全ての人間が持つ力 16
迎賓館の客室に入ると、そこは静寂に満ちていた。
部屋の中央まで進んでから、リゼはリビングを見回した。どうやらティリーとキーネスは不在らしい。ティリーは悪魔研究家の研究所、キーネスは情報収集中といったところだろうか。レイピアを棚に押き、椅子に腰を下ろして、リゼは一息ついた。
悪魔除けの起動にかなり魔力を持って行かれたせいで、頭の芯が重い。少し休もうと、目を閉じて椅子に身体を預ける。リビングに満ちる静寂が心地よい。悪魔除けの調整のためにシリル達は工房に残り、一緒に戻ってきたアルベルトは悪魔除けの結界についての報告――リアムはリゼが行くべきだと言ったが、アルベルトが休ませるべきだと主張した――に行ったから、しばらくはこの静寂に浴することができる。約束した以上、精霊言語の教本を探しておきたいところだが、今はさすがに疲れた。しばらくの間、椅子に座ってぼうっとしていたリゼは、何気なく目の前のテーブルを見た。
テーブルの端には本が一冊置かれていた。タイトルを見るに、どうやらシリルが使っていた刺繍の本らしい。本を開いてみると、縫い方や練習用の図案がページに並んでいた。円、四角、多角形。直線と曲線で構成された様々な形の図。馴染み深い図形が白いページを飾っている。シリルはこれを縫おうとしていたのか。ゼノに渡すつもりか? ページを繰りながら、リゼは思考を巡らせた。
その時、不意にこんこんとノック音が響いた。アルベルトやティリー達なら、入室するのにノックはしない。とすると、使用人の誰かか。振り返らずにいると、がちゃりと扉が開いた。
「お茶をお持ちしました」
入室してきたのはメイドだった。いつもの茶の香りがふわりと広がり、鼻腔をくすぐる。リゼは溜息をつくとページから視線を逸らした。
「頼んでない」
「グリフィス殿下のご指示です。ご帰還されたばかりでお疲れでしょうから、疲労回復にと」
メイドはさらりと言い、ずかずかとテーブルへ向かってくる。余計なことを。リゼは顔をしかめて、王太子の顔を思い浮かべる。アルベルトが報告を終えていてもおかしくない時間だ。一連の経緯を聞いたのだろうけれど、だからといって飲み物を寄越すとは。リゼは溜息をつくと、本に視線を戻した。
陶器がぶつかる軽快な音が響く。メイドがテーブルにカップを並べ始めたのだ。たった一人分の茶器を運ぶのにワゴンを使ったらしく、メイドはリゼの後方に止めたワゴンとテーブルを往復しながら準備を進めていく。長い茶色のおさげが、メイドの背中で揺れる。リゼは刺繍の本に視線を戻すと、ぱらぱらとページを捲った。そして身体で隠れる位置まで本を下げてから、音を立てないようにゆっくりと閉じる。陶器の音はしなくなった。準備は終わったらしい。メイドはワゴンの方へ戻って、何かをしている。リゼは斜め前、テーブルの左手に障害物がないことを確認すると、振り返ることなく肩越しに手に持った本を投擲した。
紙に何かがぶつかる鈍い音がした。背後で何者かが息を飲む。リゼは前方に身を投げると、椅子を思いっきり蹴り上げた。床を転がり、勢いを利用して立ち上がる。視界に映りこんだのは、本と椅子をぶつけられてひるんだ襲撃者。茶を持ってきたメイドだ。彼女は体勢を立て直すと、即座に襲い掛かってきた。
メイドの手の中で光っているのは鋭い銀のナイフだった。袖に隠せるほど小さいが、首を掻き切るには十分だ。咄嗟に先程メイドが弾き返してきた本を拾い上げて、振り下ろされたそれを受け止める。本を駄目にしてしまった。後でシリルに詫びなければ。そんなことを考えつつ、リゼはすぐさまナイフが貫通した本を叩き、攻撃の軌道を逸らした。体勢が崩れたメイドの腹に膝蹴りを見舞う。だがメイドは身を捩ってそれを避けた。銀色が煌めく。床に倒れこむ瞬間、メイドの手から銀のナイフが放たれたのだ。ナイフはリゼの頭部をかすめ、毛髪を数本巻き添えにして飛んでいく。リゼがひるんだ僅かな隙に、メイドは体勢を持ち直していた。
メイドの手にはすでにナイフが握られていた。二本のナイフから繰り出される連撃を、リゼは辛うじて避ける。速い。反撃することは諦め、リゼはどうにか距離を取った。
「何者? 悪魔教徒か?」
だがメイドは答えない。余計なお喋りをするほど馬鹿ではないということか。こんな暗殺紛いのことをしてくるのだ。悪魔教徒に間違いない。そう思うものの、
(それにしては気配がおかしいような――)
悪魔教徒にしては悪魔の気配が感じられない。悪魔憑きでないにしても、何かが違う気がする。この気配は、確か――
だが、思考している暇はなかった。再びメイドの連撃が襲ってきたからだ。こいつ、かなりの手練れだ。攻撃に隙がないし、手数を多くすることで魔術を使う時間を与えまいとしている。ただでさえ疲れているのに、丸腰のままでは反撃の糸口を掴めない。リゼは繰り出された刺突を避けると、テーブルの上のポットを取り上げた。お茶を持ってきたというのは本当らしい。熱い液体が詰まったそれをメイドに向けると、中身を思いっきりぶちまけた。手と顔に熱湯を被り、メイドは武器を取り落とす。顔を抑え、メイドは苦しげに呻く。その状態で武器を握ってはいられないだろう。その隙に、リゼは武器を手に入れようと、レイピアを置いた棚へと走った。
だがレイピアまであと少しというところで、投擲されたナイフが頬をかすめていった。振り返ると、ナイフがもう一本眼前に迫る。かろうじてそれを避けた瞬間、飛び出してきたメイドに体当たりされ、リゼは絨毯の上に転がった。
火傷で顔の一部を赤く染めたメイドは、それでも構わず倒れたリゼに飛び掛かる。振り下ろされた腕を掴み、何とか斬られることを防いだが、メイドはまだ左腕が自由なのに対して、リゼの右手はメイドの膝の下にある。まずいと思った矢先、メイドは左腕を振り上げた。
途端、扉が蹴破られる音が響いた。突然の物音にメイドの意識が逸れ、扉の方へと向く。それと共に、鞘に収まったままの長剣が飛来した。長剣は今まさに振り下ろされようとしていたナイフを弾き飛ばし、乾いた音を立てて床に転がる。思わぬ横やりで獲物を失ったメイドは一瞬何が起こったのかわからなかったらしい。空になった手を見つめて静止する。その隙にリゼはメイドを蹴り飛ばすと、投げ入られた長剣を掴み、その刃を鞘から引き抜いた。
「そこまでよ!」
倒れたメイドの胸部を踏みつけて動きを抑え、喉元に剣の切っ先を向けたリゼは、鋭く警告を発した。身動きが取れなくなったメイドは、悔しげな表情をしつつ抵抗をやめる。油断せずメイドの動きを封じていたリゼの元に、アルベルトが駆け寄ってきた。
「リゼ! 無事か!?」
「なんとか」
アルベルトはすぐさまリゼに代わってメイドを取り押さえる。メイドは暴れたが、無駄な抵抗だ。アルベルトは更に祈りを唱え、悪魔祓い師の光の鎖でメイドを縛り上げると、険しい表情で呟いた。
「どうして」
その声は、いつもと違って低く硬い。
「どうして悪魔祓い師がここにいる?」




