人喰いの森の守護者 3
長い通路はどこまでも続いている。
ヒカリゴケが仄かに通路を照らしていて、これとランプの明かりがあれば視野の確保には困らない。ヒカリゴケの淡い光とランプの揺れる明かりを浴びながら、リゼ達はひたすら長い階段を上がっていく。
「上まではどのくらいあるのかしら」
なんとなく、リゼはそう呟いた。ティリーの魔術で崩れた床から落下した時、かなり長い時間落ちていたように思う。とすれば上までの距離はなかなかなもので、この緩やかな階段を悠長に上がっていては到着するのに相当な時間を要するだろう。
「速くティリーを見つけられるといいんだが。移動しているとやっかいだな」
心配そうにアルベルトが呟いた。確かに、ティリーは身動きが取れないわけではないだろうから、最後に見た場所にいるとは限らない。どこかに移動していたら探し出すのは難しい。そもそも自分達の現在位置もよく分かっていないから、元の場所に戻れるかどうかも怪しいのだが。
それはともかくとして、
「悪魔祓い師だというだけで攻撃されたのに呑気なものね。見つけられたとしても前と同じように魔術を仕掛けられるかもしれないわよ」
自分の心配はしなくていいのかと、リゼは少しばかり呆れてアルベルトを見た。ダチュラの毒が新しい記憶から消していくなら、ティリーはすでにリゼ達のことを忘れ去っている可能性はある。だがもし、「悪魔祓い師が憎い」という記憶が残っていたら? いつからそう思っているのかは知らないが、なにせティリーは魔術師なのだ。
「それは……その時は仕方がない。できるだけ、君には被害が及ばないようにするよ」
どうにかしてエゼールだけは飲ませないとな、とアルベルトは考え込む。そういう意味で言ったのではないのだがと思いつつも、リゼはそれ以上言及しないことにした。
「……まあいいわ。それよりさっき見たあの幻の森。あれ、なんだと思う」
尋ねると、アルベルトは顔を上げて、
「何、というのは、どうしてあんな幻があったのかということか?」
と訊き返す。リゼはそれもあるけど、と答えつつ、先程から考えていた一つの考えを口にした。
「あの幻の森を創り出した奴がいるはずよ。あんなもの、勝手に出来たりしないわ」
あの幻の森は限りなく本物に近いものだった。記憶喪失で混乱があったとはいえ、なにせアルベルトがすぐに気付かなかったレベルなのだ。当然リゼも幻だとは思いもしなかった。――不覚なことに。
「創り出した奴ということは、あれを創ったのは魔物ではないということか?」
アルベルトがそう問うてくる。それに首肯を返して、リゼは続けた。
「魔物にしては高度すぎるわ。悪魔だとしても、何のためにあんなものを」
悪魔は人の耳元で甘言を囁き、時に陥れようと幻覚を見せる。だがそれは人の心に付け入るためで、見せるなら相手が最も恐れるものか最も焦がれるものを見せるだろう。何の思い入れもない、ただ通過してきただけの人喰いの森を見せる必要はない。
この神殿の奥には魔物の巣があるという。しかし、それを言ったのはキーネスだ。果たしてそれは本当なのか? 確かに、ここには魔物がいる。悪魔がいる。けれど、あれほど精巧な幻があることの説明にはならない。
それに、あの幻の崩壊だ。幻が壊れるような原因は見当たらなかったのに、突如としてあの空間は崩れた。幻術が崩壊するときのエネルギーでこちらを吹き飛ばそうとしたのか? それなら、誰かが作為的にあの幻の森を創ったということになる。
あれを創り上げたのは魔物ではない。おそらく悪魔でもない、と思う。
なら、あの幻を創り上げたのは誰だ? あるいは何だ?
「……分からないわね。情報が少なすぎるわ」
そう言って、リゼはこの話題を打ち切ることにした。どちらにしろ、ティリーを見つけたらオリヴィアのいるところに戻って話を聞くことになっているのだ。ひょっとしたら、彼女が知っているかもしれない。
そうして、リゼ達はしばらく無言で階段を上がった。長かった階段を登り切り、平坦な通路を進んでいくと、少し開けた場所に出た。最初に見つけた広間とは、また違う部屋だ。ヒカリゴケの助けを借りながら広間をぐるっと見回すと、少し離れた場所の暗がりの中に人が倒れているのを見つけた。
「いた!」
広間の真ん中に、栗色の髪の人物がうつぶせに倒れている。ティリーだ。魔物に襲われて負傷でもしたのかと思ったが、服が少し焦げて破れているくらいで、血だまりもなく、遠目には目立った外傷はない。服の焦げ目は重力魔術の崩壊の余波のせいだろうからそれなりにダメージは受けているのだろうが、倒れているのはもっと別の要因のせいだろう。
ティリーに向かって駆け寄りながら、身体の陰に隠れていた左腕に目をやる。近付くにつれ、隠れていた部分があらわになった。
ティリーの左腕から伸びる緑色の芽。破れた袖の隙間から顔をのぞかせて、小さな葉を茂らせている。完全にダチュラの苗床になるには時間がかかると言うが、成長しすぎたら取り除くのに手間がかかるから、速いことにこしたことはない。
リゼとアルベルトは足早にティリーに近付いた。今の所魔物の気配はない。しかし、いつやってくるか分からない。その前にさっさと種を除いてしまわなくては。
するとその時、広間の暗がりから、鈍く光る銀色を手にした影が飛び出してきた。振り下ろされた刃を避けるため身を引くと、斬り裂かれた服の切れ端が飛んでいく。とっさに風の魔術を紡いで衝撃波を創りだすと、弾かれた影はそのまま後ろに飛びのいて距離を離した。代わりに向かってきたのは一本のナイフ。まっすぐ飛んできたそれをアルベルトが打ち落とす。弾かれたナイフは澄んだ音を立てて床に転がった。
「またか。一体なんのつもりなの」
剣を抜き、アルベルトの横に並んだリゼは、眉を顰めながら目の前に立ちふさがる人物にそう言った。刃を向けられるのはこれで二度目。一度目は崩壊する幻の森でのことだ。あの時は記憶がなかったから何者か分からなかったが、今は分かる。
「君は何故こんなことをしているんだ? 俺達を神殿に閉じ込めて、一体なんのメリットがある?」
油断なく剣を構えながら、アルベルトが疑問を投げかける。答えはすぐには返らない。だが相手は斬りかかってくることはしなかった。ただじっと、何かを考え込むようにこちらを見つめ続けている。長い沈黙が流れた後、キーネス・ターナーは閉ざしていた口をようやく開いた。
「仲間を救うためだ」
キーネスは表情を変えることも殺気を緩めることもしないまま、短くその台詞だけを述べた。その声音は重く、堅い決意がうかがえる。だが、
「仲間? ゼノのことかしら」
キーネスの答えは簡潔だったが、同時に簡潔すぎてどういう意味か分からないものだった。仲間。仲間とは誰だ。キーネスの親友で、仲間であろうゼノ・ラシュディはここにはいない。それとも彼がなんらかの危機に陥っているというのだろうか。
リゼの問いにキーネスは首肯を返す。
「そうだ。だが、あいつだけじゃない。この神殿の奥で悪魔に取り憑かれて囚われている奴がいる。俺が助けたいのは、そいつだ」
悪魔に取り憑かれて囚われている仲間? 退治屋仲間だろうか。それとも情報屋か。
「仲間を助けるには、悪魔のために新しい入れ物を用意するしかない。一番いいのは、優れた技量をもつ魔術師だ」
そう言って、キーネスは倒れ伏すティリーにちらと視線をやる。眼を出し、小さな葉を茂らせるダチュラ。ティリーの記憶喪失はおそらく相当進んでいるだろう。新しい記憶ほど消えていくならば、記憶が巻き戻っていくならば、最終的に幼児退行してしまうのかもしれない。自我もなく、まっさらな状態になってしまうのかもしれない。
そうなれば、入れ物にはうってつけだろう。
「なるほど。ティリーを悪魔に献上しようというわけね」
「そうだ。お前でもいいがな。ランフォード」
感情をこめず、物を選ぶかのように淡々というキーネス。優れた魔術師なら誰でもいい、か。確かにその条件にあてはまるだろう。だが、そんなことは出来ないことをリゼは知っていた。
「私を悪魔の入れ物にするのはやめておいた方が良い。そんなこと、不可能よ」
そう言うと、キーネスは特にがっかりした様子も当てが外れた様子も見せず、淡々と「そうかもな」と呟いた。
「悪魔を祓う“救世主”なぞ悪魔の入れ物には不適格だ。だがどちらにしろ、俺はお前達の記憶を消さなければならない。仲間を守るためには、奴からの命令に従わなくてはならないんだ。記憶を消して、集落の住人を増やすこと。これが俺の仕事だ」
そう言った途端、キーネスは凄まじいスピードでリゼに斬りかかった。咄嗟に剣で防ごうとしたが、反応が間に合わない。すくい上げるような一撃に、高らかな音を立てて剣が飛んでいく。がら空きになった胴に刃が迫る。後ろに倒れこむように剣戟をかわすと、追撃が来る前にアルベルトの剣がキーネスの双剣を弾いた。リゼが体勢を立て直して距離を取っている間に、アルベルトとキーネスが互いに刃を向けて対峙する。
「先程の幻の森でも剣を向けてきたな。あれは、俺達を記憶喪失のままでいさせるためか?」
「そうだ。解毒剤を手に入れられたら困るからな。あの時は妨害しそこなったが……。エゼールを持っているんだろう? それを貰う。記憶を復活させる手段は全て排除する」
そう言って、キーネスはアルベルトに斬りかかった。素早い剣戟をアルベルトは全て防いでいく。攻防のスピードは速く、リゼでは追いつけそうもない。――剣で追いつくつもりはないが。
「その“奴”というのは、君の仲間に取り憑いている悪魔か? 一体何のために人を集めている? ダチュラの苗床にするためか」
「知らん。俺は命令されているだけだ。従わなければ俺も仲間も殺される」
アルベルトの問いかけにキーネスはそう答える。その口調には、わずかに恐れが混じっている。取り憑いているなら生殺与奪の権限を握っているということだ。自分の入れ物をそうそう壊したりはしないだだろうが、悪魔の浸食が進めば祓っても元の状態に戻る可能性は低くなっていく。キーネスはそれを恐れている。
「つまりその悪魔を退治すればいいのね。魔物ではなく」
リゼはそう言うと、キーネスがアルベルトから離れた一瞬を狙って風の衝撃波を放った。吹き飛ばされ、しかしすぐに体勢を整えて剣を向けるキーネス。
「せっかくだから、その悪魔のいるところまで連れて行ってくれる? ついでに、悪魔の弱点かなにか教えてくれたら助かるんだけど」
リゼは皮肉気にそう言ったが、キーネスは相変わらず表情を変えなかった。
「それは出来ない。奴は俺を見ている。叛意を見せたら、俺もオリヴィアも殺される」
キーネスが口走った名にアルベルトが反応した。はっとしたような顔をして、キーネスを見つめる。リゼも一瞬その名に気を取られた時、突然背後で魔力が膨れ上がるのを感じた。
振り返ると、気を失っていたはずのティリーが起き上ったところだった。灰色の瞳は空を見ていて、どこか虚ろだ。記憶はどこまで消えてしまったのだろう。さっさと解毒しないとまずいのかもしれない。そう思った矢先、ティリーは口を開いた。
「貴方が殺したの……?」
彼女の視線の先には再びキーネスと剣を交えるアルベルトがいる。まさか、またなのか。まだ、そこまで記憶が消えていないのか。予想が当たってしまったことに、リゼは舌打ちした。
「どうして殺したの! 何もしてない! 何も悪くないのに!」
叫び声と一緒に吹き付けてきたのは、魔術になりきっていない、純粋な魔力の波動。衝撃を防ぐために、リゼは魔術を展開した。魔力の波動は相殺され、緩やかな風ほどとなってリゼに吹き付ける。しかしそれによって生まれた波動の相殺音は凄まじく、ティリーの叫び声と合わせて驚いたアルベルトとキーネスが、戦いの手を止めてこちらを見た。
エゼールを持っているのはアルベルトだ。彼はすぐにティリーの元へ向かおうとしたが、その前にキーネスが立ちふさがる。ティリーにエゼールを飲ませないつもりなのだろう。そこへ、ティリーが再び魔術を放った。今度はただの魔力の塊ではない、炎の魔術だ。放たれた矢のように飛ぶそれは、まっすぐにアルベルトの元へ向かう。
『凍れ』
火球が標的を捉える前に、リゼは氷雪の魔術でそれを撃ち落とした。氷の欠片と火の粉。そして白い蒸気が辺りに飛散する。アルベルトとキーネスがそれに気を取られた一瞬を狙って、リゼはさらなる魔術を唱えた。
発動した氷雪の魔術は立ちふさがるキーネスを捕えた。胸から上を残して氷漬けにし、動きを封じる。キーネスは氷の戒めを解こうと身をよじったが、そのくらいで崩れるわけがない。邪魔者を捕まえたところでリゼは振り返ると、新しく魔術を発動させようとしていたティリーに氷刃を放った。
氷の刃に襲われて、ティリーは少しだけ怯んだ。だが、魔術の詠唱はやめない。仕方なく、リゼは氷雪を巻き上げてティリーを囲い込んだ。吹き荒ぶ風にティリーは動きを封じられる。そこへアルベルトが駆け寄って、ティリーの鳩尾に剣の柄を沈めた。身体を曲げ、苦しそうに息を吐いて膝をつくティリー。アルベルトは倒れそうになる身体を支えて、ゆっくり地面に下ろした。
「リゼ、手を貸してくれ」
「分かってる」
アルベルトが剣を振るうと、芽の根元が斬り開かれて黒い種が露出した。種から伸びる白い根が、ティリーの腕奥深くまで食い込んでいる。リゼは未だゆっくりと成長を続ける芽を掴むと、意識を集中させて術を唱えた。凍りついた芽は成長をやめ、種も根も動きを止める。すっかり沈黙したそれを、リゼは一気に引き抜いた。
引き抜く瞬間、ティリーが小さく悲鳴を上げた。血の滴る傷口に手を当てて、癒しの術を紡いでいく。ティリーのそれはアルベルトの時よりも酷いものだったが、時間をかけて魔力を注ぐと、やがて赤い跡だけを残して傷は治癒した。
「これを。飲んでくれ、ティリー」
アルベルトが袋から出したエゼールをティリーの口に含ませる。半覚醒状態のティリーは反射的にそれを飲み込み、そのまま気を失った。
エゼールは効いたのだろうか。目を覚ましたら分かるだろうが、解毒が中途半端だったらやっかいなことになるかもしれない。かといって、無理に飲ませるわけにもいかず、とにかくどこかへ運ぼうと、アルベルトが提案した。
その時、突然ぐにゃりと空間が歪んだ。




