禁忌の森 2
人喰いの森とはコノラトの東に広がる森林地帯の一部分を指すらしい。その周囲は普通の森であるが、森は広く深く、『人喰いの森』の噂が立つようになってからはコノラトに住む人間はみな恐れて近付かなくなったそうだ。
「元々“禁忌の森”などと呼ばれていて立ち入る者は少なかったがな」
青年――キーネス・ターナーは前を歩きながらそう説明した。
突然現れたキーネスが依頼してきたのは、悪魔憑きを助けてほしいということだった。ミガーに悪魔祓い師はいないし、悪魔憑きを救う手段などないのだろう。表面上は焦った様子もなく落ち着いていたが、彼の目は真剣そのものだった。とはいえ、
「その立ち入る者はいないっていう森に何で悪魔憑きがいるのよ」
服についた木の葉をはたき落しながらリゼは言った。悪魔憑きはどこにいるのか。そう聞いたら問答無用でこの“禁忌の森”に連れてこられたのだ。どう見ても、彼女は機嫌がいいとは言い難い様子だった。
「色々事情がある。話せば長くなるし、知らなくても悪魔祓いには影響しないことだ」
細かい事情に踏み込まれたくない。そんな様子だったが、リゼはあまり納得していないようだった。何かいいたそうにしていたが、彼女が口を開く前に、遠くから低い音が聞こえてきた。
森の奥から響いてきたのは地響きだった。身体の芯に響くような重い音。たくさんの生き物が群れをなして走っているような音だ。
「――まずいな。ひょっとしてあいつらか」
「あの音がなんなのか知っているのか?」
アルベルトが尋ねると、キーネスは、一度だけ遭遇したことがあると言って上を見上げた。さらに周囲をぐるっと見回すと、近くの樹に手をついた。
「樹に登れ。地上は危険だ」
「どういうことよ」
「つべこべ言わずに登れ。潰されるぞ」
よく分からなかったが、とにかく二人はキーネスの言う通りにした。幸い、周りは登るのに困らない大樹ばかりである。太い枝を足掛かりに全員が樹上へ登り終わったころ、樹々の間から地響きの主が姿を現した。
それは猪の大群だった。地を揺らしながらまるで統率のとれた軍隊のように同じ方向へと駆けていく。少しの間地面が猪の群れで埋め尽くされた後、無数の足跡を残して群れは樹々の向こうへ消えていった。
「なんだったんだ今のは」
樹から降り、アルベルトは猪の群れが消えた方角を見る。猪は普通あれほど大きな群れを作らないはずだし、一斉に何かを目指すかのような動きをしていたのも気になる。
「キーネス。あれが何か知っているのか?」
「以前森に入った時、あれに追いかけられた。どうやらこの森に入ってきた人間に襲い掛かるらしい。それ以上は分からん」
キーネスに尋ねてもあっさりそう返されただけだった。結局、何かは分からない。仕方なく真相究明は置いておくことにして、三人は再び森の奥を目指した。
しばらく進むと、突如地面が途切れ、すり鉢状の窪地が現れた。草木に覆われているせいで一見すると窪地であることが分かりにくく、うっかりしていると落ちてしまうだろう。ただ地面は軟らかい腐葉土で、落ちても大怪我をすることはなさそうだ。何気なく、窪地を見下ろしたアルベルトは、そこにあるものを見つけて、目を見はった。
窪地の底に誰か倒れている。
草をかき分けて窪地に降り近付いてみると、その人物がうつぶせに倒れているのが見えた。この窪みに落ちたのか、服と髪は土で汚れている。服装は少年の着るそれだったが、助け起こしてみると少年ではなく少女だった。
「アルベルト、悪魔でもいたの? ――誰、その子」
遅れて窪地へ降りてきたリゼが少女の姿を見てそう言った。街道も通じていない、人里離れた森の中に少女が一人でいるなんて普通ならただ事ではない。しかし、
「分からない。でもおそらくキーネスが探していた子だろう」
「どういうこと?」
「この子、悪魔憑きだ」
そう言うと、リゼは少しばかり驚いたようだった。少女に視線を移した後、近付いて頭の上に手をかざす。
「……本当ね。でも、気配が――」
変だ、とリゼは首を傾げた。確かに悪魔憑きであることは間違いないのだが、どことなく違和感がある。普通の悪魔憑きと少し違うような――
その時、草木をかき分ける音がした。
「おい、猪どもがこっちに戻ってきた。ここにいると危ない……」
滑り降りてきたキーネスは張り付いた木の葉を払いながら、アルベルトが抱えている少女を見た。一瞬、驚いたような顔をした後、
「……クロウ? 何故一人でこんなところに」
キーネスは少女のことを知っているようだった。怪訝そうに気絶した少女を見ている。その様子を見ていたリゼが、
「あなたの言っていた治して欲しい奴ってのはこの子のこと?」
「……ああ、まあな。それより、こいつは――」
最後まで言う前に、大地を震わせる重い地響きが聞こえてきた。どうやら猪の群れが戻って来たらしい。
「後にしよう。とにかくここを離れるぞ。奴らに押し潰されるのはごめんだ」
そう言ってキーネスは窪地を横切ると、手ごろな蔓を見つけてさっさと上に登っていく。アルベルトはリゼを先に行かせてから気を失った少女を背負うと、キーネスに続いて窪地を登った。
登り切ってから後ろを振り向くと、猪の群れは思ったよりも近くまで来ていた。群れの目の前には窪地があるが方向転換する様子はない。むしろさらに速度を増してこちらに走ってくる。まるで獲物を見つけた時の魔物のように。
迫る猪の群れを避けるために、さらに樹上へと登る。少女を背負っていたのと今度は登りにくい樹だったため少し時間をかけて登り終えたころ、猪の群れは窪地を越えてすぐ近くまで来ていた。
群れはそのまま走り去ることなく、急停止してアルベルト達が登った樹を取り囲んだ。
「ちっ、あいつらに目をつけられたか」
猪の群れを見下ろしてキーネスが苦々しげに言う。猪達は樹上にアルベルト達がいることを分かっているらしく樹を取り囲んでどこうとしないので下に降りられそうにない。その上、猪が群がり、時折体当たりするせいで樹が大きく揺れ、ミシミシと悲鳴を上げている。下手をすれば、樹が倒れるのではないだろうか。
そんな中で真っ先に動いたのはリゼだった。彼女は地上の猪達を見回すと、突然樹から飛び降りたのである。そのまま一番低い枝に着地したかと思うと、密集する群れに向かって手をかざした。浮かび上がる魔法陣。そこから発生した突風が猪を蹴散らしてく。道が拓けたところですかさず氷の魔術で周囲の猪を牽制した。
「何してるの! さっさと行くわよ!」
地上からリゼが呼び掛ける。そう言っている間にも猪達は動き出しているが、リゼに近付くたびに魔術で吹き飛ばされていた。
「……力任せなやり方だな」
「あれぐらいじゃまだ大人しい方だ。彼女なら群れを丸ごと氷漬けにしかねない」
まあ猪にしてみれば氷漬けにされるのも吹き飛ばされるのも似たようなものかもしれないが。
催促に応じて地上に降り立ったアルベルトとキーネスは、猪のいない一角を通り抜けて南へと走った。
走る三人の後ろを猪達が追いかけていく。キーネスの言う通り、あの猪達は人間を追いかけてくるようだった。
しかし、それも少しの間のことだった。走っているうちに、背後の足音が少しずつ遠ざかっていく。ちらと後ろを振り返ると猪達との距離が開いていくところだった。こちらが引き離しているのではなく、むこうが速度を落としているらしい。追いかけるのをやめたのだろうか。そう思っていると、草木をかき分ける大きな音がして、樹々の間から褐色の巨体が現れた。
それは巨大な猪だった。その巨体にも関わらず樹々の間を風のようにすり抜け、こちらにまっすぐ向かってくる。
「このままじゃ追いつかれるぞ!」
巨大な猪との距離は詰まる一方だ。また樹の上に登るにしても、あの大きさでは樹を倒されてしまうだろう。魔物ではないようだが、あの大きさとスピードでは立ち向かうのは無謀である。
その時、前を走っていたリゼが立ち止まって振り返った。巨大猪に向かって手をかざし、魔術を唱える。
パキ、と音を立てて大気中の水分が凍った。それは瞬く間に分厚い氷壁となり、猪の進路を塞ぐ。しかし、このままでは衝突するというのに、猪は速度を緩めようとしない。
「止まってる場合じゃない。走って」
「あれでも駄目か?」
「あの分じゃ突破されるわ。時間稼ぎくらいにはなるかもしれないけどね」
言いながら、再び三人は走り出す。その背後で凄まじい音とともに猪が氷壁にぶつかった。氷の欠片が周囲に飛び散り、氷壁に大きなヒビが入る。猪が少し後退し、再び壁に体当たりした瞬間、氷壁は脆くも砕け散った。
その短い間にもアルベルト達は走り続け、少しばかり距離を離していた。振り返ることなく走り続け、とにかく逃げる。そうしているうちに、ふいに樹々が途切れ、草花の揺れる草原に出た。薄暗い森の中とは違って日の光が眩しい。その草原をひたすら走り、しばらくしたところで足を止めた。
「……追ってこないわね」
振り返っても猪達が追って来る様子はない。森の樹々は獣の往来を示すように大きく揺れていたが、猪達が森の外へ出てくる様子はなかった。
「とりあえず一安心、か」
「厄介ごとが一つ残ってるがな」
キーネスは皮肉げに言うと、アルベルトの背に負われている少女に目を向けた。窪地へ落ちた時に頭を打ったのかまだ目を覚まさない。しかし、他に大きな怪我はなさそうだった。
「それで、この子は一体何者なんだ?」
背から少女を指して、アルベルトが問う。それに対してキーネスは、
「名前はシリル・クロウ。知り合いが訳あって預かってた奴だ。おい、クロウ! 起きろ!」
肩を揺さぶられて、少女――シリルはうっすらと目を開けた。
「うぅ……キーネス殿……?」
まだ意識がはっきりしていないのか、ぼんやりとした目でキーネスを見る。しかしそれも構わず、キーネスは質問を続けた。
「何故一人であんなところにいたんだ。ゼノはどうした。ローゼンは?」
「それが、途中ではぐれてしまって……ゼノ殿とは途中まで一緒だったんですけど……そうだ! ゼノ殿が!」
そこでようやくシリルは覚醒したらしい。アルベルトの背中でがばりと起き上ったかと思うと、バランスを崩して落ちかけた。
「きゃあ! す、すみません! あれ? こちらの方々は・・・?」
「助っ人だ。リゼ・ランフォードにアルベルト・スターレン」
リゼとアルベルトの姿を見て当惑するシリルにキーネスが淡々と言う。それに対し、シリルは姿勢を正すと明るい声で、
「リゼさんにアルベルトさんですね。シリル・クロウです。助けていただいてありがとうございます」
彼女はそのまま頭を下げようとしたが、キーネスは「それよりも何があったか説明しろ」と言ってそれをさえぎった。
「あ、はい。途中までゼノ殿と一緒に猪の大群から逃げてたんですけど、途中でとても大きな猪が出てきたんです。ゼノ殿はわたしを逃がすために猪を食い止めようとして―――」
「大きな猪?」
「はい! 人間より大きいんです! それになんだか怒っているみたいで……速く助けに行かないと!」
大きな猪とは先程遭遇したあの猪だろうか。シリルは今にもそのゼノという人物を助けに行きたそうな様子だったが、キーネスは少し考え込むと、
「魔物にでもない猪に襲われたぐらいであいつがくたばる訳がない。放っておいても大丈夫だろう」
淡々とそう言って、今度はリゼの方に向き直った。そして不安げな様子のシリルを指し、キーネスは言う。
「ランフォード。さっさとこいつに悪魔祓いを」
「それは構わないけど、でもその前に少し――」
「時間が惜しい。速くしろ」
キーネスは少し急いでいる様子だった。何を心配しているのか時折周囲の様子を確認している。
「待って。少し訊きたいことがあるの。あなた、この子について何か知ってる? それともこの子に訊けばわかるかしら?」
「知らなければ悪魔祓い出来ないのか? 確かにこいつの事情は特殊だが、悪魔憑きなのは同じだろう」
その台詞に、シリルの表情が変わった。不安げな表情から酷く驚いたような表情に変わる。しかしリゼは彼女の方を見ておらず、その表情に気付くことはなかった。
「この子が普通とは違う理由くらい知っておきたいわね。悪魔祓いはそんなに簡単なことじゃない。話してくれないなら、上手くいかなくても文句言わないで――」
「二人とも、ちょっと待ってくれ」
そう言ってアルベルトは二人の間に割って入った。リゼとキーネスは怪訝そうな顔でアルベルトを見る。
「何よ。いきなり」
「今の話、もっと安全なところへ移ってからにしないか。この子を休ませた方がいい」
「なに悠長なことを言っている。事は一刻を争うんだ。ぐだぐだ喋っている場合じゃない」
「いや、まだ大丈夫だ。それよりも」
それよりも、今シリルに悪魔憑きの話を聞かせない方が良い。彼女の様子を鑑みるに今すぐ悪魔祓いをしなくても状態が悪化するということはなく、むしろ不安にさせる方が問題だ。
悪魔は人の不安に付け込んでより強く魂に根を下ろすのだ。
「あのっ!」
酷く思いつめた様子でシリルが言った。顔色は青く、不安そうな表情だ。彼女は三人の顔を見回してから、意を決した様子で言った。
「悪魔憑きってどういうことですか―――?」
その時、遠くから奇妙な啼き声が聞こえてきた。聞きなれた耳障りな声。それと同時に草むらの中から、小さくて黒い塊が飛び出してきた。そいつはシリルに向かって飛びかかったが、素早く剣を抜いたアルベルトに斬り捨てられ、真っ二つになって地面に落ちる。しかし、そいつで終わりではない。草むらの中から、黒い魔物達が次々に集まってきた。
「だから速くしろと言ったんだ! 魔物が寄ってきたら悪魔祓いどころじゃないだろうが!」
そう言うと、キーネスは剣を抜いて、近くの魔物を斬り捨てた。もう片方の剣も抜き、別の魔物の喉笛を斬り裂く。リゼも剣を抜くと、シリルに迫っていた魔物の一体を斬り伏せた。
「それってどういう意味よ!」
「そのままの意味だ。そいつが魔物を呼び寄せてるんだ!」
キーネスがシリルを指さしてそう言ったのと、大きな魔物が一体飛び出したのとはほぼ同時だった。アルベルトが迎え打とうと剣を構え、魔物に向かい合う。しかし、彼が魔物を討つ前に、魔物とは違う影が現れた
「でやあああああ!」
気合の入った掛け声と共に魔物が一体、豪快に斬り裂かれた。血がしぶき、魔物の身体が重い音を立てて倒れる。倒された魔物の後ろにいたのは、大剣を携えた青い髪の青年。
「よう! またせたな!」
彼は快活にそう言って、得意げな笑みを見せた。




