人喰いの森の守護者 9
神殿の中に入ると、暗く冷え冷えとした空気が足元に絡み付いてきた。奥から漂ってくるのは粘つくような悪魔の気配。だが本物と違って、神殿の内部に蔓も蔦も浸食してはいない。薄暗い石の通路を駆け抜け、闇に消えたキーネスを追う。
そして、三人は開けた明るい場所に出た。
そこは神殿内とは思えない、緑の生い茂る場所だった。
薄紅色の花が咲く半円状の広場。
正面には、思わず見上げてしまうほど大きな樹。
その根元には、赤黒い花弁を持つ巨大な妖花。
キーネスの姿はない。その代わりにいたのは、隆起した根の上に腰かけている深い緑色の髪をした一人の女。目の前に青く輝く魔法陣を展開させ、そこから湧き出でる水を樹の根元の小さな池へ、さらには広間を囲む樹々へと送り込んでいる。女は熱心にその作業を続けていたが、しばらくして魔法陣から目を離すことなく、広間への訪問者に声をかけた。
「ようやく来たのね。いらない人も混ざっているけど。でも歓迎するわ。ここまで来たのだから」
女は魔法陣から目を離し、アルベルト達へ視線を向けた。その口元にはうっすらと笑みが浮かんでいる。その容貌をアルベルトは知っていた。
樹上で笑う女は、地下で会ったオリヴィアと同じ姿をしていた。いや、あれこそオリヴィアの本体なのだろう。だが、今あの身体を動かし喋っているのは別のモノ。キーネスの話によれば、彼女に取り憑いた悪魔だ。
(悪魔……? いいや、これは……)
アルベルトは樹上の女に、かすかな違和感を覚えた。悪魔だと、キーネスもオリヴィアも言っていた。確かに、悪魔の邪悪な気配を感じる。でも、これは……
「せっかく連れてきてくれたのに、みんな記憶を取り戻してしまうなんて。エゼールはまるで雑草ね。抜いても抜いても、また生えてくる」
不満げにそう言って、女は立ち上がる。根の上で風に髪をなびかせながら、今度はティリーへと視線を向けた。
「つらいことがあったのなら、全部忘れてしまった方が良いんじゃない? 忘れて、ここで穏やかに暮らせばいいのよ。ねえ、ティリー・ローゼン?」
「余計なお世話ですわ。こんな陰気な場所でぼけっと暮らすなんてぞっとします」
きっぱりと拒絶するティリー。けれど女は笑みを浮かべたまま、優しい声で語りかける。
「ならあたしと一緒にこのアスクレピアのために働いてくれない? あたしとあんた、きっと分かり合えると思うの」
「馬鹿げてますわね。大体何を根拠にそんなことを」
「だって憎いんでしょう? 悪魔祓い師が」
その単語を聞いて、ティリーは少しばかり表情を変えた。疑いの表情から驚きの表情へ。それを見た女が満足そうに話を続ける。
「あたしも、悪魔祓い師が憎い。マラークの神が憎い。天使が憎い。あいつらを一人残らず殺したいの。あんたが思っているのと同じように」
「わたくしは――」
「あたしも大切なものを失ったの。奪われたの。だから協力しましょう? 敵対する理由はあたしたちにはない」
女は子を招く母のように両手を広げる。ティリーは何も言わない。ただ無言で女を睨みつけているだけだ。わずかな時間。重い沈黙が場を満たす。ティリーは考えているのか。それとも迷っているのか。静寂が降りたまま誰も動かず――
突如、剣を抜く音と大気中の水分が凍結する音が響いた。
「話は終わった?」
リゼが生み出した氷刃が女めがけて空を駆けた。眼にもとまらぬ速さのそれは、しかし女が生み出した水の障壁に阻まれて砕け散る。それを見ながら、リゼは吐き捨てるように言った。
「悪魔のくだらない話なんて聞きたくないわ。時間の無駄」
リゼは剣をむけたまま、また新しい魔術を紡ぎ始める。それを見て、女は深々と嘆息した。その顔には深い憂いが浮かんでいる。
「悪魔。そう、みんなそう言うのね。あたしは悪魔なんかじゃないのに」
「いい加減なことを。悪魔以外のなんだというんですの?」
怒りのこもった声で糾弾するティリー。だが、悪魔ではない明確な証拠がある。悪魔憑きには必ず表れる外見的な特徴が。
あの女の瞳。
緑色だ。悪魔に取り憑かれたら瞳は赤く染まるはず。だが、彼女の瞳は赤色の欠片もない。髪と同色の深い緑色だ。
最初に女を見た時、違う、とアルベルトは思った。
違う。あれは悪魔じゃない。悪魔に少し似ているが悪魔ではない。オリヴィアに取り憑いているのは、もっと別のモノだ。けれど、だったら。
だったらあれは何だ?
「悪魔じゃなかったら、お前は何だ?」
アルベルトの問いかけに、オリヴィアに取り憑く何かは眼を細めた。己を知らぬ者達を憐れむように、憂いているように、そしてどこか悲しげに、答えた。
「あたしは、“神”」
告げられた答えに、アルベルトは瞠目した。隣でティリーは息をのみ、女を凝視する。一人、リゼだけは剣を下ろしただけで、表情を変えることもしなかった。
「神? 集落の人が言っていた守り神か? そんなものが本当に……」
湖の女神セクアナを祀る町ルルイリエでは、確かに悪魔を阻む結界が張られていた。けれどアルベルトは正直なところ、それが“神”の力によるものだとは考えられなかった。神域のルルイリ湖に何らかの力を感じたのは確かだが、それは聖印に力が宿るのと同じ、物質を術の触媒にしているだけだろうと。力の集まる場所を神のいる場所と考えているだけで、実際に結界を張っているのは祭司長の力ではないかとしか思えなかったのだ。だって“神”はこの世に一人しか存在しないのだから――
驚くアルベルトに女は嘲笑を向けた。愚者を蔑むような目で見下ろし、理解のないものに言い聞かせるように語る。
「そう。あんた悪魔祓い師よね。この世にいる神は“唯一絶対の主”だけだとでも思ってるの? あんな突然現れた上、たいした神格もないくせに神様面している輩と一緒にしないで。あたしは遥か古の刻からこの森を護り、森の精霊たちを統べる“神”よ」
そう言って、女は両手を広げた。先ほどとは違う、自分の存在を示すかのような所作。そして女は広場全体に響き渡るような声で、高らかに話し始めた。
「我が名はフリディス。この森を統べるもの。アスクレピアは我を奉ずる者達が集う場所。人々は我に祈りを捧げ、我はその祈りに応えて彼らを守り恵みをもたらした。だが――あの忌々しい“唯一絶対の主”が、我が信徒の信仰を奪った。それだけに飽き足らず、己が信徒に武器を持たせ、我が森を穢し我が信徒を殺した!」
怒りのこもった声に周囲の樹々がざわざわ揺れる。大樹はフリディスと同調しているかのように大きく枝を震わせていた。
「我らは彼らを害することも邪魔することもしなかった。しかし己に従わぬというだけで奴は刃を向け、殺戮の限りを尽くした。森は焼かれ、アスクレピアは血の海に沈んだ。辛うじて生き残った者も次第に数を減らし、最後には誰もいなくなった」
声量は小さくなったが、その口調から怒りは消えない。むしろため込んだ恨みを纏わせて、フリディスは語り続ける。
「いかにしてこの蛮行を赦せよう? 我は奴に復讐したかった。森を穢した報いを受けさせたかった。だが、人の祈りを失った我に、すでにかつての力はない。いずれ誰からも忘れられ、精霊ですらないただの影と成り下がって消えゆくのみ。しかしただ消えることなど受け入れられぬ。失ったものを取り戻さなければ、どんな手を使ってでもかつての愛するアスクレピアを取り戻さなければ、気が済まぬ」
怒りに満ち、どこか威厳すら漂わせた声は、そこで突如として別のものへと変わった。願いを語るような、最初の若い娘らしい声に。
「あたしはこの場所に、人が戻ってきさえしてくれればそれでよかった。元のようにアスクレピアが栄えてくれればそれでよかった。人を連れてきてもみんなすぐにどこかへ行ってしまうから、記憶を消さなければならなくなったけど」
記憶を消すために、ダチュラの種を植え付けて。その言葉が本当なら、フリディスの目的は人間をダチュラの苗床にすることではなく、魔物や悪魔の餌にすることでもなく、記憶を消してここに留まらせたいだけということだ。
「ならどうして人間をダチュラの苗床にしているんだ? あの幻の森にあったものは?」
アルベルトの問いかけに、フリディスは悲しげな顔をする。
「仕方ないじゃない。ダチュラの毒を与えるのをやめたら、みんな少しずつ記憶を取り戻して、どこかへ行ってしまうんだもの。ここにいてもらうにはダチュラの毒を与え続けるしかない。ずっと種を植えこんでいたら、そのうち成長して宿主を取り込んでしまうけれど、アスクレピアに人をとどめ続けるためには他に方法がないのよ」
フリディスはそのことが悲しくてたまらないという様子でそう語る。あたしは別に人を殺したいわけじゃないの、と自己弁護を重ねる。
「なら記憶を消して、他人を無理やり従わせるのは良いというのか?」
「――あたしのことを忘れた人達のことなんてどうでもいい。あたしにとって大切なのはこの森。そしてアスクレピア。あたしを信じていない人々を、どうして気遣ってやらなくちゃならないの?」
傲然とフリディスは言い放った。信者以外はどうでもいいなんて、神が口にするべきことではないのに――。
いいや、そもそもフリディスは本当に神なのだろうか? 確かに、悪魔ではない。けれど、神と呼べるような神々しさや神聖さはない。冷たく、黒く濁った気配。むしろ、悪魔に近いような――
「それで? かわいそうな私に同情して見逃してくださいってわけ?」
沈黙を打ち破って、リゼが再びフリディスに剣を向けた。彼女がフリディスに向ける視線は冷たく、同情もなければ迷いもない。
「下らない。神だろうとなんだろうと、悪魔を従えて人を襲わせているような輩に容赦はしないわ」
魔術を紡ぎながらリゼはそう言い捨てる。フリディスは疎ましげに眉を寄せながら、己に刃を向ける人間を見る。
「うぬぼれないことね。リゼ・ランフォード。救世主とも魔女とも呼ばれている者。あんたは何者なの? “唯一絶対の主”の力を継ぐ者? それとも我々の力を継ぐ者? あんたはどっちに属する人間なの」
「マラーク教の神につくつもりはないわ。でも、おまえの味方はしない」
そう言った瞬間、リゼはフリディスに向けて創り出した氷槍を奔らせた。幾本もの槍が空中を駆け抜け、標的めがけて降り注ぐ。氷の欠片が白い霧となってフリディスの周りに漂った。
「リゼ! あれはオリヴィアの」
「分かってる。どうせあの程度じゃ効きやしないわ。浄化の術を試せる程度に、動きを封じたいんだけど」
水の流れる音と共に、白い霧の中からフリディスが現れる。水流は彼女を守るように取り囲み、渦を巻いた。
「三人もいて面倒ね。キーネス、さっさと来なさい」
水流を纏いながら、フリディスは呼びかけた。それに答えるように、隆起した樹の根の影からキーネスが現れる。
「キーネス。あんたの失態よ。その人達の記憶を消しなさい。悪魔祓い師は殺していいわ。あんな穢れた輩、あたしのアスクレピアにいらない」
憎しみのこもった目でアルベルトを見下ろしながら、フリディスはそう命令する。命を受け、キーネスは無言で剣を抜いたが、すぐに向かって来ることはしなかった。機を窺っているのではない。まるで、何か迷っているかのようだった。
そこへ、唐突にその場の誰のものでもない声が降ってきた。




