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Savior 《セイヴァー》  作者: 紫苑
ミガー王国編
32/177

焔の国 水の町 3

 結局、魔物退治に向かってまだ数刻もしないうちに、リゼ達はフィリスの屋敷へ戻ることになった。今度はこちらを不信の目で見てくるレックスも一緒にである。トニーの案内で屋敷最奥の部屋に入ると、薄布の向こうでフィリスが驚いたように言った。

「何事です? 何か問題がありましたか?」

 フィリスは椅子から立ち上がったが、レックスの姿を認めて何事か察したらしい。再び椅子について、トニーに事情を話すよう促した。

「――という訳で、立ち入り禁止にも関わらずレックスさんが勝手に神域に入って来たんです」

 トニーが不満げにそう言うと、それに負けじとレックスが言い返した。

「湖から大きな音が聞こえてくれば気になるに決まっているだろうが。セクアナ様の神域だぞ? あの場所になにか障りがあれば、ルルイリエ全体に良からぬことが起こるかもしれない」

「それって少なくとも音が聞こえるところまで入り込んでたってことじゃないですか。立ち入り禁止になっているのはこの山全体なんですよ?」

「俺だって何もないなら潔斎中に許可も取らず立ち入ったりしないさ。ところがどうだ。潔斎とは言っているがいつもより期間が長いし、祭司達はみんなこそこそしてるし、お前は町を出てどこかへ行くし、何かあったと思うに決まっているだろう!」

 そこでレックスはフィリスの方を向くと、

「神域に何があったんだ。神域の問題はルルイリエ全体に関わることだ。祭司長だからって黙っておくのは―――」

「魔物です」

 際限なくしゃべり続けるレックスをさえぎって、フィリスが静かに言った。するとレックスはあっけにとられたような顔をして黙り込んだ後、

「魔物? 神域に魔物がいるのか?」

 と呟いた。

「そう。神域に魔物が棲みついたのです。町の人達を不安にさせたくなくて黙っていました。そこのお二人は魔物を退治するために私が雇ったのです」

「そのことなんだけど」

 リゼはそう言って話に割り込んだ。フィリスとレックスの視線がこちらに向く。

「あの魔物は近付いても湖の底から動こうとしないわ。誘き出すのは無理。だから、無理やり引きずり出すことにするわ」

 そう言うと、トニーは首を傾げ、レックスは胡散臭いと言わんばかりの表情になった。アルベルトは何となく考えていることを察したのか無言である。

「そのために、一応許可を取っておこうと思って。後でそれは駄目だと文句を言われても困るから」

「なるほど。では、何をするつもりなのですか」

 薄布のせいでフィリスの表情は分からない。しかし、その声音は極めて冷静なものだった。リゼは腕を組むと、なんでもないことのようにあっさりと言った。

「湖を凍らせる」

 そう言った瞬間、真っ先に反応したのはレックスだった。

「おいおい! 神域であるルルイリ湖を凍らせるなんて何考えてるんだ!」

「全部じゃない。魔物の周りだけ凍らせるの。そうなったら魔物も悠長に寝てなんていられないでしょう」

「だとしても湖を荒らしたらセクアナ様の怒りを買うかもしれん! セクアナ様の加護がなくなったらルルイリエは――」

「なら、他に良い手があるの? そもそも、倒すんじゃなくて追い出せと言うから手間取っているの。ただ倒すだけならとっくの昔にやってるわ」

 倒すだけなら、湖に魔術を撃ちこめば済む話なのだ。けれど、それをすれば湖が汚れてしまう。祭司長はそれだけは避けたいだろう。

 と、フィリスは立ち上がると、薄布に手をかけた。布はふわりと広がり、その向こうから祭司長が姿を現す。彼女はゆったりした青のローブをまとい、背丈ほどもある杖を携えていた

「――それで魔物を追い出すことができますか?」

「確証はないわ。でも他に手はない」

 率直に言うと、フィリスは考え込むように目を閉じた。しかし、それは短い間だった。

「分かりました。そうしてください」

「フィリス様!」

「もしそれでセクアナ様がお怒りになったとしても、その怒りは私が負いましょう。あの魔物を放置して、町人にまで被害が及ぶことは避けたいですから」

「でも、セクアナ様の加護がなくなったら――」

「その時は、私一人ででもこの町を守ります」

 きっぱりとフィリスが言った。しかし、それでもレックスは納得しない。

「いや、しかし湖を凍らせるなんて……」

「決めるのは私です。それにレックス。あなたは許可なく神域に立ち入ったのです。その行為がセクアナ様の怒りを買うものかもしれないと考えなかったのですか?」

「そ、それは……」

 図星を指され、言葉を詰まらせるレックス。しかし、まだ何か言いたそうではある。フィリスはそんな彼の様子をじっと見ていたが、しばらくして彼の方に一歩近づくと、携えた長い杖の先で、一回床を打った。

 その音は波紋のように周囲に広がった。ただそれだけでリゼ達には何の影響も及ぼさなかったが、ただ一人、レックスだけは音を聞いた瞬間ばったり倒れた。何があったのかと思ったが、どうやらぐっすり寝ているらしく呑気な寝息が聞こえてきた。

「町の人々に話されては困りますからしばらく眠っていてもらいましょう」

 フィリスの取った思わぬ強硬手段にリゼもアルベルトも驚いた。トニーだけは落ち着いて、「僕一人じゃ運べないんで人呼んできますね」と言って部屋を出て行った。

「結構、思い切った方法を取るのね」

「レックスは頑固で責任感が強いんです。神域に問題があると知れば黙ってはいないでしょう。ですが、町の人々に知られるわけにはいかないのです」

「そうまでして、神域の魔物のことを知られたくないんですか? ルルイリ湖の問題は街全体の問題であることは間違いないのでは――」

「そうです。町全体の問題です」

 フィリスはうつむき、杖に寄り掛かるようにした。

「神域――そしてセクアナ様はこの町の住民の心の拠り所です。そんな場所が魔物に侵されたとあれば、市民の不安は大変なものになるでしょう。不安は恐怖を呼ぶでしょう。セクアナ様に対する信仰が揺らぐかもしれません。それは恐るべきことです」

 女神の加護がなくなったのではないかと恐れて。女神は我々を見放したのではないかと不安になって。そうやって信仰を失うことが。

「信仰が失われることがそんなに怖い事なの?」

「ええ」

 フィリスは真剣な顔で言った。

「あなたは、自分を信頼しようとしない人々を守り続けようと思いますか?」




 小ルルイリ湖に戻ったリゼとアルベルトは、新しいボートで再び湖の中央まで漕ぎ出した。一つ目のボートは壊れてしまったので、仕方なく残ったボートの中で一番使えそうなものをトニーに見繕ってもらったのである。

 トニーと今度は魔物退治を見届けると言って付いて来たフィリスが湖畔で見守っている。その姿が大分遠ざかった頃、ボートを漕いでいたアルベルトが言った。

「しかし湖を凍らせるなんて本当に大丈夫か? 広くはないがかなり深いだろう」

「あれぐらいどうってことない。ちゃんと底まで届くわ」

 水を凍らせるのだ。何もないところから氷塊を創り出すよりはよほど簡単である。いくらあの湖が深いとはいえ、底まで届かないということは有り得ない。

「そうじゃなくて、君の身体の方は大丈夫かという話だ。ラオディキアを出る時に大規模な魔術を使って倒れただろう。メリエ・リドスでも頭痛がするって――」

 なんだ。そんなことか。

「あれは悪魔祓いの術を使ったからよ。普通の魔術を使ったくらいで倒れたりしない」

 悪魔祓いの術と普通の魔術では規模にもよるが必要な力の量が違う。悪魔祓いの方がよほどエネルギーを使うし、そうやって消耗した状態で魔術を使えば倒れることもあるというだけだ。普段はそんなことは起こらない。そのことを言うと、アルベルトはそうかといって、またボートを漕ぎ始めた。

 しばらくして、ボートは目的の湖中央部へたどり着いた。

「ここね」

「ああ、間違いない」

 湖の中を探ると、魔物の気配が変わらず水底にあるのが分かった。リゼはボートから降りると、湖面の一部を凍らせて、その上に立つ。水底の魔物はまだ動く気配がない。今が好機だった。

 目を閉じて意識を集中させる。規模が大きいだけで難しくない魔術。発動させるのにそれほど時間はかからなかった。

『凍れ』

 瞬く間に湖の水が凍り始めた。魔物がいる場所を中心として、円筒の形に水が凍りついていく。氷はあっという間に水底まで到達し、魔物を完全に閉じ込めた。

 けれどこれだけでは終わらない。今度は魔物の周囲の水を凍らせていく。下から上へ。魔物を水面に追い詰めるために。初めは湖の底で蟠っていた魔物の気配が、水が凍りつくごとに水面へと上昇していく。そして、

「さあ、さっさと出てきなさい」

 さらに魔力を注ぐと、反動で湖水が震えた。水が凍りつく音。砕ける音。やがて湖面を突き破って水蛇の魔物が姿を現した。それほど大きくはないが、胴体が人間の大人二人分ほどもある。魔物は快適な湖の底を追い出されて腹を立てたのか、低い唸り声のようなものを上げると、水中へ戻ろうとしたのか湖面の凍っていない場所へ逃げようとした。

 勿論逃がすつもりはない。すぐさま魔力を送ると、周囲の湖面が瞬く間に氷結していく。魔物の逃げ道を塞ぐのに十分な範囲が凍結するのにそれほど時間はかからなかった。水底に戻ることも出来なくなった魔物は鋭い牙をむくと、目の前にいるリゼに向かって襲い掛かった。




 魔物がリゼに襲い掛かろうとしたとき、アルベルトは彼女が剣を抜く前にボートから飛び出し、抜き放った剣を振るった。その剣は魔物の鼻先をかすめ、魔物は警戒するように少し身を引く。凍った湖面に着地したアルベルトは、視線を魔物に向けたまま、後ろのリゼに問いかけた。

「どうする」

「とりあえずこいつを岸まで吹き飛ばす」

「わかった。援護する」

 アルベルトは凍った湖面を蹴ると、水蛇の魔物に向かって剣を振り上げた。しかし斬り裂くことはしない。凍っているとはいえ、魔物の血で湖を汚すわけにはいかないからだ。

振るわれた剣撃はひっかき傷を作った程度だったが、魔物の気を引くには十分だったようだ。魔物は再び咆哮すると、鎌首をもたげ鋭い牙でアルベルトを引き裂こうとした。アルベルトは魔物の牙を避け、再び剣を振るう。魔物は怒り、後ろに下がったアルベルトを追いかける。それを繰り返しているうちに、湖の中央付近から少しずつ岸辺へ近づいていく。そして、

「アルベルト! どいて!」

 魔術を詠唱していたリゼがそう叫んだ。彼女の目の前には緑に輝く魔法陣がある。アルベルトが魔物の傍から離れた瞬間、魔法陣から突風が生み出された。

 それは突風というよりも、風の塊と言った方が良いかもしれない。魔術の風は魔物を絡め捕ると、見事に後ろの岸辺まで弾き飛ばした。魔物の身体は岸辺の樹々に

ぶつかり、いくつかなぎ倒して止まる。

 アルベルトはすぐさま凍った湖面を走り魔物の元へ向かった。鈍い動きで身体を起こし、湖へ戻ろうする魔物へ向けて手加減なしに剣を振る。黒い鱗が斬り裂かれ、紫色の体液が散った。

 魔物は先ほどまでと違う苦しげな吠え声を上げると、太い尾でアルベルトを叩き潰そうとした。だが、動きの鈍っているため避けるのはたやすい。魔物の尾は何もない地面を叩き、土ぼこりが舞い上がる。その瞬間、魔物の胴に氷の槍が突き刺さった。

 湖から湖畔に戻ってきたリゼは剣を抜き、魔術で縫いとめた魔物めがけて斬りつけた。胴を裂かれ、咆哮する魔物。尾を振り回し、暴れまわる。アルベルトは振り下ろされた魔物の尾を足場に飛び上がると、その頭部めがけて斬撃を浴びせた。剣は魔物の右目を捕え、深く斬り裂く。咆哮する魔物。その鼻先に手をつき頭の上に飛び乗ると、アルベルトは魔物の脳天に深々と剣を突き刺した。

「至尊なる神よ。その御手もて悪しきものに断罪を!」

 祈りの言葉を唱えると、浄化の力が魔物を斬り裂いた。魔物は断末魔の叫びを上げ、倒れ伏して動かなくなる。地面に降りたアルベルトは魔物の頭部に突き刺した剣を引き抜いた。そこから紫色の血があふれ出たが、リゼの魔術によって傷口はすぐに凍りつき地面を汚すことはなかった。

「お二人ともー!! ご無事ですかー!?」

 そう言って走ってきたトニーは、倒された魔物を見てうわぁと呟いた。死んでいることを確かめようとしたのか、魔物の様子をじっと見ている。彼がそうしているうちにフィリスがゆっくりと歩いてきた。

「お見事です。リゼさん。アルベルトさん」

「魔物は退治した。これで問題ないわね」

「ええ。これで神域が穢されることはありません」

 フィリスは湖に近付くと、湖水に右手を浸した。そのまま、低い声で数語呟く。すると最後の言葉が発せられると同時に、そこから波紋が広がった。波紋は残った魔術の氷を打ち消し、湖面を鏡のように滑らかなものへと変えていく。それが湖全体に広がるまでさほど時間はかからなかった。

 元の静けさと威厳を取り戻した湖。そこから淡い光のようなものが立ち上る。光は柱のような形に収束し空へと舞い上がった。それはルルイリエへ来たとき視た、町を覆う透明な壁と同化していく。

「――これで、セクアナ様もルルイリエも守られます」

 そう言って、フィリスは嬉しそうに微笑んだ。




「そういえば、あの話が途中だったな」

 数日後。ルルイリエの宿で食事を終えた後、アルベルトはそう言った。リゼは何のことかという表情でこちらを見る。それに対してアルベルトは彼女にまっすぐ視線を向けて、

「メリエ・セラスで言いかけていたことだよ。これから君と一緒に旅をするかどうかだ」

「……ああそれ。で、何?」

「君は悪魔を滅ぼすんだろう? なら俺はそれを手伝おうと思う」

「…………はあ?」

 リゼはそう言って怪訝そうな顔をした。

「何それ。何のつもり?」

「何のつもりと言われても……悪魔を滅ぼすことができれば悪魔に取り憑かれることもなくなるだろう。悪魔に苦しむ全ての人を救うことができるなら、俺はそうしたい。それに君が悪魔を滅ぼしたら、君が魔女ではないという証明にもなる。それには証人が必要だ」

「……あなたが証人になっても教会は納得しないわよ」

「でもいないよりは良いだろう」

 そう言っても、リゼは表情を変えない。あの射抜くような目でアルベルトを見ている。

「私は別に手助けなんていらない。これは私の、復讐のためにやっていることよ。他人を巻き込む気も関わらせる気もないわ」

 彼女はそう頑なに言った。どうやら納得してはくれないようだ。

「なら、勝手に手伝わせてもらうしかないな」

「馬鹿なこと言わないでくれる」

「悪いけど、俺は本気だよ」

 アルベルトは真剣だったが、リゼは不機嫌そうな表情を変えなかった。しかししばらくすると、彼女はため息をついて、

「勝手にすれば」

 と言い捨てた。その様子に少し申し訳ない気持ちになったが、アルベルトは諦める気はなかった。

 誤解を解いてアルヴィアに戻れる方法を見つけるために、ミガーで何をするのか。何ができるのか。正直言って良い手は思いつかない。しかし、少なくとも誤解を解くためには教会に彼女の能力を認めさせることが必要なのだ。そのためには証明となるものを集める必要がある。

 それと、もう一つ。

 たった一人で悪魔を祓う彼女の力。あの力の正体が分かれば、悪魔祓いに役立てることができるかもしれない。一人で悪魔が祓えるようになれば、たくさんの悪魔憑きを救うことができるし、目の前の人を救えないことに歯噛みする必要もなくなるかもしれない。リゼ一人に悪魔祓いを押し付けなくてよくなるかもしれないのだ。

 もちろんリゼの力がアルベルトも扱えるようなものなのかは分からない。むしろ彼女だけの先天的な力である可能性の方が高い。でも、調べてみなければわからない。

ティリーと同じなのだ。彼女が何者なのか知りたい。それが、何らかの糸口にはなるのではないか。そんな気がして。

 このことを知ったら、彼女は嫌がるんだろうなと思いながら。

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