暗躍する影 9
神殿へと続く坂道を下りながら、ティリーは空を見上げた。フロンダリアにある結界。残念ながらティリーの眼ではその姿を捕えることは出来ないが、存在自体は何となく感じ取れる。だが神殿が破壊された今、結界の気配は酷く不安定で、何かのきっかけがあればすぐにでも消えてしまいそうだった。
黒煙を上げる神殿に近付くにつれ、鼻を突くような臭いが漂ってくる。あの不快な火薬の臭いだ。上手く使えば道具として便利だし、魔術師でない人にも扱うことができるというメリットがあるのは理解しているが、ティリーは今一つあの火薬という代物が嫌いだった。臭いがするし、魔術と違って細かいコントロールが効かないから危険が大きい。火力の調節をするには火薬の量をいちいち変えねばならないと聞くし、魔術の方が面倒がなくてよいのにと思う。実際、魔術師に頼んだ方が速いと、火薬を使う者はほとんどいないのだけど。
「ところでティリー。神殿には、なにか結界の要になるようなものがあるのか?」
前を行くアルベルトが不意にそう訊ねてきた。何かと質問が多い人だ。ミガーのことをロクに知らないのだから当たり前だが、ミガー人なら子供でも知っていることである。
……まあでも、積極的に知り、理解しようとする姿勢は評価してやらないでもない。傲慢で人の話を聞かないマラーク教徒、ひいては悪魔祓い師の中では、非常にまっとうな奴だとは思っている。アスクレピアで助けられた借りは返したし、このことまで説明するかは悩むところだが――
「あー……高いエネルギーを固定するためには触媒が必要なんですわ。形のないものを操る時、物質を介する方が安定するし扱いやすいんですの。悪魔祓い師の術を使う時も同じなんじゃありませんの? その剣、ただの剣ではないでしょう?」
結局そう答えて、ティリーはアルベルトの腰の剣に視線を送った。
魔術とは精霊という無形のものを炎や水といった有形のものに変えて操る技術だ。ところが精霊はそのままでは容易に拡散してしまうため、コントロールが非常に難しい。そこで物質に魔法陣を刻み、それを触媒として精霊を集めて固定することで、魔術が行使しやすくなるのだ。ティリーが見てきた限り、悪魔祓い師の術も似たようなもので、アルベルトの場合は剣に補助となる聖印か何かを刻んでいるのだろう。ただ悪魔祓い師であることを宣伝しているようなものなので、布を巻いて隠しているようだが。
「それと同じで、神殿には精霊神の依り代となるものが安置してあって、それを触媒に結界を張っているってわけですわ。それがなくなったらどうなるかなんて、言うまでもありませんわね」
神殿の爆破犯への苛立ちを乗せながら、ティリーは話をそう締めくくった。まったく、神殿を壊すなんてどうかしてる。悪魔や魔物の侵入を許してしまうし、日頃恩恵を与えてくれる相手にこの仕打ちとは罰当たりにもほどがある。
ティリーとアルベルトが谷の底に着いた時、テウタロスの神殿の前には大きな人だかりができていた。
いまだ黒煙を上げる神殿に、複数の魔術師達が水の魔術を掛けている。入口は半ば崩れ、見事な彫刻は無残な姿になっていた。中にまだ人がいるのだろうが、救出作業は難航しているようだ。最も、この分では生きているかどうかも怪しいが……
「一体誰がこんなことを」
消火作業をする魔術師達の近くでは、爆発の影響で負傷した人達が寝かされ、応急手当てを受けている。爆発で吹っ飛んだ瓦礫にぶつかったのか、負傷して血塗れになっている者。火傷を負っている者。軽傷の者もいるが、重傷者は応急手当てが済み次第、担架に乗せられて病院へ運ばれていった。
「かなり大きな爆発だったみたいですわね。通りで大きな音がしたわけですわ。ほんっと誰なんですの。こんなことをした馬鹿は!?」
心底腹が立ったが、犯人が分からないのでこの怒りをぶつけるところがない。いらいらしながら足元の石を蹴っ飛ばした時、背後から不意に聞き知った声がした。
「麻薬の密売人――悪魔教徒の仕業じゃないでしょうね」
びっくりして振り返ると、いつの間に来ていたのか、そこには腕を組んだリゼが立っていた。彼女は険しい表情で煙を吐き出し続ける神殿を見つめている。
「リゼ! 博士との話は終わったのか?」
「大体は。大きな音がしたから来てみれば、こんなことになってたのね」
アルベルトの質問に、リゼは神殿から視線を外さずに答える。それから、先程の台詞の続きを話した。
「爆弾はあいつらの十八番でしょう。それに、神殿をぶっ壊すなんてこと、普通の人に何のメリットがあるの」
精霊神テウタロスの結界によってフロンダリアが守られている。結界の消滅は悪魔の侵入に対して全く無防備になってしまうことを意味する。悪魔を祓う手段を持たないミガー人は、悪魔が近寄らないようにすることが最善の防御策だからだ。結界を壊すなど自殺行為に等しい。
「悪魔教徒なら、悪魔が活動しやすい空間を作るために結界を破壊したっておかしくない、か。ひょっとしてルルイリエも――」
リゼの言葉を聞いたアルベルトが何か考え込むように呟く。確かに悪魔教徒ならそういうことをするだろう。彼がメリエ・リドスで遭遇したという刺客。ついこの間アスクレピアの集落で襲いかかってきた黒服集団。悪魔教徒の手先だという彼らは爆弾を使っていた訳だし、今回の件も彼らの仕業だとしてもおかしくない。
それと、アルベルトがルルイリエがどうこうと言ったが、あの湖の街も何か関係があるのだろうか。確か二人はあの街を訪れているし、そこで何か事件があったのかもしれない。そう思ってルルイリエのことを訊こうとした時、事件の処理をしていた兵士が野次馬を追い返し始めた。白い衣服を着た研究者。汚れた作業服を身につけている者。一般市民にその子供。野次馬達は兵士に追い返され、
「神殿を爆破するなんて何考えてんだ」
「罰当たりな奴だ。我々の守り神を……それに結界は大丈夫なのか?」
「火薬だっけ。魔術なしであんなことが出来るんだから恐いよねぇ」
「国が管理してるんじゃないのか? 危険物だぞ?」
「いや、金さえ積めば手に入れるのは難しくないらしいからなぁ。この街にも少しあるし」
「魔術と違って痕跡が残らないから、犯人を特定するのは難しいぞ」
口々に喋りながら帰っていく。その様子をティリーは何気なく見ていた。
と、人混みの中にいる一人。フードを被った人物がこちらに視線を向けた気がした。日差しが強いのでその恰好自体はおかしくもなんともないのだが、フードをしっかり被っているので表情は窺えない。すると次の瞬間、その人物は何かを放るように右手を動かした。
黒く小さい物が弧を描いて、まっすぐこちらへ――ちょうどリゼのいる辺りへ飛んで来た。
その瞬間、アルベルトがリゼの肩に手を置いて、手前に引き寄せた。よろけて二、三歩前に出たリゼとは逆に、人混みの方へ数歩進み出る。その右手は剣の柄に掛かっていた。
剣を抜き放つ音が高らかに響いた。
次の瞬間、アルベルトは剣を納めて人混みの方へと走り出していた。人混みの内の何人かが何事かと思ったのかこちらを向く。その中でも、先程黒い物を放ったフードの人物は、すぐさま踵を返し人混みの中に紛れようとした。
『凍れ』
咄嗟に逃がすまいとしたのか、人混みの方へ向いたリゼが素早く魔術を放った。人混みの中に突然氷壁が出現して、あちこちから戸惑いの声が上がる。そこに分け入ったアルベルトが、逃げ道を塞がれて立ち往生していたフードの人物を捕らえた。
「すみませんが誰か兵士の方を呼んでください! こいつ、神殿を爆破した犯人かもしれない!」
アルベルトの発言に周囲は一斉にどよめいた。それは波紋のように広がり、次いである者は兵士を呼びに行き、ある者は犯人を取り押さえるのを手伝った。
ティリーは人混みから視線を外して、あのフードの人物が放り投げた物に目をやった。
大きさは胡桃を二回りほど大きくしたくらい。真っ二つに割れて綺麗な切断面を晒している。中には黒い砂のような物と小さな金属片。表面には火の魔法陣が刻まれていた。
爆弾だ。メリエ・リドスにあった物と同じ、簡単な火炎魔術で爆発させられるようにしてある。魔法陣が発動する前にアルベルトが斬って捨てたため爆発しなかったが、もし爆発していたら……尖った金属片のようなものがあることから考えるにかなりの大怪我を負っていただろう。
「あいつ、私を狙ったの? 直接見たわけじゃないから分からないけど」
ティリーと同じように二つに割れた爆弾に目をやりながら、リゼが不思議そうに呟いた。胡桃大の物体が着弾していたであろう場所には、リゼとアルベルト、それに自分しかいない。他の野次馬達は少し離れたところにいるし、爆弾のサイズからして至近距離にいなければ殺傷力はかなり低くなるだろう。
「うーん、貴女に向けて投げたように見えましたけど」
まさかコントロールを誤ったというわけではないだろう。奴は明らかにリゼを狙ったのだ。だか何のために? このまま黙って立ち去れば捕まりはしなかったのに。
……というか、やはりリゼは奴が爆弾を投げた瞬間は見てなかったらしい。背を向けていたのだから当然だが、その状態で人混みの中へ氷雪魔術をぶちかましたわけで(氷漬けにはしなかったものの)。アルベルトが追っているのと逃げようとしていたことから怪しいと踏んだのだろうが、相変わらず思い切りがいい。
そうこうしている内に兵士がやってきてフードの人物を拘束した。兵士の一人の魔術師が、術を唱えて犯人の周りに半透明の膜を張る。むろん犯人を守るためではない。まだ爆弾を隠し持っているかもしれないので、万が一それを使われても周囲に危険が及ばないようにするためだろう。真っ二つに斬られた爆弾も、兵士が慎重な手つきで回収していった。
しばらくして、兵士と話していたアルベルトが戻ってきた。彼は複雑そうな表情をして何か考え込んでいる。そこへリゼが質問した。
「何か分かった?」
「ああ、奴は爆弾をいくつか持っていた。ティリーも見ていたと思うが、君に爆弾を投げていたし、神殿を破壊したのも奴じゃないかと思う。が……」
どこか歯切れが悪く、アルベルトは答える。その様子を見ていたリゼが眉をしかめて、なにかおかしなことでもあるの、と尋ねた。
「奴は普通の状態じゃない」
アルベルトはそう言って、兵士に引っ立てられていく爆破の犯人へ視線を向けた。犯人がかぶっていたフードはすでに下ろされ、素顔が晒されている。乱れ、薄汚れた黒髪。頬はこけ、痩せ細っているのがここからでもわかる。すると犯人はティリー達の視線に気づいたのか、こちらへ顔を向けた。
その眼は虚ろで何も映しておらず、口元には不気味な薄笑いが張り付いていた。
「――麻薬中毒者」
犯人の異様な様子を見たリゼが、ぼそりと呟いた。
「麻薬中毒者に似てる。眼が赤くなかったから悪魔憑きじゃない。メリエ・リドスの麻薬中毒者があんな感じだったわ。あっちはもっと騒がしかったけど」
「あいつは麻薬のせいでこんなことをしでかしたってことですの?」
正確なことはグリフィスにでも頼んで調べてもらうしかないが、つくづく厄介ごとばかり起こす薬だ。いや、つくづく悪魔教徒は厄介ごとばかり起こす連中だ、と言うべきか。悪魔召喚の儀式を行われるだけで十分面倒なのに、今度は結界破壊だなんて。
その時、遠くから奇妙な啼き声が聞こえた。甲高く耳障りな、おそらくは鳥の啼き声。それを聞きつけた何人かが、声がする方角を見た。
「……神殿を壊す予定があるなら、魔物を連れて来るぐらいのことはするでしょうね」
現れた声の主を見て、リゼはそう呟いた。
フロンダリアの細長い空に、いくつもの鳥の魔物が飛んでいた。




