神殿 3
神殿の奥に進むと広い空間に出た。
大きな教会の礼拝堂のような場所だ。石造りの床や壁には所々にヒカリゴケが群生し、神殿内をぼんやりと照らし出している。水が流れる音がするから、どこかから地下水がしみだしているのだろうか。石の隙間からは赤や白の草花が生え、柱には蔦が絡み付き、背は低いものの室内とは思えないほどの樹木が立ち並んでいた。
「至尊なる神よ。その御手もて悪しきものに断罪を!」
アルベルトが祈りの言葉を唱えながら、しつこく襲って来る植物の魔物を斬り払った。しゅうしゅうと音を立てながら、魔物の身体は崩れ、朽ち果てていく。彼はそのまま返す刃で別の魔物を捉え、縦一文字に斬り裂いた。葉を散らしながら、魔物は枯れ朽ちて消滅する。
魔物を倒すアルベルトの傍らで、リゼは油断なく周囲を観察していた。今のところ魔物はやつらだけ。数は少なく、それほど強くもない。もっと奥まで進めば別なのだろうが、現時点ではそれほど心配する必要はなさそうだ。
「この魔物、白い花が咲いてるな」
魔物を倒し終わったアルベルトが、剣をおろすと不意にそう言った。確かにこの植物の魔物には花が咲いている。白い、トランペットのような形をした花だ。
「入り口で会った村の人が植物、特に花を傷つけるなと言っていたな」
「それがどうしたの。花なんてその辺りにも咲いているし、大体こいつは魔物よ。傷つけるなという方が無理だわ」
魔物がうじゃうじゃいるような場所で、花を傷つけるなとか守り神に失礼なことをするなとかいうことをいちいち守ってなどいられない。ルルイリエと違ってここはすでに悪魔に汚染されてしまっているのだし――
「ここの花はあの集落の生活の糧なんだろう? まさか魔物化した植物から種を取っているんじゃないかと思ってね。もしそうだとしたら、集落の人達がおかしい原因はこれなのかもしれない」
「そういえばキーネスが言っていたことも気になるわ。人喰いの森に魔物退治に来た退治屋はこの神殿に入った。そして――どうなったのか」
みんな、集落で会った女性のようになるのだとしたら。魔物のことも悪魔のことも、今いる場所の名前すら怪しくなるのだとしたら――
考えている内にも、再び魔物達が襲い掛かってくる。すぐに魔術で撃退したが、また別の方向からも数体やってきていた。そのうちの一匹が、魔術を使う様子もなく突っ立ったままのティリーに襲い掛かる。動かない彼女の背に尖った根の先端が迫る。
「危ない!」
一瞬速く動いたアルベルトが、剣を振るって根を受け止めた。鋭い先端を受け流し真っ二つに斬り裂いていく。祈りの言葉が光となって根に伝わり、魔物は炭化して動かなくなった。ティリーはその様子を一言も言わずじっと見つめている。
「ぼうっとしてたみたいだけど、どうかしたの」
どことなく上の空なティリーの様子を不審に思って、リゼはそう尋ねた。先程からずっと大人しいし、魔物に襲われかけたというのに、どうにも反応が薄い。今もリゼの質問に答えることなく、じっと何かを見つめている。
「あいつ……」
リゼを無視して、ティリーは独り言のようにそう呟く。視線の先にいるのはアルベルトと、動かなくなった木の根。その背後の闇だけ。アルベルトがどうかしたのか。そう思っていると、突然ティリーは一歩前に出ると、思いがけない台詞を口にした。
「貴方……悪魔祓い師ですわね?」
突然何を言い出すんだと、リゼは驚いて彼女を注視した。ティリーの視線の先にいるのはアルベルトただ一人。意図のわからない発言にアルベルトも首を傾げる。
「? 何故いきなりそんなことを」
俺が悪魔祓い師であること、君は最初から知っていたじゃないか。そうアルベルトは答えた。ティリーは別にふざけているわけではない。むしろ今まで見たことのないくらい真剣だ。不思議に思ったリゼが問いただそうとした時、ティリーは深く息を吐いた。
「そう。なら……逃がしませんわ」
ティリーはおもむろに手を挙げた。いつ取り出したのか、左手には分厚い魔道書が収まっている。ページがめくられ、魔法陣が出現し、魔力が空気をざわめかせた。瞬いたのは、魔力が見せる赤い閃光だ。そして。
神殿の深い闇の中に深紅の炎が生まれた。ヒカリゴケよりも明るいそれは目の前のアルベルトに襲い掛かり、爆発する。踊るように渦巻く炎。そこから生まれた熱波が駆け抜け、火の粉が飛び散った。
「ティリー!? 何のつもり!?」
第二撃を放とうとした彼女の腕をつかみ、リゼは今の攻撃の理由を問いただした。アルベルトに対して魔術を、それもあんな大火力の火炎術を使うなんて。直接浴びたわけではないリゼすら火傷しそうになったのだ。直撃したらどうなるかなんて考えるまでもない。
敵がいたのか? 何か意図があったのか? ティリーは意味もなくこんなことはしないはずだ。しかし、彼女の口から告げられたのは思いがけない台詞だった。
「誰!? 貴女も悪魔祓い師ですの!?」
その言葉と共に再び魔法陣が打ち出され、洪水のような炎が溢れ出た。上と左右から迫り来る炎。避けるのも間に合わない距離だったが、リゼは焦ることなく、左手をあげた。
『白銀の息吹を』
輝く冷気が巻き上がって炎に激突した。火の粉と氷の欠片が散り、蒸気は白い霧に変わる。至近距離での魔力の爆発に、さすがのリゼも手を離して後ろに下がった。
『燃え滾る炎よ!』
ティリーは自由になった手をあげて新たな火球を生み出した。それが放たれる直前に、分厚い氷壁がリゼの前に張り巡らされる。火球は氷壁に激突したが、小さな欠片を飛び散らせたのみで打ち破るには至らない。
「一体何を言ってるの? 私が悪魔祓い師だなんて」
そうじゃないことはよく知っているはずではないか。それなのに『悪魔祓い師か』などと聞くなんて。いや、そもそも、
「――『誰』ですって? 何の冗談よ」
返事の代わりに、足元に魔法陣が広がった。とっさに範囲外へのがれた次の瞬間、魔法陣があった場所が轟音と共に大きくへこむ。間髪入れず足元を魔法陣が奔り、石の槍が突き出した。避けても追いかけてくる石槍が身体をかすめて傷をつける。目前まで迫った一本を氷刃で打ち砕き後方に宙返りすると、すぐそばまで近付いていた柱の壁面に降り立った。
『風よ』
囁くように呼びかけると、リゼの身体の周りに風が集束した。そのまま強く柱を蹴ると、風に支えられて放たれた矢のようにまっすぐティリーの方へ飛び出した。
だが、ティリーはすでに防護壁を張っていた。魔術で作った重力の壁を。
そのまま突っ込んだら、禁忌の森の猪達のように地面に叩きつけられ、潰されるだろう。けれど、リゼは止まらなかった。剣を抜いて壁に突っ込んだのだ。
リゼが剣にまとわせていたのは氷霧でも風でもなく、純粋な魔力の塊だった。それを重力の壁に突き立てて、斬り裂こうとする。薄い帳のような重力壁は火花を散らしながら刃の侵入を拒んだが、一点に集中したリゼの魔力は少しずつ壁を破壊し、ゆっくりと剣先が壁の内側へ入り込んでいった。
何かが破裂するような音がして重力壁が崩壊した。砕けた魔術のエネルギーが周囲に飛散していく。それを見たティリーは舌打ちして再び火球を創り出したが、リゼはすかさず冷気を巡らせて彼女を取り囲むように氷壁を発生させた。瞬き一つの間に構築される白い障壁。それはティリーを閉じ込めるはずだったが、自身にも被害が及びかねないにもかかわらず放った炎の魔術が、細い槍のような形となって氷壁を貫いた。リゼが魔力の一点集中で重力壁を突破したように、ティリーも槍の形に収束した魔術で氷壁を破壊したのだ。
炎の槍は障壁を壊した時点で威力が大幅にそがれていたが、狙いは正確にリゼの元まで届いた。氷の魔術で相殺したものの、余波が衝撃波となってリゼを襲う。耐え切れず後ろに吹き飛ばされたが、地面に叩きつけられる前に受け止める者がいた。
「アルベルト、無事だったのね」
「ああ、なんとか。紙一重だったが……」
アルベルトは服をあちこち焦がし、火傷を負っているものの、無事のようだ。あの威力の火炎の魔術。防ぐのは難しいだろうから、うまく避けられたのだろうか。
「さすが、悪魔祓い師はしぶといですわね」
崩れゆく氷壁の内側からアルベルトを睨むティリーの瞳は、少しの驚きと溢れんばかりの憎しみに満ちていた。何故か憎悪を燃やす彼女に、アルベルトは困惑した様子で呼びかける。
「ティリー! 一体何のつもりだ!? 俺が何を――」
「『何』をですって? 色んなことをしてきたじゃありませんの。特に魔女狩りは貴方がたの得意技ではなくって?」
ティリーが魔導書のページをめくると、彼女の周りにいくつもの魔法陣が発生した。そのうちの一つが強い魔力でギラギラと輝きながら、一筋の炎を創り出す。次の瞬間、それは放たれた矢のように高速で二人の目の前まで迫ってきたが、リゼが創り出した氷壁にはじかれ、背後の柱に激突して消えた。炎を防いだリゼに、ティリーは怒りのこもった目を向ける。
「さっきから何のつもりですの? 貴女、魔術師でしょう!? 何故、悪魔祓い師に味方するのです!?」
「あなたこそ何のつもり? 私達のことを忘れたの?」
「答えなさい!」
答えてほしいのはこちらの方だというのに、ティリーは聞く耳を持とうとしない。だから何の冗談だと、リゼはため息をついた。
「――私は悪魔祓い師の味方なんかじゃない。でも、アルベルトを殺されるのは困るわ。私も彼もあなたの敵じゃない」
ティリーは『誰だ』と聞いた。何故かはわからないが、ティリーはリゼとアルベルトのことを忘れているらしいのだ。今の彼女にとって二人は全く初対面の相手。その上悪魔祓い師はティリーにとって、たとえ初対面の相手でも容赦なく攻撃する対象であるらしい。
「『自分がなにをしているのか見失わないように』。ひょっとしてキーネスが言っていたのはこういうことか……」
敵意をむき出しにするティリーを見て、アルベルトが呟く。岩壁を落とす前にキーネスが言っていた言葉だ。何をしているか見失わないように。
「この神殿に入ったら何をしていたか全て忘れてしまうということ? あの集落の住民もみんな記憶を無くした退治屋達ってことかしら」
「かもしれない。記憶喪失になるなら、ティリーが俺達のことを覚えていないのにも説明がつく。俺に敵意を向けるのは記憶喪失と関係なさそうだが……」
「何をごちゃごちゃと喋っているんですの?」
ティリーがそう言った瞬間、二人の足元に魔法陣が浮かび上がった。飛びのいた瞬間、石の槍が魔法陣から出現する。串刺しを回避したリゼは、また魔術を使おうとするティリーに呼びかけた。
「ティリー、いい加減にして。私達はあなたの敵じゃない。あなたは忘れているのよ」
「悪魔祓い師が君にしたことを水に流してくれとは言わない。でも、俺は君の敵じゃない。君を傷つけたりしない。信じてくれ!」
アルベルトも必死に呼びかけるが、ティリーの敵意は消えない。彼女は再び魔法陣を生みだし自分の周りに張り巡らせる。ぱらぱらと魔導書のページがめくられ、淡く発光した。
「――何を信じろと言うの? あんなことをしてきたのに? 絶対に忘れない。絶対に許さない。悪魔祓い師なんて! 悪魔と何が違うというの!」
魔導書から生まれたのは、半透明の灰色の球体だった。時折蒼い閃光を発するそれは、滑るように移動して二人の目の前で止まった。
次の瞬間、世界が九十度傾いたかのような衝撃を味わった。音もなければ閃光もない。ただ感覚だけが回転したのだ。
水平に落ちる。そう思った瞬間、左手を掴まれて〝落下〟をまぬがれた。視線を巡らせると、アルベルトが石床の隙間に剣を突き立てて、辛うじて踏みとどまっているのが見える。
と、破壊されて散らばっていた石床の破片が、凄まじい勢いでこちらに転がってきた。幸い二人にぶつかることはなかったが、石は勢いを増しながら転がって灰色の球体に吸い込まれていく。
「なんだあれは!?」
球体に取り込まれた一抱えもある大きな瓦礫が、すりつぶされるように粉々になった。小さな石ころも大きな岩も、球体に飲み込まれると砕かれ消滅していく。強い力で無理やり押し潰しているようだ。それに、強く引っ張られるこの感覚。
重力だ。周囲のものを全部引き込んで押し潰す重力の塊だ。
ティリーが得意とするのは火炎魔術と重力魔術。重力魔術に関しては力場を発生させることで防護壁に使うくらいしかやっていなかったが、こういう使い方もあるらしい。
「重力よ。あの中に落下したらぐちゃぐちゃに潰されるわ」
リゼは剣を逆手に持ち変えると、アルベルトと同じように石の隙間に突き立てた。垂直の壁に剣一本でしがみついているような状態だ。しかも、重力はどんどん強力になっている。すでに天井は崩壊し、周囲の床はめくれあがって吸い込まれ、柱に絡み付いていた蔦が次々と引きはがされていっていた。このままでは吸い込まれるのも時間の問題だ。
どうする? どうやって止める? また魔力をぶつけてあの重力球を破壊するか? いや、それは難しい。魔力量はともかく、ティリーの魔術の技法はリゼよりはるかに上だ。力技で敗れる程、安易な創りはしてないはず。思案している間にも重力はどんどん強くなり、球体の輝きが強くなる。さて、どうしたらいいか――
「リゼ、魔術は魔力の流れを乱せば消滅させることができるのか?」
不意に球体を見つめていたアルベルトがそう言った。リゼはしばし考え、たぶんね、と答える。それを聞いたアルベルトは剣を握り直すと、自分の考えを告げた。
「……なるほど。分かった。援護すればいいのね」
「ああ、頼む」
リゼは目を瞑り、深呼吸した。魔術を使うのは簡単だ。しかし、維持するのは難しい。魔力という、元々物質ではないエネルギーを、物質に変えてこの世にとどめておかなければならないのだから。この重力球も、維持するには相当な魔力がいるはずだ。そして、強大であるが故にほころびも生じやすい。
『凍れ』
意識を集中しそう唱えると、目の前の床からいくつも氷柱が発生した。必要な位置に創り上げられたのを確認した後、アルベルトが床から剣を引き抜き、重力に引かれて水平に落ちていく。しかし、自ら重力球に飲まれに行ったのではない。いくつもの氷柱を蹴って方向を変え、ある一点を探して移動していく。重力球に近い氷壁ほど引っ張られて崩れていくが、アルベルトはそれよりも速く走り、目的の場所にたどり着いた。
「至尊なる神よ。我に力を!」
そう高らかに唱えて、アルベルトは重力球に剣を突き立てた。そこはアルベルトが見つけた魔力の流れが弱い場所。ここをつけば、この重力の魔術を四散すると考えたのだった。
音のない衝撃が神殿内を駆け抜けた。予想通り、重力球は魔力の流れを乱されて崩壊し、はじけて消えていく。遠くでティリーが何か叫んでいたが、何を言っているのかは聞き取れなかった。水平に引っ張る力が消え、重力の方向は元に戻っていく。しかし、破壊された重力球は、その身を構築する魔力を最後の最後に衝撃波に変えて辺りにまき散らした。
二人は各々身を守ったが、床や天井が衝撃波を受けて崩れていく。しかもすぐ下は空洞になっていたらしく、二人は崩れた床から空中に投げ出された。
真っ暗な地下へ向かって。
「退治屋って何人かでチームを組むのが普通なんですか?」
かなり長い時間、退治屋のことについて話していたような気がするが、シリルの興味は尽きることがないらしい。また新しい質問が飛び出したが、会ったばかりの頃にされた質問攻めほど苦にならないなとゼノは思った。自分の専門分野だからかもしれない。
「ああ。危険な仕事だからチーム組む方が安全なんだ。一匹狼を貫く奴もいるけどな。魔物の掃討となるとさすがに一人じゃ無理だし。仕事によっては他の退治屋と協力したりするよ。ピンで仕事をすることもあるけど、オレはずっとチーム組んで魔物退治してた」
退治屋になってすぐキーネスと一緒に仕事を始め、退治屋として働くこと数年。他の退治屋と協力して仕事することは多かったが、一人で働くことは滅多になかった。そう、つい最近まで。
「でも、わたしと会ったときは一人でしたよね?」
「そうなんだよ。キーネスの野郎、ずっとチーム組んでたのに半年前ぐらいいきなり退治屋やめるとか言い出してそれ以来音信不通でさ。この間ザウンに行ったとき久しぶりに会ったんだよ。全く、退治屋になってからもずっと一緒に仕事してきた相棒に事情一つも話さねえなんて水くせえ――」
十年以上の付き合いで。ずっと一緒に。退治屋になってから。ずっと、
(一緒に仕事をしてた。キーネスと――)
雷に打たれたような衝撃が頭の中に走った。霧が晴れたように、水底に沈んでいたものが引き上げられ日の光を浴びたかのように、それは突如蘇ってきたのだ。
「……ゼノ殿?」
突然黙ったことを不思議に思ったのか、シリルがゼノの名前を呼ぶ。しかし、ゼノにその声は聞こえていなかった。たった今、気付いたこと――いや、思い出したことで頭が一杯だったのだ。
戸惑うシリルを無視して、ゼノは踵を返した。向かうはずだった街道とは逆、禁忌の森の方へと歩いていく。どうして忘れていたんだろう。こんな大切なことを。
行かなければならない。あの場所へ。




