄い闇が蟠っているばかりである。
「この奥って何があるの」
「それはもちろん、テウタロス様の依り代ですわ」
神殿なのだから当然だが、ここの最奥にはテウタロスの依り代が祭られている。それこそがフロンダリアを悪魔から守る結界の要でもある。あの人影の意図ははっきりとは分からないが、依り代に関わることなのではないだろうか。
「依り代をどうにかすれば、結界は元に戻るのか?」
「さあ。わたくしは祭司じゃありませんから分かりかねます。でも魔術の触媒が壊された場合、普通は直すか交換するかしますわね」
「つべこべ言ってないで奥に行ってみたらいいんじゃないの。依り代の状態を把握しておけば、祭司に頼むにしても手間が省けていいと思うわ」
そう言って、リゼは奥へ歩き出す。兵士達は魔物退治に追われているようだし、彼女の言う通り、依り代の状態を確認しておいた方がいいかもしれない。あの人影が呼んだ理由も知りたい。そう考えて、アルベルトもリゼの後に続いた。
奥へ進むにつれ、神殿の様相はさらに酷いものになっていった。
爆発の衝撃で、様々な場所が崩れ、瓦礫が転がっている。よく神殿全体が崩落しなかったものだと思うが、この辺りの地質は存外頑丈らしく、崩れているのはほとんど室内の彫像や柱だ。そのため、進む上で障害は思ったより少なかったが、奥に進むにつれ、別のモノが徐々に目につき始めた。
瓦礫に半ば埋もれるように転がっているのは爆発の炎で真っ黒に炭化した何かだ。何とか元の形を留めいている者。一部が吹き飛ばされた者。元の色を残しているものも、バラバラに飛び散って原形をとどめていない者もいる。爆発の衝撃でこうなったのか、それとも何か仕掛けがあったのか、とかく酷い有様だった。
「……これはあまり長居したくないですわね。亡くなられた方には申し訳ありませんけど……フロンダリアが観光地じゃなくて良かったですわ。観光地だったらこの程度では済みません」
顔をしかめたティリーはそう言って死体から目をそらした。爆発時にここにいた人のほとんどは神殿の祭司なのだろう。数自体はそれほど多くないようだった。それが救いになるわけではないが。
凄惨な光景にアルベルトは反射的に跪いて祈りを捧げた。無論マラーク教式のもので、テウタロスの神殿でするべきことではないとは思ったが、あいにくミガー式の弔いの仕方は分からない。ただ死者の冥福を祈らずにはいられなかったから、無礼だとは思いながらも祈りの文言を唱えた。
簡単ながらも祈りを済ませてから、アルベルトは立ち上がった。
こんなところに長くいるのはどう考えてもよくない。速くあの人影の真意を知らなくてはと、アルベルトは奥へ進もうとしたが、ふと後ろを振り返ると、今まで黙々と歩を進めてきたリゼが立ちすくんでいることに気付いた。
「リゼ? どうしたんだ?」
身じろぎ一つする様子がないので声をかけてみたが、返事はない。リゼは立ち止まったまま、じっと何かを凝視している。目を見開き、硬直し、白い肌は青ざめて生気を無くしている。何かに恐怖し、ショックを受け、呆然と立ちすくんでいるように見える。
「リゼ、大丈夫か? リゼ?」
近寄って再度呼びかけても反応はない。アルベルトなど目に入っていないかのように、ただじっと一点を見つめている。仕方なく肩を掴んで揺さぶると、さすがに我に返ったのか凍りついていた瞳に光が戻った。リゼは二、三度瞬きした後、ゆるゆると顔を上げ、アルベルトを見る。
「――なんでもない。速く行きましょう」
そう言うと彼女はアルベルトの手を払いのけ、足早に神殿の奥へ歩いていく。その様子はまるでなにから逃げるようだ。アルベルトは彼女の背を見やり、それから払いのけられた手へ視線を移した。
(震えていた……?)
肩を掴んだ時、右手から伝わった感触を思い出す。確かに彼女は震えていた。何かを見つめて怯えていた。
リゼが見ていたのと同じ方向を向いて、同じようにそこにある光景を目に映す。崩れた柱。融けた金属の道具。ほとんど灰になった書物の切れ端。そして、焼け焦げ、衝撃でバラバラになった誰かの死体――。
それは恐怖してもおかしくないものだ。少なくとも見ていて好ましいものではなく、アルベルトとて極力視界に入れないようにしている。しかし、グロテスクなものを見た時に覚える本能的な嫌悪感。リゼが怯え、凍りついていた原因は、それだけではないような気がする。もっと酷い、トラウマを刺激されたかのような。
――前に言ったでしょう。家族を殺されたって。目の前で母親が悪魔に喰い殺されたら誰だって思い詰めたりするわよ。
不意に、以前彼女が口にした言葉を思い出した。確か、メリエ・リドスに到着する前。夜、たった一人でどこかに出かけたリゼを追いかけた時のこと。辺り一帯の悪魔を力任せに消し飛ばした彼女に、「どうしてそれほど思い詰めているのか」と尋ねた時の答えがそれだった。
目の前で母親が悪魔に喰い殺されたら。その光景を目にしてしまったら――
「リゼ!」
名前を呼ぶと、彼女は立ち止まって振り返った。眉を寄せ、酷く不機嫌そうな表情をしている。
「なによ」
「気分が悪いなら、外へ出た方がいいんじゃないか」
「気分が悪い? 別にそんなんじゃないわ」
言葉の端々に苛立ちを滲ませ、リゼはため息をつく。
「こんな陰気なところにいたいとは思わないから出てもいいけど、私なしでどうやって奥までいくの? 倒れたって知らないわよ」
それだけ言って、再び奥の方へと歩いていく。その後ろ姿を見ながら、アルベルトは右手を握りしめた。
「聞く耳持ちませんわねーリゼは」
少し呆れたように、ティリーは言った。それから立ち尽くしたままのアルベルトを見遣り、腰に手を当てる。
「速くしないと追いてかれますわよ」
「……ああ」
色々と考え事をしながら相槌を打つと、ティリーは小さくため息をついて腕を組んだ。思案に暮れるアルベルトに、彼女は呆れ顔で続ける。
「気にしなくっていいと思いますわよ。奥へ行ってみればと言ったのはリゼなんですし、それが分かっているからああして意地でも行こうとしてるんですのよ」
「……」
「うーん、事情はよく分かりませんけど、トラウマのことなんてホイホイ人に話しませんわよ。リゼの性格を考えると、心配されるのもうっとうしがるでしょうし」
「そうだろうな」
「分かってるならいいじゃありませんか」
「ああ。ただ――どうして忘れてたんだろうかと思って」
悪魔のせいで孤児となった人間はこの世に数えきれないほどいる。アルベルトとてその一人だ。その中には、アルベルトのように両親が悪魔に取り憑かれて亡くなる他に、魔物に襲われて命を落とす者も少なくない。肉親が狂い、痩せ細り、外見も精神も変容して死んでいくさまも恐ろしかったが、目の前で親が魔物に喰い殺されるなんて、どれほどのショックを受けるだろう。
そのことを聞いていたのに、今まですっかり忘れていた。それが残念でならなかった。もう少し早く思い出していれば、もっと気遣えたかもしれないのに、と。
そう考えていると、ティリーは物言いたげな目をしてじっと見つめてきた。無言の圧力を感じて、アルベルトは思わず一歩下がる。するとティリーはまたしてもため息をついた。
「一つ言っておきますけど、貴方、完璧超人を目指すのはやめた方がいいですわよ」
驚くアルベルトの鼻先に人さし指を突き付けて、ティリーはさらに続けた。
「貴方は貴方が信仰する唯一絶対万能全能の神様とは違うんですのよ。心配しなくても貴方の気遣いレベルは十分高いんですし、あれもこれもそれもどれも察して出来るようになんて不可能ですわよ」
ティリーは言い聞かせるように話し終えてから、先程よりも深いため息をついた。
「もうちょっと肩の力を抜いたらいいんじゃありません? 出来ないものは出来ないんですもの。どうしてもやりたいなら、それ一本にしぼったらどうです? やりたいことを、一つだけ、ね」




