失われたもの 5
『貫け!』
倒れ伏す直前、リゼは反射的に魔術を唱えた。小さな氷の槍がいくつも出現し、アルベルトに向かって飛ぶ。彼は慌てたような顔をしたが、それとは裏腹に冷静な剣捌きで向かって来る氷槍をはじき、全て逸らしてしまった。リゼは舌打ちすると今度は氷霧を創り出し、アルベルトにぶつける。魔術によって剣を持つ手が凍りつき始めたが、アルベルトは構わずこちらに近付いてきた。そして、
「すまない、待ってくれ! 種が……」
そう言って何かを説明しようとするアルベルト。リゼは気にせず剣を振るったが、簡単に止められてしまう。その隙にアルベルトはリゼの右脚の傷に手を伸ばし、そこから何かを引き抜いた。
肉がひっぱられ、何かが剥がされたような痛みに、リゼは顔をしかめた。アルベルトの手の中にはその引き剥がされた『何か』が乗っている。血に濡れたそれをよく見ると、小さな芽と細い根が伸びた黒い種のようなものだった。皮一枚だけ残してぱっくりと割れている。
「痛い思いをさせてすまない。でも、『俺が言っていること』が本当なら、これを取り除かないといけないと思ったんだ」
「どういう意味よ」
不可解に思って問い返すと、アルベルトはこれを見てくれと言って、一枚の紙を差し出した。受け取って読んでみると、どうやらある植物についてまとめたものらしい。所々、重要だと思われる部分に線が引いてあった。
「ダチュラ。ミガー王国西部原産。白いトランペット状の花を咲かせる。種子は黒く、猛毒。主な症状は意識混濁、見当識障害、譫妄状態、記憶喪失」
記憶喪失の所に目立つように線が引かれ、さらに書き込みもしてある。そう何度も見ているわけではないから確信は持てないが、これはアルベルトの字だろう。
「『ここのダチュラは人体を苗床にする』。『傷口から種が入り、その毒で記憶喪失を起こす可能性がある』。『自分がなにをしていたのか分からなくなったらそれはダチュラの毒のせい』。『種を身体から取り出せ』」
余白に目立つように書かれたそれらの記述は、今の状況に一つの解答をもたらしてくれるようだった。記憶喪失。なにをしているのか分からなくなったら。この記述が真実ならば、
「……つまり、私は今、ダチュラの毒の作用を受けているってことね」
直前の行動が思い出せないのはこのせいだったということだ。アルベルトはこのメモでダチュラの種のことに気づき、リゼの脚の傷に潜り込んでいた種を斬って取り出してくれたのだ。傷口をよく見てみれば、種を取り出すのに最低限必要な範囲しか斬られていない。アルベルトの剣術が優れているのは知っているが、なんて器用な真似を。さすがに根が食い込んでいた部分は肉が露出しているし、放っておいてまた種が侵入したら困るから、癒しの術で血を止め、傷を塞ぐ。
「先に説明すべきだったが、芽が出始めているのに気付いて速くしなければと思って。すまなかった。――あんなに素早く反撃されたのは予想外だったけど」
「いきなり斬りつけられれば反撃の一つや二つするわよ。……でも、助かった。私一人じゃ種に気付かなかった」
芽も根も出ていたというのに、痛みなど感じなかった。少し疼く程度だ。あのまま放っておいたら、今以上に記憶を失った挙句、ダチュラの苗床にされていたと考えるとぞっとする。それに新しい記憶から消えていくようだから、今いる場所がどれだけ危険なのかも分からなくなってしまうということだ。そう、ダチュラという記憶を奪う毒草があるということも――
「……ちょっと待って。ひょっとして記憶喪失なのはあなたも同じなんじゃ――」
「きっと、そうだな。自分ではどこに埋まっているか分からないんだが、たぶん、背中だ」
そう言って、アルベルトは苦しそうな表情をして膝をつく。その後ろに回って背中を見ると、服の一部分が破れて血が滲んでいた。とはいえ傷自体はさして深くない。血もすっかり乾いている。しかし、その傷口には黒い種が根を張り、リゼの脚にあったものより長い芽が伸びつつあった。
それをしばし観察してから、リゼはため息をついた。
「先に謝っておく。私はあなたほど上手く取り出せそうにない。たぶん痛い」
「それぐらいは覚悟してるよ。構わずやってくれ」
「分かった。――その代わり、綺麗に治すわ」
そう言って、リゼは伸びつつある芽を掴んだ。やりすぎてはいけない。この種とその付属物だけを狙うのだ。息をつき、意識を集中させて、リゼは魔術を唱えた。
『凍れ』
手の中の眼が音を立てて凍りついた。氷結は種本体に、さらに根の一本一本まで広がり、成長を停止させる。人を苗床にするなどという性質を持っていても、所詮は植物。冷気には弱い。完全に動きを止めたそれをしっかりと握ると、傷口を風の魔術で少しだけ切り開いてから思いっきり引き抜いた。
根は肉にしっかりと食い込み、無理やり引き剥がしたため嫌な感触と共にかなりの血が流れたが、アルベルトはというと呻き声一つ上げなかった。さすがに表情は変わっているだろうが、後ろからでは分からない。リゼは血塗れの種をさっさと投げ捨てると、血の流れる傷口に手を当てて癒しの術を唱えた。すぐに血が止まり、傷口が閉じて滑らかな皮膚が再生する。決して軽い怪我ではなかったが、それほど大きくないこともあって治し切るのに時間はかからなかった。最後に赤い跡が残ったが、これぐらい一日もすれば消えてなくなるだろう。
「終わったわ」
そういうと、アルベルトは立ち上がって安堵したように微笑んだ。
「ありがとう。助かった」
「別に。お互い様でしょう」
むしろ初めに気付いたアルベルトの功績だ。この森のどれかの植物がダチュラであると気付き、毒で記憶喪失になる可能性を考えてあの文字を残したのだろう。あんな情報をどこで手に入れたのかは知らないが。いや、記憶を失う前は知っていたのかもしれないけれど。
「問題は種を取り除いて記憶が復活するかどうかね。この毒に魔術は効かないわ」
自分自身の記憶を探ってから、リゼはそう言った。癒しの術は外傷を治すのには適していても、毒や病気には効かない。魔術的な呪いのようなものなら有効だが、ダチュラの毒はそれとは少し違う。
「たぶん解毒剤を探すしかないと思う。ダチュラの毒を中和する薬草があるはずだ」
返された覚書を見て、アルベルトはそう言った。書き込みされたところだけしか見ていなかったが、覚書にはダチュラに関して一通りの情報が記されているようだ。何はともあれ、策がすぐに見つかるのはありがたい。
あとは薬草が簡単に見つかってくれたらいいのだが。
記憶を蘇らせるには、ダチュラの毒に効く薬草を探すしかない。覚書に記されていた解決策はそれ一つだけだった。
その薬草は幸いにもダチュラの近くに生えるという。しかし、こんな森の中には生えない。生えるのは水辺だけ。そのことをアルベルトはリゼに説明した。
「水辺ね。川か泉でもあればいいのだけど」
「少なくとも近くにはなさそうだな」
見回しても、あるのは立ち並ぶ太い樹々ばかり。森の中にしては奇妙なまでに静かで、水の流れる音も聞こえない。悪魔がいるせいだろうか? 魔物以外、獣の姿は一匹もなかった。
それと、先程から感じるこの違和感。
アルベルトは目の前の風景がどこかおかしいような気がしてならなかった。一見すると普通の森。だが、奇妙なほど静かで、生き物の気配がない。どこか作り物めいているような、そんな気がする。
そう思って意識を集中させようとした時、視界の隅で緑色のものが動いた。
視線を動かすと、深い緑の髪の女性が木立の間に佇んでいることに気がついた。彼女は何を言うでもなく、無言でこちらを見つめている。その様子はまるでアルベルト達を観察しているようでも、何かを思案しているようでもあった。
不可解に思ったアルベルトが声を掛けようとした時、女性は何かに気づいたのか、一瞬ためらうような様子を見せた後、身を翻し木立の奥へ走り去って行った。同時に、アルベルトの背後で悪魔祓いの閃光が奔る。振り返ると、リゼが襲い掛かってきた魔物の一体を術で浄化したところだった。
「アルベルト! ぼうっとしている場合!?」
そう言って、リゼは寄ってきた魔物を斬り捨てる。別の一体が彼女に向けて触手を伸ばしていたので、アルベルトは素早く剣を抜いて斬り捨てた。
ざわざわと、不穏な音を奏でながら魔物達が集まってくる。数は少なかったが、近付いて来ているのはどうやら魔物だけではないようだ。魔物の後ろには靄のような悪魔の群れ。そしてその後ろには……
そこに視え始めたものを視て、アルベルトは瞠目した。
違和感の正体がようやく分かった。この森はただの森ではなかったのだ。
リゼはまだ気づいていない。きっと彼女には見えていない。アルベルトですら、今まで気づかなかったのだから。いや、記憶を失う前は気付いていたのだろうか?
一瞬だけ、自身の記憶を確認する。種は除いたから、記憶の喪失は止まっている。大丈夫だ。何をするべきか、忘れてはいない。
アルベルトは一歩踏み出すと、魔物に斬りかかろうとするリゼの腕を掴んだ。力をこめて引き寄せると、バランスを崩してよろけたリゼが勢いで腕の中に倒れ込んで来る。次の瞬間、リゼのいた場所に大きな歪みが生まれた。
「あれは……!?」
空中に生まれた歪みはすぐに魔物も悪魔も飲み込んで拡大し、森を構成した全てが無数の木の葉になって崩れ、渦を巻く。強力なエネルギーの渦。巻き込まれたらどうなるか分からないが、きっと良くはないだろう。
「この森は幻で出来てるんだ。本物じゃない」
「――! なるほど。幻覚だったのね」
「それも極めて強力な。そのせいで今まで幻だと気付かなかった。うかつだった」
それがどうして今になって崩壊したのかはわからない。アルベルト達がダチュラのことに気付いたから? なら、この幻は誰かが作意を持って創り上げたものということになる。
幻の崩壊を避けてアルベルト達は渦と反対の方向へ走った。魔物はいない。全て渦に飲まれて、姿が見えなくなっている。行く手を塞ぐのは樹々だけ。それだけだったが――
突如、上から何かが降ってきた。煌めく銀色を目に留めて、アルベルトは反射的に剣を抜く。金属がぶつかり合う高らかな音。一瞬の後に、降りてきた人物は後方に飛びのいて鈍く光る刃を向けた。
「誰だ!?」
行く手を塞いだのは双剣を構えたライトブラウンの髪の男だった。アルベルトの誰何に何も答えず表情すら変えぬまま、抜き放った刃を手に斬りかかってくる。アルベルトは男の一撃を受け止めると、巧みに受け流して剣の柄で男の右手を狙う。手を打って武器を落とそうとしたが、男の反応は速かった。素早く避けて距離を取り、左手の剣を突き出してくる。狭いこの場所では、長剣を扱うアルベルトよりも、短剣を携えた男の方が有利だ。辛うじて突きを避け、袈裟懸けに斬りつけたが男には届かなかった。
その時、傍らからリゼが飛び出してきた。振るった剣は容易に避けられてしまったが、それは陽動だったようだ。素早く唱えられたリゼの魔術が迸り、男の腕を凍りつかせていった。さすがに男は表情を変え、リゼから距離を取ろうとする。だがその一瞬をついて振るわれたアルベルトの剣が、男の右の剣を弾き飛ばした。弧を描いて飛んでいく剣。それは近付いてくる木の葉の渦に巻き込まれて見えなくなる。
男が動揺を見せたのは一瞬だった。無表情だった顔に焦りの色を浮かべた後、迫り来る渦を見て危険だと悟ったらしい。魔術を唱えていたリゼの追撃より先に木立の向こうへ消えていく。ほんの数メテルも進まないうちに男の姿は見えなくなった。
「逃げられた!」
「駄目だリゼ! あれに巻き込まれる!」
追いかけようとするリゼを制し、アルベルトは彼女の手を引いて走り出す。男の目的は気になるが、今は幻の崩壊から逃れなければ。まだ消えていない、渦とは反対側の方向へ進んでいくと、自分達と同じように走る人物の後姿を見つけた。
あの緑の髪の女性だ。
「こっちだ!」
アルベルトはそういうと、女性の後を追って走り始めた。彼女の進む方向が安全であると、なんとなく視て分かったからだ。歪み、木の葉に変わっていく森に追われながら、二人は走った。そして、
白い光の射す空間の裂け目を通り抜けた先には、薄闇に包まれた石造りの部屋があった。どうやらどこかの建物の中らしい。床や壁には所々にヒカリゴケが群生し、ぼんやりとした光で部屋の中を照らしている。遠くからは水が流れる音。どこかから水がしみだしているのだろうか。石の隙間からは赤や白の草花が生え、室内とは思えないほどの植物が生い茂っていた。
その中に、あの緑の髪の女性が驚いた様子でこちらを見て立っている。よく無事だったと、そう言いたげな表情だ。彼女は幻の森の崩壊に気付いたから足早に立ち去ったのだろうか。何のためにアルベルト達を観察していたのだろう。
「君は何者だ? どうしてここにいる?」
そうアルベルトが言った瞬間、問われた女性自身とそれを見ていたリゼの二人が表情を変えた。
「誰かいるの?」
隣に立っていたリゼは、怪訝そうな顔をしてアルベルトとその視線の先を交互に見た。一方、緑の髪の女性は自分以外に誰かいるのかとでもいう風に周りを見回した後、さっきよりもますます驚いた様子で何度も目を瞬かせている。そこでアルベルトはようやく自分が何を視ているのかに気が付いた。
『――あんた、あたしが視えるの?』
女性は目を丸くしたまま、そう呟いた。




