赦されるもの赦されぬもの 10
「だから市長じゃありませんってば。麻薬の密売をしてるのはラウルですから」
レーナはしれっと言ったが、発言内容のせいでその場の空気は一時静止した。あまりに何気ない発言にリゼは頭の中で今の台詞を反芻する。
「・・・・・・今、なんて言った?」
「あ」
聞き返すと、レーナはしまったといわんばかりの間抜けな顔をする。完全に失言だったらしい。
「今のどういう意味だ?」
「えーっとですね。つまり、密売してるのは市長じゃないってことです」
「市長じゃなくてラウルだと」
「……まあ」
訳が分からなくなってきた。確証もなしに商人の言を信じるつもりはないのだが、もしゴールトンが黒幕ならその部下であるレーナの言葉とて信じるわけにはいかない。
「……証拠は?」
「証拠ですか? 色々ありますけど、お二人が納得するものというと……」
レーナは思案顔になって沈黙した。しかししばらくして、
「あ、ないかも」
「ってあのですね」
「だって記録を捏造してるって言われたらそれまでですもん。証拠なら、その書類。それに大体書いてありますけどね。こうなったら読んでください。市長のじゃなくてラウルが密売人だっていう証拠が書いてありますから」
そう言って、リゼの手の書類を指さす。リゼは書類を広げると、ざっと目を通した。ティリーも横から覗き込んで書類を読む。
「ゴールトンはラウルが黒幕だと知ってたの?」
「あ、信じてくれたんですか? そうですよ。判明したのは割と最近ですけどね」
「だったら何故わたくしたちを東の倉庫街まで行かせたんです? 密売人が隠れ住んでるなんて言って」
「東の倉庫街に密売人のアジトがあるってのは本当ですよ。実際にあったでしょ?ただ本拠地じゃないだけです。どっちにしろ潰す必要があったのであなたがたにやってもらおうと」
それに、とレーナは続ける。
「ラウルの共犯者、実際に麻薬を密輸してる貿易商をおびき出す必要があったんです。そのためにあなたがたに行ってもらう必要があったので。たぶん今頃市長が捕まえてくれていると思います」
「じゃあ密売人の本拠地はどこにあるのよ」
「それはここの近くです」
レーナはそう言って、東を指さした。そちらの方向にあるということだろうが、東にある建物というと。
「病院ですよ」
「余計な言い訳はいらないわよ。面倒だわ。あなたが麻薬を密輸して、司祭たちに売らせてたのね?」
そうリゼが言うと、ラウルは深々とため息をついた。やれやれ、といった様子だ。やがてめんどくさそうにこちらを向くと口を開いた。
「どうやってここに来たんだ? 扉には鍵をかけておいたんだが」
「最初の扉はレーナが開けてくれました。後は壊してきましたわ」
ティリーが腰に手を当てて言った。ゴールトンの秘書官は錠前外しの心得があるらしく、鍵のかかった扉を数分で開けてくれたのだ。開けた後、あの商人を見張っておかないといけないし荒事には向いてないから後はよろしくとは言われたが。
「ああなるほど。レーナか……新任で有能そうには見えなかったが、そんな特技を隠していたのか」
納得したようにぶつぶつと呟く。その様子を見て、リゼは口を開いた。
「それよりも、否定しないってことはあなたが密売人で間違っていないってことね」
「否定したところで言い逃れが効く状況じゃないだろう」
「よく分かってますわね。では、何故こんなことをしてるのか教えていただきたいですわ。一体何のために麻薬をばらまいているんですの?」
ティリーがそう問いかけると、ラウルは白いものが混じった頭に手をやった。
「そんなの決まってるじゃないか。商売のためだよ」
「商売……?」
「要するに金のためだ。このメリエ・リドスじゃ金払いがものをいう。違法な商品の流通も、許可証を持たないミガー人の出入国も、そもそもメリエ・リドスの自治権さえ、全て金で買ってるんだ。この街だけとはいえ、アルヴィアでミガー人が自由に動けるのも、スミルナに金を握らせているからなんだ」
「金のため、ね」
「おいおい、金がそんなに卑しいものか? 悪魔に取り憑かれて死ぬのは貧しい連中がほとんどだ。金があれば貧しい生活に心を荒ませることもない。そもそも君達がミガーへ渡れるのも、入国審査官に金を与えて監査をやめさせているからだ。全ては金のおかげなんだよ」
言い訳……という感じはしない。疲れた様子は変わらないが、淡々と事実を報告しているような、そんな口調である。儲けるために商品を売る。売っているものはともかく、『商売』をするのは商人として自然なことなのかもしれないが。
「金ね。あると便利なことは否定しないけど」
冷ややかにリゼは言う。
「麻薬がばらまかれたせいで悪魔憑きが増えてる。祓ってももう一度取り憑かれる可能性もある。ただでさえ悪魔憑きが多いのに余計なことしないでくれるかしら」
「さすが救世主殿。お優しいことだな」
その台詞が終わる前に、リゼは一歩前に踏み出した。風を呼び、体にまとわせる。高速でラウルの目の前まで移動したリゼは、そいつの鳩尾に剣の柄を沈めた。
「うるさい悪党」
呻き声を上げて膝を折った所で、横っ面に蹴りこんで追い打ちをかける。しかし彼は苦痛に顔をゆがめたものの、にやりと不敵に笑って、袖から取り出した袋の中身を振りまいた。白い粉末がばらまかれ、さぁっと大気中に広がる。リゼは咄嗟に息を止めたが、間に合わずほんの少し吸い込んでしまった。粉末は甘ったるく、飲み込むと妙な苦みが残った。
「―――っ!」
突然、強烈な眩暈に襲われた。世界が回り、耐え切れず膝をつく。地面が泥のように柔らかくなって、沈み込んでいきそうな感覚に陥る。顔を上げると、ラウルが無表情でこちらを見下ろしていた。
「大丈夫か、救世主さん。もっとあげようか。幸せな気分になれるぞ」
「……誰がいるか。こんなもので幸せになった所でどうせ幻。その後で苦しむだけでしょう」
言い返してやると、ラウルは憐れむような目をした後、俊敏な動きで後ろに跳んだ。ティリーの魔術を避けようとしたらしい。ラウルは壁際まで後退し、壁に手をついた。
「ではお優しい救世主殿に彼らを紹介しよう。彼らを苦しみから救ってやるといい」
何かが外れる重い音がした。それと同時に左右の扉が軋んだ音を立てて開く。その扉の向こうから、黒い影が飛び出してきた。
リゼは眩暈を押して立ち上がり剣を構えようとした。ティリーも影に向けて魔術を放とうとした。しかし、その直前で二人は動きを止めた。やって来た影は、魔物ではなく人間だったからだ。
瞳を赤く染めたその男は奇声を上げながらリゼに躍りかかった。リゼは床に突き倒されたが、すぐさま起き上がり男を蹴り飛ばす。男は床を転がった後、ふらふらと立ち上がった。
「悪魔憑き? それとも麻薬中毒者? どっちですの?」
「少なくとも悪魔憑きね。……悪魔の気配がする」
左の二の腕を押さえてリゼは言った。よく見ると、悪魔憑きの男の手には無骨なナイフが握られている。襲いかかられた時にそれがかすったようだ。
「悪魔!」
焦点が定まってない目で男は喚く。頬はこけ、ナイフを握る手は細いのに、声には憎しみが満ち満ちていた。それだけではない。薄汚れてはいるが、男が纏っているのは間違いなく司祭の服だった。
「悪魔め! 神に歯向かう害獣め! 消えてしまえ!」
その声が合図だったかのように、開いた扉から次々と悪魔憑きたちがやって来た。あるいは麻薬中毒者だろうか。口々に喚き、叫びながら彼らは押し寄せてきた。
「悪魔だ! 殺せ!」「助けてぇ! 怖いよぉ!」「あはははっ。あはははは!」「神よ! 何故私を助けてくれないのですかぁ!」「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!」
殺到してくる彼らに腕や足を掴まれて、ティリーは完全に動きを封じられた。どこにそんな力があるのかというほど強く掴まれ、伸びきった爪が皮膚に食い込む。
振り払うことはできる。手加減さえしなければ。ただ、この悪魔に取り憑かれた人々に手加減なしに魔術を使うのはかなり心が痛む。麻薬のせいなのか悪魔に取り憑かれているせいなのか、助けてくれと叫んで縋りついてくる女の手を引きはがし、悪魔だと叫んで襲って来る男のナイフを弾き飛ばす。そうしている間に別の悪魔憑きが掴みかかってくるからきりがない。こうなったら遠慮などせず魔術で吹っ飛ばすべきかと思い始めた。その時、
「ラウル。あんた、悪魔祓いの術を見せろと言っていたわね」
そう言ったのはリゼだった。彼女も悪魔憑き達に捕まっていたが、動じた様子はない。その落ち着いた声に、逃げようとしていたラウルが立ち止まって振り向いた。
「お望み通り、見せてあげるわ。悪魔祓いの術を。黙ってそこで見ていなさい」
瞬く間にリゼの周りの空気が変わった。巻き起こる風。凄まじいまでの力が彼女を中心に渦巻いている。
『虚構に棲まうもの。災いもたらすもの。深き淵より生まれし生命を喰らうもの。理侵す汝に我が意志において命ずる』
リゼが使っているのは悪魔祓いの術。彼女が紡ぐ言葉は魔法陣を生み、閃光を躍らせる。それを恐れるように周囲の悪魔憑き達がリゼを掴んでいた手を離し、逃げるように後ずさろうとする。
『彼の者は汝が在るべき座に非ず。彼の魂は汝が喰うべき餌に非ず。
惑うことなく、侵すことなく、汝が在るべき虚空の彼方。我が意志の命ずるままに、疾く去り行きて消え失せよ!』
最後の言葉が響き渡ると同時に、眩い光がリゼの周囲を満たした。満ちていく光。消えていく黒い影。
「これは……!」
リゼの周りにいる悪魔憑き達から黒い靄が次々と離れていく。悪魔を祓い滅する光は、悪魔祓い師の白ではなく、プリズムを帯びた陽光の如き色。
初めて見る光景。でも聞いたことがある。知ってる。
「リゼ……貴女……」
ようやく目にした“救世主”の力を前に、ティリーはただ呆然と立ち尽くした。
少し前、アルベルトは病院に向かって夜明け前のメリエ・リドスを走っていた。
「ラウルが密売人で病院に麻薬を隠していたということですか?」
「そういうことだ」
ゴールトンは走りながら首肯する。
「で、あいつに協力してた貿易商を捕まえるためにあんたたちに囮になってもらったという訳だ」
彼の話によると、麻薬の原料を密輸していた貿易商はラウルの目を盗んで密輸品の一部をあの東倉庫に保管していたらしい。ラウルに売るより直接売り捌いた方が高く売れると思ったのだろう。どうにかして司祭の服まで手にいれ、疑いの目をそらせるよう部下には市長の命令だと言っていたようだ。さらには、麻薬を守るために番人を用意してようだが、倉庫に向かわせるのが遅くなったため、アルベルトが一人で戦う羽目になったようだ。
「では、ロドニー審査官が関わっているのというのも嘘なんですか?」
「いや、関わってるだろうよ。司祭の聖衣はそうホイホイ買えるもんでも盗めるもんでもないだろう? そもそも密売人は司祭だ」
ゴールトンの言葉にアルベルトは失望が広がるのを感じた。やはり審査官が関わっていることは否定されなかった。勿論、本当かどうかの確証もない訳だが、しかし――
走っているうちに、東の地平線から太陽が少しだけ顔を出し、一条の光がメリエ・リドスを照らしていく。そんな時だった。向かう先、メリエ・リドス病院から突如光が立ち上ったのだ。その光は東から射す暁光の中で鮮やかに輝いている。
「あれは何だ?」
立ち上る光を見て、ゴールトンは不思議そうに呟く。しかしアルベルトは一目見ただけでその光の正体が分かった。
「悪魔祓いだ」
神聖であるが故に冷たいものではなく、静かでありながら荒々しく力強い光。陽光のような光。それがどんどん広がって、病院の地下のあたりに蟠っていた黒い影を消していく。それだけでなく、病院の上空を漂っていた影さえもその光で滅ぼしていった。
「悪魔祓い? じゃああれが救世主の力というやつか?」
隣でゴールトンが感心したように呟く。ゴールトンの部下たちも同じように驚いている。しかし、あの術の凄まじさはおそらく彼らが考えている以上だ。悪魔祓い師からしてみれば、あんなことは有り得ないのだ。
しかし、今はそれを見ている場合ではない。アルベルトは再び走り出すと、病院の敷地内に入った。




