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Savior 《セイヴァー》  作者: 紫苑
悪魔教徒編
144/177

襲撃 1

 本当のことを言えなくて。

 東の空が白み始める黎明の刻。貧民街を覆う黒々とした影の中から、ディックはぼんやりと教会の尖塔を見上げていた。

 東にそびえるスミルナの街は逆光を浴びて黒く染まっている。いくつも立ち並ぶ尖塔はまるで角のようで、街全体が巨大で恐ろしい悪魔のようにも見える。その一方で東の空から放たれる暁光は後光のように教会を照らし、その威容にふさわしい神々しさを添えている。だが、どちらにせよその神々しさを纏うものは青年に何一つ利をもたらさない。それどころか、害にしかならなかった。

「聞いてんのか! この愚図!」

 横から飛んできた怒号にディックは首をすくめた。一瞬遅れて右頬を激しい衝撃が襲い、耐えきれず地面に突っ伏す。口の中に入った砂利を吐き出しながら起き上ると、背中を蹴飛ばされて額をしたたか打ちつけた。痛い。殴られたところが、打ちつけたところが痛い。痛みのあまり起き上れずにいると、ディックを暴行した男は憎々しげに吐き捨てた。

「ミガー人とのあいのこが。お前があいつらを見つけなければこんなことには……! この穢れた疫病神め」

 あんた達だって、一度は喜んだじゃないか。そう思ったけれど口には出さない。口に出したが最後、今度は死ぬまで殴られることが分かっているからだ。沈黙したまま蹲っていると、脇腹に重い蹴りを入れられた。砂利の上を転がって、痛みに呻く。ディックが身動きを取れずにいると、気が済んだのか男は悪態をつきながら去っていった。

 いつもそうだ。立ち上がることもできず、ディックはぼうっと空を見上げた。いつもそうだ。あいつに限らず、この貧民街の人間のほとんどは、気に入らないことがあれば青年を殴り、罵る。教会に見捨てられ、貧困と悪魔の恐怖に怯える日々。その不安と恐怖をより弱い者にぶつけて晴らしたいのだろう。そして、ディックはおあつらえ向きの“弱い者”だったのだ。

 ディックの母は、アルヴィア人。父のことは顔も知らない。知っているのは、ミガー人の船乗りだということだけだ。結婚の約束もしていたのに、ある日行方知れずになったらしい。おそらく国に帰ったのだろう。身籠った母を捨てて。

 ミガー人の子を産んだ母は実家を追い出され、最終的にスミルナの貧民街に辿りついた。しかし、祓魔の秘跡を受けられない罪人の彼らすら、ディックとその母を蔑んだ。穢れた異邦人とのあいのこと罵倒しながら、憂さを晴らすように幼いディックを暴行することもあった。それでも、生きていくためには働くしかない。些細なことで殴られ、罵倒され、厳しい生活の果てに悪魔に憑かれた母の世話をしなければならなくなっても、ディックは毎日毎日食べるために働いた。

 そんな時だった。漁の手伝いで向かった浜辺で、二人の漂流者を見つけたのは。

 今日食べるのもやっとなのに、漂流者を助けた理由は自分でも分からない。でも、大したことはできなかったけれど、二人が喜んで何度も感謝の言葉を掛けてくれたのはとても嬉しかった。生まれて初めて、人間として扱われたと思った。

 けどそれも、貧民街の住民達が、手配書のことに気づくまでの間だった。

 二人を教会に突き出せば、教会から褒美が出る。手配書を持ってきた隣人は喜び勇んでそう言った。漂流者の一人は手配書に載っている悪魔堕ちした悪魔祓い師。もう一人は話しぶりからミガー人。指名手配犯と密入国者を捕まえれば、確かに教会は何かしらの報酬を払うだろう。始めこそせっかく助けた人を売り渡すような真似に罪悪感を覚えたけれど、「秘蹟を受けられるかもしれない」と言われて考えが変わった。秘蹟を受けられれば母は治る。今まで貧乏くじを引いてきたのに、どうして親しくもない漂流者二人に遠慮する必要がある? それに、彼らは犯罪者だ。悪魔堕ちした悪魔祓い師と密入国したミガー人。罪人を助けてくれない悪魔祓い師と、母と自分を捨てたミガー人と同じ奴らじゃないか。そう思うが速いか、ディックは秘蹟を授けてくれることを条件に、二人のことを教会に話した。

 でも、悪魔祓い師は約束を守らなかった。

 それどころか、あの若い悪魔祓い師は二人をかくまった罪で貧民街の人間を火刑に処すとまで言った。冗談だなんて言っていたけど、本当かどうか分からない。だって教会は悪魔に組する者を絶対に赦さないから。

 ボロボロの身体を引きずって、ディックは自宅へと足を向けた。その手には給金替わりが入った魚籠が握られている。中に入っているのは、大人二人の腹を満たすには到底足りない小さな魚が一匹。しかし少なくとも今日はこれで食いつながなくてはならない。家で母が待っている。それだけを支えに、ひたすら歩を進めた。

 その時、スミルナから、黒い靄が噴き上がった。

 禍々しいそれを目にして、ディックはあっけにとられて足を止めた。悪魔だ。直感がそう告げる。神に祝福された神聖都市から、悪魔が噴き上がっている。どうして? あの都市は天使の加護とたくさんの悪魔祓い師に守られているはずなのに。疑念が頭をかすめたが、それに取り合っている暇はない。神聖都市が悪魔に侵されたということは、ここも遠からず危ないということだ。逃げなければ。ディックは小屋に駆け込むと、ベッドに横たわる母に呼びかけた。

「お袋! スミルナに悪魔がいる! 危ないから逃げよう!」

 悪魔に憑かれて骨と皮ばかりになった腕を掴み、ディックは母親を背に乗せようとする。しかし母はいやいやと首を振り、ディックの手を振り払おうとした。弱り切っているせいか、母は悪魔憑きにしては大人しい。だがディックの手を振り払おうとする力は強く、暴行の傷もあってあえなく突き飛ばされてしまう。尻餅をついたディックは、ベッド上でぼんやりと天井を見つめる母を見た。

「あの人が迎えにくるの。だから、ここで待っていなきゃ」

 母は元お嬢様だったらしく、時々夢見がちなことを言う。目は落ちくぼみ頬はこけ、昔の美しさは見る影もないのに、言動だけは未熟な少女のようで、悪魔憑きになってからそれはますます酷くなっている。頼りない上に言うことを聞いてくれない母の言動にイライラして、ディックは母を突き放した。

「親父が来るはずがないだろ! アイツはお袋とオレを捨てたんだから! いい加減目を覚ませよ! アイツは――」

 最低な屑野郎だ。そう言おうとしたのに、その一言は飛んできた木の椀に封殺された。椀は額の真ん中に当たって、衝撃で後ろに仰け反る。額を押さえ、痛みに呻いていると、母は狂乱の声を上げた。

「迎えに来る! あの人は迎えに来る! あの人がわたしを捨てたはずがない! 出鱈目を言うな!」

「で、でも――」

「だまれ! だまれぇ! 何も知らない餓鬼のくせに、あの人を悪く言うなあああああ!」

 奇声を上げて発狂する母を、ディックは呆然と見つめる。椀が当たった衝撃で手当てした傷が開き、赤い血が滴り落ちた。

 理不尽だ。滴る血を拭うことすらせず、ディックはぼんやりと空を見た。毎日毎日必死に働いて。母の世話をして。それなのに貧民街の住民達に殴られて、教会に約束を破られて、錯乱した母に罵られて。一体どうして、こんな仕打ちを受けなければならないのだろう。窓の外を見ると、昼間なのにスミルナはどんどん暗くなっていく。黒い靄のような悪魔がスミルナから噴き出している。ああ。あの無慈悲な教会が統べる神聖都市スミルナも、悪魔に飲まれて滅びようとしている。じき、この貧民街も悪魔に飲まれるだろう。おしまいだ。せめて、苦しまずに死ねたらいい。赤い閃光が奔るスミルナの空を見上げながら、ディックは静かに絶望へ身を浸した。

 その時、虹色を帯びた閃光がスミルナから立ち上った。

 その光は黒い靄を貫いて、スミルナに巣食う悪魔を悉く打ち砕いていった。眩しくて、温かくて、美しい光。荒々しくて、けれどどこか優しい光。これはひょっとして、“救世主”の光ではないか。絶望に沈みかけていたディックの脳裏に、ある噂話が蘇った。

 神の聖典が預言する通り、その眩い光で罪人を分け隔てなく救う“救世主”が現れた、と。

 “救世主”は本当にいた。預言通り現れ、今、スミルナを救っている。慈悲深き神の子なら、罪人たるディック達をも救ってくれるだろう。救われる。悪魔に憑かれた母が、この最悪の状況から、救われる。その希望を胸に、ディックは眩い虹の光を振り仰いだ。救われるその時を、ただじっと待ち続けた。

 けれど、待ちわびたその時は来なかった。

 虹の光は悪魔が完全に消滅すると同時に掻き消えて、こちらには欠片も注いでこなかった。あの光はスミルナだけを救って、貧民街を救ってくれなどしなかった。待ってみても、救いの光は一向にやって来ない。一度灯った希望が潰えるのに、そう時間はかからなかった。

 どうしてだ。“救世主”は罪人をも救ってくれるのではなかったのか。

 取り憑かれたままの母の奇声を聞きながら、ディックは問いを繰り返した。

 どうしてだ。どうして助けてくれない。どうして救ってくれない。一体、オレが何をしたというんだ。殴られて、罵られて、希望を打ち砕かれて。そうされて当然の罪を犯したとでもいうのだろうか。異邦人の血が流れているから? 穢れた罪人だから? そんなこと、オレのせいじゃないのに。理不尽だ。この世界は理不尽で、

 憎くてたまらない。

 憎い。異邦人とのあいのこと蔑んで、些細なことで殴りつけてくる貧民街の住民達(あいつら)が憎い。一度は祓魔の秘蹟を授けると明言しておきながら、約束を破った悪魔祓い師が憎い。自分を捨てた父親が憎い。いつまでも父の影を追っている母親が憎い。秘蹟を受けられるかもと希望を持つきっかけになった、あの二人の漂流者が憎い。すぐ近くにいるのに、救ってくれない“救世主”が憎い。教会が、神様が、アルヴィアが、ミガーが、この世の全てが憎い。憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い!

 こんな理不尽な世界は、

 ――滅ンデシマエバイイノニ。

 そうだ。滅んでしまえばいい。

 ――ゼンブ無クナッテシマエバイイノニ。

 そうだ。なくなってしまえばいい。

 ――ナラ、イッショニイコウ。イッショニコノ世界ヲ滅ボソウヨ。

 世界を、滅ぼす? どうやって? そんなこと、できるわけがない。

 ――デキルヨ。イッショニキテクレルナラ、世界ヲ滅ボスチカラヲアゲル。

 力? 力をくれるのか?

 ――ソウ、アゲルヨ。チカラガアレバ、モウ虐ゲラレルコトモナイ。ガマンスルコトモナインダヨ。

 もう虐げられない。我慢しなくていい――

 ――ダカライッショニオイデ。イッショニ、

 ――闇ノ中へ

 オレは――

 ――イッショニ

 行く。

 行って、この理不尽な世界を滅ぼすんだ!

 その瞬間、嗤い声が聞こえた。歓喜するような、祝福するような、冷たく狂った嗤い声だった。

 ――ようこそ。悪魔を奉ずる者の元へ。

 黒い靄が、視界を真っ黒に染め上げた。

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