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Savior 《セイヴァー》  作者: 紫苑
悪魔教徒編
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暗躍する影 2

 アルベルト達がアスクレピアに滞在して、早一週間が過ぎていた。

 記憶喪失になった退治屋達の治療はほぼ終わりつつあった。神殿を出入りして必要な量のエゼールを集め、解毒と傷の手当てに一日を費やす。長らく種を植え付けられていたためにすでに手遅れだった者も幾人かいたが、集落にいた大半の人間を治すことができたのは僥倖だった。

 今は畑に咲き乱れていたダチュラも貯蔵されていた種も焼き払われ、アスクレピアの集落に不穏の影はない。温かい光の射す集落を歩きながら、アルベルトは目的の人物の姿を探した。途中何人かの退治屋とすれ違うが、探している人はいない。一通り集落の中を見まわった後で、アルベルトは集落の西へと足を向けた。そして、

「こんなところにいたのか」

 アスクレピア神殿へと続く階段の一番上で、柱の陰に隠れるように立ったリゼはじっと神殿の入口を見つめていた。蔦と苔に覆われたアスクレピア神殿は、西へ傾いた太陽の光で明るく照らされている。神殿の奥にあった黒い気配はもうどこにもない。神殿に君臨していたものは跡形もなく消滅したからだ。まだわずかばかりの悪魔が残っているが、今すぐ害になるほどではないし時間さえあれば全て浄化するのは訳ないだろう。

「なにをしているんだ?」

 アルベルトに問われて、リゼはこちらに視線を向ける。少し、いやかなり疲れたような顔をしていた。

「考え事よ。この辺りには人がいないから。下じゃ集中できない」

「ああ、なるほど……」

 毒はエゼールで中和できたものの、ダチュラの根は身体の奥深くまで食い込み、多くの退治屋達は深い傷を負っていた。後遺症が残りかねないほどの重傷を負っている者もいたが、それでもほとんどの退治屋が無事に回復することができたのは、リゼが癒しの術で退治屋達を治療していったからだった。そうでなければこんなに速く退治屋達の治療は終わらなかっただろう。

 ただ問題は、ミガーでも扱える者はいないという癒しの術を使ったために、リゼは完全に退治屋達の注目を集めてしまったということだった。ことに魔術師達は率先してリゼの話を聞きたがり、当然ながらティリーもその中に加わっていた。集落の中にいると大体そんな状態になるので、騒がしいことを嫌う彼女がこんなところに退避しているのも致し方のないことだろう。

 東からの爽やかな風が吹き抜けていく。

「それで、何か用?」

「ああ、そろそろ出発できそうだから、明後日にはコノラトへ向かおうかという話になってるということを伝えたくて」

 ここから一番近いコノラトへ向かうためには、魔物が跋扈する人喰いの森と例の猪が棲む禁忌の森を通る必要がある。アルベルト達がここに来る時はキーネスの案内があったため猪に遭遇することはなかったが、今度は大人数だし、キーネスの案内があっても見つかる可能性がある。ゼノとシリルが森を通った時も襲われたそうだから、退治屋達の体調が万全になるまで出立を見合わせていた。それがつい先程、そろそろ出発できるだろうということになったのだ。

 そのことを告げると、リゼは「そう」とそっけなく言って、また何か考え込むように柱へ背を預ける。しばらく思い詰めた表情で沈黙していたリゼは、不意に視線をこちらに向けるとこう尋ねた。

「訊きたいことがあるんだけど――あなた、フリディスが最後に言っていたこと、聞いていた?」

「最後に言っていたこと? いいや。木の根や蔓の相手をしていて、ほとんど聞き取れなかった――何か、気になることがあるのか?」

 すると、リゼは「聞いてないならいい」と言って、

「大したことじゃないわ。私は消えたはずだとか我々を滅ぼすだろうだとか、訳の分からないことを喚き立てていただけだから」

 別段気にした風もなくあっさりと答えた。しかし、アルベルトにもフリディスの発言の意味はよくわからないが、簡単に無視していいことでもないような気もする。「消えたはず」とか「我々を滅ぼすだろう」とか、穏やかな表現ではない。

「――フリディスは本当に“神”なのか? ミガーの神のことはよくわからない。でも、本当に“神”なら、フリディスの言ったことは何か大きな意味があるのでは……」

 正直なところ、アルベルトはフリディスが“神”であるなんて信じられないままだ。悪魔とは少し違う“何か”であるのは確かだが、“神”があんな風に話し、人を害するものだろうか。

「さあ。悪魔とは少し違うのは確かだけど、強い悪魔が“神”を名乗っていただけかもしれないわ」

「なら、“神”ではないかもしれない……?」

「どうかしらね。“神”ってものが何であるかによるわ。なんにせよ人に取り憑いて害を為すなら、それは悪魔と同じよ」

 一際強い風が吹いて、遠くの人喰いの森の樹々がざわざわと揺れた。

「それより、ダチュラのこと、何か分かった?」

「ん? ああ――」

 ダチュラ。記憶喪失になる毒が含まれる植物。アルベルトがこの植物のことを知っていたのは、メリエ・リドスで貰った麻薬の原料に関する覚書があったからだった。麻薬の原料であるダチュラ。それがここにあるのなら、麻薬を製造している者がアスクレピアに採りに来ている可能性がある。そう思ったアルベルトは、ここ一週間、退治屋達にダチュラを採りに来た者がいないか聞き込みを続けていた。

「住民――退治屋達の何人かが言っていたんだが、採ったダチュラの種を箱詰めにして置いておくと、月に数度、商人らしき男達が箱を持っていくらしい。代金代わりにこの集落では手に入らない物資を置いていくらしいが、話しかけても無言のままで、彼らが何のために種を持っていくのか、全く分からなかったらしい」

「本当はダチュラの種は麻薬の材料で、その商人らしき男達は麻薬の密売人かその手先だったということか」

「そういうことみたいだな。オリヴィアがダチュラは危険な植物だから、決まった場所でしか栽培されていないと言っていたし」

 実家が薬草問屋で植物には詳しいというオリヴィアが詳しく教えてくれたのだが、ダチュラはその危険性から栽培が規制されており、数少ない許可されている栽培地にこんな場所は含まれていないのだという。そもそもフリディスがアスクレピアの住民を増やすために育てていたものだし、自生しているものでも採って販売するのは違法なのだそうだ。月に数度、ダチュラの種を買っていく商人とやらは、まず間違いなく麻薬に関わる者だろう。

「なら――」

 アルベルトの説明を聞いて、何か考え込んでいたリゼがぽつりと呟いた。

「なら、ここにいたら密売人の奴らと鉢合わせするということかしら」




 深夜。

 夜闇に沈む集落を、月と星の清かな光が照らしている。

 住人達の大部分はとっくの昔に眠りについている時刻。まだ起きている者もいるかもしれないが、薪や油が無駄になるから明かりは最小限に抑えているのだろう。月と星以外に光源はなく、アスクレピアは静かに、夜の帳に包まれている。澄んだ月の光を浴びて、少し傾いだ家々は黒い影を落としていた。

 その闇の中を蠢く複数の黒い影があった。影は音を立てず、静かに家々へと近づいていく。硝子はない、木の格子だけの窓から、影は中の様子を窺った。簡素な寝床の中で、部屋の主は薄い布団にくるまって微動だにしない。

 ほとんど音を立てず、窓の格子が斬られて落ちた。元から雑な作りだったので簡単に壊れてもおかしくないが、それにしても影の手際は見事だった。人一人が容易に通れる隙間ができたところで、影は静かに室内へ降り立つ。

 窓から差し込む月光が侵入者によって遮られた。月の光で蒼く照らされた室内に落ちる黒。それ以外に動く者はいない。侵入者はゆっくりと寝床にいる部屋の主へと近づいた。どこからか取り出した、黒塗りされた剣を手にして。

 その時、薄い掛け布団がばさりと宙を舞った。

『凍れ』

 布団を頭から被った侵入者に向けて、リゼは魔術を放った。氷雪が走り、壁際まで吹き飛ばして氷漬けにする。侵入者は抜け出そうと身じろぎしたが、当然その程度では抜け出せない。

「夜中にいきなり何の用かしら。一体どこの誰?」

 侵入者は答えず、どうにか抜け出そうと足掻いている。布団をかぶったままだから表情は見えない。

 まあ、どこの誰かは大体見当は付いている。今夜来るとは思わなかったが、あいつらの手先で間違いないだろう。目的は――口封じか。

 標的は自分だけということはないだろう。他にも仲間がいるはずだ。耳を澄ますと、遠くから剣戟の音が聞こえてくる。誰かが交戦しているのか。

 加勢しようとリゼは寝床にいる間も抱えていた剣を腰に差した。剣帯を留め、剣はいつでも抜けるようにしておく。

 あとは侵入者だが、仲間が来て抜け出されては困るのでこのままにしておくわけにはいかない。話を聞ける奴がいた方が良いし、完全に氷漬けにして再起不能にしておくか。ついでに素顔を確認しておこうと――覆面をされていなければの話だが――リゼは侵入者に近付いて、そいつが被ったままの布団をはぎ取ろうとした。

 手を伸ばしたその瞬間、嫌な予感がして、リゼは後方に飛び退いた。

 途端、目の前に黒い闇が広がった。月が雲に隠れたのではない。窓も明かりもない部屋に閉じ込められた時のような、目の前にあるものすら分からない真っ暗闇だ。

『清かに煌めきたる光。我が行く末を照らせ』

 リゼはすぐさま右手を広げ、静かに光の魔術を唱えた。魔力が収束し、掌に小さな光球が生成されていく。闇の中で、それは確かな輝きを見せ――

 完成直前であっけなく砕け散った。

 得意分野ではないとはいえ、光魔術が阻害されたということは、これは高威力の闇の魔術だ。仕掛けたのは、あの氷漬けになった侵入者ではない。すぐそこにもう一人いたのか。

 魔術が発動する直前の張りつめるような空気が流れる。一拍おいて闇の向こうから何かが押し寄せてきた。咄嗟に氷壁で防いだが、一部突き抜けてきた魔術が腕をかすめる。腕の皮膚が綺麗に斬り裂かれ、血が滴るのを感じた。

(風の真空刃か)

 相手の位置が分からないので、魔術が来た方向へ向けてあてずっぽうで氷槍を撃ちこんだ。氷槍が何かにぶつかり、砕け散る音。音からして、敵にはあたっていない。そう思った瞬間、風の塊が襲い掛かってきた。

 殺傷力はなかったが、吹き飛ばされて後ろの壁に叩きつける。氷壁を創ることで追撃は防いだが、相手の位置が分からないことには動きようがない。いっそ風で全部吹き飛ばすか。敵がすぐ近くにいるのは確かなのだから、視えなくても広範囲を一気に吹き飛ばせば当たるはず。

『悠久の時を過ぎ行く風よ。翠の流れとたゆたいし、勝利を奏でる精霊よ』

 闇の向こうで再び魔力が高まるのを感じた。また、敵が魔術を撃ってくる。

『我が魂が結ぶ盟約。我が意志が紡ぐ力。其に従い、其を対価として、我に力を与え給え』

 風を切る音と共に、頬をかすめて何かが通り過ぎて行った。魔術ではない。ナイフだ。敵の魔術師か、氷漬けにした侵入者か、それとも新しく来た奴らの仲間か。こちらも術を唱えていることに気付いて妨害しようとしたのだろうけど、直撃しなかったことを見るに相手にもこちらの姿が見えていないらしい。

 しかし、敵の魔術は完成しつつある。こちらはまだ少しかかる。間に合うのか。

『我が願うは、動乱齎す猛き烈風。空と大地を巡り行き、無限の時空を奔り行き――』

 その時、魔力の流れで敵の魔術が完成したことが分かった。こちらの魔術は間に合わない。負傷を覚悟で魔術を発動した後の隙を狙って、この魔術を使うしか――。

 そう考えて、リゼが身構えた時だった。

 派手な音を立てて、部屋の扉が開かれた。誰かが暗闇を突っ切って敵の方へ向かっていく。呻き声と人が倒れる音。完成した魔術が明後日の方向へ迸っていく。そして次の瞬間には、視界を覆っていた黒い闇が瞬きするうちに消え去っていった。

 月の蒼い光が目に飛び込んでくる。にわかに明るくなった部屋の中には、二人の黒服の男と、剣を手にしたアルベルトが対峙していた。

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