利用 1
私利もなく、私欲もなく、誰も利用するつもりがないと言い切れる者が、この世に幾人存在するのだろう
奇妙な啼き声が遠くから聞こえてくる。
赤子が泣くような、狂人がわめくような、不協和音のごとき声。遥か遠く、窓硝子越しに漏れ聞こえる程度なのに、胸の奥をざらりとなでられているような気分になる。広い客室の柔らかいソファに腰かけたシリル・クロウは、その不気味な感覚に震えながら、縮こまるように身を固くした。
「……魔物があんなにやってくるなんて」
先程窓から外を眺めた時、谷の細長い空を半分以上覆うほどの魔物が飛来してきているのが見えた。少し前に谷底の方で大きな爆発音があって、ゼノとキーネスが様子を見に出て行った後に今度は魔物の襲来。あの爆発と魔物の襲来には何か関係があるのかなと思いつつも、シリルはある疑惑を拭えなかった。
それは、魔物の襲来は自分のせいではないかということ。
ある特殊な体質であるために、シリルは魔物を呼び寄せやすい性質を持っている。ここ数週間に限っても、二度も魔物の大群を呼び寄せてしまっている。悪魔除けになるというお守りを貰ってはいるのだけど、不安は消えない。自分が皆を危険にさらしているのではないかと――
「さっきの爆発は神殿を狙ったものみたいだね。そのせいでフロンダリアの結界が揺らいでいる。魔物はその隙をついて侵入したみたい。フロンダリアは人口が多いし、魔物にとっては餌場みたいなもの。結界が緩んだら、腹を空かせた獣みたく群がってきてもおかしくないよ」
はっとして顔を上げると、向かいのソファに腰かけたオリヴィア・セロンが優しげな瞳でこちらを見つめていた。深い緑の眼差しは、言葉に出していないシリルの不安を見透かしているようだ。
「誰のせいかと言えば間違いなく神殿を爆破した奴だね! 一体誰なんだい? あんな罰当たりなことをするなんて、普通なら有り得ないよ」
シリルを安心させようとしているのか、彼女は見知らぬ爆破犯にひとしきり文句を言ってから、やはり魔物のことが気になるのか窓の方へ視線を送る。つられてシリルも窓の方を見ると、遠くの方に黒い点が飛び交っているのが見えた。魔物だ。
「あたしも行きたいところだけどねえ」
ソファの背に頭を預けたオリヴィアが、不満げにそう呟いた。仲間であるゼノとキーネスが戦いに向かったのに、自分はじっと待っていなければいけないのが全く不本意なのだろう。しかし、半年間人喰いの森の“神”を名乗るもの・フリディスに身体を乗っ取られ、つい最近自身の肉体を取り戻したばかりの彼女は、長期間肉体と精神が分離していた影響で身体をうまく動かせないのだった。安静にして、普通に生活していれば何の問題もないが、下手に身体を動かすとすぐに動けなくなってしまう。少しずつ快方に向かっているようだが、まだ魔物退治は無理だ。
「お二人なら大丈夫ですよ。お強いですもん」
「まーねー。ゼノとキーネスの実力は良く知ってるけど……」
そう言って、オリヴィアは頭の後ろで腕を組む。思えば何年もの間、彼らと仕事をしていたオリヴィアにとって、二人の力量など言うまでもないことだ。余計なことだったかな、とシリルが考えていると、オリヴィア何故かは酷く難しい顔をしてから、ぽつりと呟いた。
「あいつら頼りないからねえ。ゼノは馬鹿だし脳筋だし、キーネスは本職が情報屋だから取り立てて強い訳じゃないし。普段は冷静な分ゼノよりマシだけど」
仲間に対する辛辣な評価に、シリルは驚いて目を瞬いた。ゼノとキーネスが頼りない? 魔物に襲われた時、何度も何度も守ってくれたのはゼノだし、キーネスの方も、幾度かその鮮やかな剣捌きで魔物を屠るところを見ている。シリルにとっては、あの二人が頼りないなんて言われても信じられない。だが別に冗談というわけではなく、オリヴィアはいたって真剣である。
「そんなに頼りないんですか……?」
「頼りないよ。ゼノは馬鹿だしキーネスはあれで結構抜けてるところがあるから。あいつらと初めて会った時なんて傑作だった。洞窟の中でのことだったんだけど、魔物と戦っていたら近くまであの二人が来ていたらしくて、あたしがぶっぱなした魔術に驚いてゼノがコンパス落として壊しちまったんだよ。コンパスがないと洞窟から出られなくなるのにね。コンパスが壊れたのも、仕事で失敗して借金作って、その返済で文無しになってたせいで古いものを使い続けてたからだって言うし、仕事で失敗したのは二人して重要なことを確認し忘れてたせいだとかいう話だし、全くあの二人は頼りない。ダメダメだよ。――ま、その分すっごく良い奴らだし、退治屋として十分に有能だけどね」
そう言って、オリヴィアはにやりと笑った。その笑顔は面白がっているような色もあるけれど、大切なものを語る時の優しげな雰囲気もある。今の話は冗談ではなく本当らしい。あの二人が案外と抜けているのも本当らしい。けれど、そんな二人のことをオリヴィアは大好きで、信頼する仲間なのだ。なんだかおかしくなって、シリルはくすくすと笑った。
つい最近会ったばかりだけど、一時身体を貸したことがあるせいか、オリヴィアとは話しやすい。ひょっとするとゼノの次、いやそれ以上かもしれない。リゼとアルベルトはあまり話す機会がなく、ティリーは話しているとなんとなく気疲れしてしまい、キーネスはそもそも会話が続かないししたがらないとなると、当然の結果なのかもしれないが。
(姉上がいたらこんな感じなんでしょうか)
シリルには兄が一人いる。お茶目で面白くて仲の良い、大好きな兄だけど、たまに姉がいたらどんな感じだろうと考えることがある。もしオリヴィアが姉だったら、すごく楽しそうだ。
そんな和やかなことを考えていた時、突然、さっきよりも近い所から魔物の啼き声が聞こえてきた。驚いて立ち上がり窓の外を見ると、思いのほか近い場所に成人男性ほどの大きさの黒い怪鳥が飛んでいる。黄色く濁った眼が獲物を探しているのか左右別々に動いていた。その不気味さに窓から離れるのも忘れて立ちすくんでいると、魔物の濁った眼がぐるりと動いてこちらを向いた。獲物を見つけて歓喜するかのように、魔物がぎゃあと啼いた。
と、その時、下方から飛来した炎の塊が怪鳥を捕え、黒い身体を瞬く間に燃え上がらせた。深紅の炎に焼き尽くされ、魔物は錐もみしながら落下していく。
「こんなところにまで魔物が入り込んでるんだ。まあ空飛ぶ奴ならしょうがないか」
すぐそこまで魔物が迫っていたというのにオリヴィアはのんびりとした様子で窓の外を見ている。彼女は驚いて立ちすくんだままのシリルを見て、にっと笑った。
「ああ驚いた? 大丈夫だよ。結界のない街じゃ討ち漏らした魔物が街中まで入ってくることがよくあるし、退治屋はそういう時の対処に慣れてる。ここには結界があるけど、さっすがフロンダリアの退治屋同業者組合。不測の事態の対処法もばっちりみたいだね」
そう言って、オリヴィアは窓の方へ視線を移す。魔物から抜け落ちた黒い羽根が数枚、まだ宙を舞っていたが、本体が近付いてくる様子はない。啼き声も遠くからしか聞こえない。
「一匹だけだったみたいだね。ま、いざとなったらあたしが何とかするよ。この分だと大丈夫そうだけど。フロンダリアの退治屋はミガーでも特に優秀な魔術師が勢揃いしてるからね」
オリヴィアの言う通り、窓から街の端の方へと視線を向けると、炎や水が空を踊り、魔物を撃ち落としているのが見て取れる。ミガー人が使う“魔術”というものは、いつ見ても不思議で不気味で、そんなものを当たり前に使う魔術師達が恐ろしくもあって、けれど少しだけ――
その時、二度、扉をノックする音が響いた。控えめな音で危うく聞き逃す音だったが、どうやら誰かが訪ねてきたらしい。外の物音からして魔物退治はまだ終わっていないようだからゼノやキーネスではなさそうだし、アルベルト達か兵士の誰かだろうか。シリルは立ち上がると、
「わたしが出ますね」
と言って、扉の方へ向かった。
樫の木で出来た扉は大きくて重い。扉にもノブにも精緻な飾りが掘られているが、実用性でいうとそれほどかもしれない。シリルはノブを回し、扉の重みを感じながらゆっくりと扉を開いた。
「どなたですか?」
細く開いた扉の隙間から廊下を覗くと、果たしてそこには誰もいなかった。あれ、と思って更に開くと、扉の影からローブの裾がちらりと覗く。単に見えなかっただけらしい。さっきより開いた扉の隙間から再び廊下を見ると、そこには、黒い服を着た人物が立っていた。
奇妙なことに、覆面で顔を隠した人物が。
そいつは突如廊下側のノブを掴むと、扉を力任せに押し開けた。開く扉の勢いに押され、シリルは軽く吹っ飛んで柔らかい絨毯に尻餅をつく。突然のことに混乱していると、黒服は部屋に侵入して重い扉を乱暴に締めた。
次の瞬間、黒服は獲物を見つけた獣さながらに素早く床を蹴って矢の如く飛び出した。右手に握られているのは黒く塗られた大ぶりのナイフ。それがなんなく届く距離まで迫ってきた瞬間、覆面の隙間から覗く虚ろな瞳と目が合った。
――耳元で、バチバチと火花が爆ぜるような音がした。
気付いた時には、黒服の侵入者が青い絨毯の上をもんどりうって転がっていくところだった。黒服の身体を取り巻いているのは幾筋もの雷。標的を拘束するように体表を駆け巡り、火花をはじけさせている。
「シリル! 逃げな!」
振り返ると、ソファの脇に立ち武器を構えたオリヴィアが黒服を睨みつけていた。彼女が持つ身の丈より長い棒状の武器・棍は魔術の雷によって帯電している。後遺症で素早い身のこなしなどできないはずなのに、いつの間に武器を取ったのだろう。
いいや、それより今は逃げなければ――。オリヴィアの指示に従おうと、シリルはとっさに目の前の扉へと走った。扉の向こうに黒服の仲間が控えているんじゃないかとか、そんなことを考える余裕もなかった。
しかし結局のところ、そんなことを考えていても考えていなくても一緒だった。ドアノブを引いても扉はびくともせず、どんなに力を込めても開かなかったのだ。
勢い余って尻餅をついたシリルは、呆然と開かない扉を見た。鍵だ。鍵がかかっている。どうして? ついさっき、あの黒服が入ってきたばかりなのに!
けれど、出られないものはどうしようもない。外へ出られないなら寝室へ立てこもるしかないかと、そちらの方へ足を向ける。しかし数歩も行かないうちに寝室へ続く扉が開かれて、何人もの黒服の男がなだれ込んできた。つんのめるように立ち止まり、シリルは呆然と黒服男達を見る。どうしよう、どこに逃げればいい?
部屋に侵入した黒服めがけ、オリヴィアの雷が振り下ろされる。心臓に響く大きな音。雷の雨を受けて黒服達のうちの何人かが倒れる。しかしそれに耐えた一人が、数歩で部屋を駆け抜けてオリヴィアに迫った。
「オリヴィアさん!」
シリルはほとんど悲鳴のような声で彼女の名を呼んだが、当の本人はいたって冷静だった。両手で握った棍を、無駄のない動作で前方に突き出す。雷を纏った棍の先端は正確に黒服の胸部を捕え、雷の迸りと共に後ろへ吹き飛ばした。
「なんだよこいつら。この館の警備は一体どうなってるんだよ!」
悪態をつきながらオリヴィアは黒服達に向けて駄目押しとばかり雷をお見舞いした。魔術の雷に敵の衣服がすっかり焦げてぷすぷすと煙が上がる。黒服達は相当なダメージだったのか床に這いつくばったまま動かない。特に棍で胸を突かれた奴は、焼け焦げで衣服に大穴が開くほどの雷撃を喰らい、指先一つ動かせないようだった。
しかし勝利者たるオリヴィアの方も、まるで全力疾走をした後のように息を切らし、額には脂汗が滲ませている。やはり無理をしているのだ。
(わたしだけ逃げても駄目だ……!)
オリヴィアは強い魔術師だ。でも全く本調子ではない。敵は倒したが、こいつらがまた起き上ったら? 新たな敵が来たら? 今度は負けてしまうかもしれない。
逃げるなら、自分だけ逃げても駄目だ。オリヴィアも連れて行かなければ。それとも助けを呼ぶ方が良い? でも、鍵がかかっているから外へ出られないし、これだけ大きな音がしたのに誰もくる気配がないということは、みんな魔物退治で忙しいのかもしれない。なら、協力して二人でここから逃げる方が――
息を切らしたオリヴィアは、眩暈がするのか棍を杖代わりにして寄り掛かっている。視線は黒服達から外さないが、立っているだけでも辛そうだ。やはり、オリヴィアを連れて逃げるべきだ。彼女なら魔術で扉を破れるだろう。そう決断したシリルが、彼女の方へ一歩踏み出そうとした時だった。
オリヴィアの背後に、黒い影が迫った。
「オリヴィアさん、後ろ!」
悲鳴のようなシリルの警告。はっとして振り返るオリヴィア。再び雷が奔り、術者を守るように蜘蛛の巣の如き網を創り出す。だがその雷は弱々しく、黒服の接近を阻むことはできなかった。そして、
黒い閃光がオリヴィアを捕えた。




