理由 2
日も沈みかけて辺りは薄暗い。街道から外れ、近くに村も町もない。そんな場所では人の気配もなく、静寂があたりを満たしている。
「……静かすぎるわね」
辺りの様子を伺いつつ、リゼは呟いた。うるさいよりは静かな方が好きではあるが、こう静かすぎると落ち着かないし、何より不自然である。まるで恐ろしい何かに見つかるまいと、全ての生き物が息を殺し、身を隠しているかのように。
(近くに何かいるのかしら。……悪魔が)
不意に強い風が吹いてきて、周囲の樹がざわざわ揺れた。それと同時に、妙な気配が地を這うように近付いてくる。冷たくてねっとりした、この独特の気配。
ザザザザ―――
鳴り響く葉擦れの音。リゼは剣を抜くと、近くの繁みにゆっくり近付いて、
「そこ!」
繁みを飛び越え、その向こうにいるものに向けて突きを繰り出した。
「わ~待って待って! 危ないから! 人に刃物向けたら危ないから!」
リゼに剣を突き付けられたその人物は焦った様子でそう捲し立てた。むせかえるような気配の中にやけに普通の気配が混ざっていると思ったら、どうやらただの人だったらしい。その人物は敵意がないことを示したいのか、両手を上げてひらひら振った。
「あの~私何も悪いことしてないんで、その剣どけてもらっていいですか?」
文字通り目と鼻の先に突き付けられた剣の切っ先を指さし、恐る恐るといった様子で尋ねる。確かに悪いことをしたわけでもないし、ただの、それも無害そうな人物なので、リゼは剣を引き、鞘に納めた。
「あなた、ひょっとしてこの近くにでも住んでるの?」
「いや、ただの通りすがりの旅人」
どこかで聞いたような台詞だ。
「や~恥ずかしながら道に迷っちゃって。行けども行けども街道に出られないし、人の住んでそうなところも見当たらないし。それでちっと行き倒れてたら、人のいる気配がしてさ。野盗とかだったら怖いから、繁みの中から覗いたんだけど……ま、それはいいや。ね、街に行くのはどっち行ったらいいか知ってる?」
長々とした説明の後、自称ただの旅人はそう質問した。行き倒れていた割には口調に深刻さがない。変な奴、と思ったが、とりあえず要望に応えることにした。
「ここからなら東に行けば街道に出られるわ」
「おお~! ありがとう! さっそく行ってみるよ」
旅人は嬉しそうにそう言うと、さっそくという言葉通りリゼの言った方へ歩いていく。やけに迷いのない行動だ。
「……行き倒れてたって言ってたけど、食糧とか大丈夫なの? 魔物もいるし、街道まで三日はかかるわよ」
「大丈夫大丈夫。なんとかなるって」
至極軽いノリで旅人は答える。それどころか、じゃあねと言ってさっさと歩いて行ってしまった。旅人の一つにまとめた長い黒髪が、歩くのに合わせてゆらゆら揺れる。
「あ、そうだ。そっちの方なんだけどさ。なんかヤバいものがいるみたいだから、行くなら気を付けたほーがいいよ?」
途中、半分だけ振り返って旅人はそう言った。そっち、というのはリゼが向かおうとしている方向である。方角で言うと北西だ。
(ヤバいもの、ね)
確かに邪悪な気配はしている。おそらく魔物ではないかと思うが、それにしては強すぎるような気がする。
「まさか、そのヤバいものの姿を見たりとかは―――」
振り返ったリゼはそこで言葉を切った。知っていることがあるなら教えてもらおうと思ったのだが。
すでに旅人の姿はなかった。
幽霊と違って悪魔というのはそこら中にいた。
たいていの悪魔は黒い影か靄のようなものでふらふらとその辺を漂っているだけだったが、もう少し大きくて影か靄以上の姿をしているものは厄介だった。歩いていると纏わりつき、夜眠ろうとすると身体に張り付き、油断していると気持ち悪い姿をした悪魔が突如目の前に出現する。実体のないものなので追い払うこともできず、とにかく無視し続けることしか対処法はなかった。こちらが反応を返さないと分かると、少しは付きまとってくる数が減るからだ。
しかししばらくして、そうも言っていられない出来事があった。悪魔が生き物に取り憑くものだと知った頃のことだ。近所に住んでいた中年の男性が悪魔に取り憑かれて亡くなったのだ。
アルベルトは男性が悪魔に取り憑かれていることに気付いていた。その中年男性だけではない。その後、何人もの村人が悪魔に取り憑かれた。悪魔に取り憑かれることがすなわち死を意味することを知ってからは、誰かが取り憑かれるたびにその人は悪魔に取り憑かれていると警告するようになった。悪魔祓い師という人がいて、その人なら悪魔を祓うことができると教えられていたから、少しでも早く悪魔祓いができるように、知らせてあげなければならないと思ったからだ。
しかし、知ったところで村の誰も悪魔祓い師に祓魔の秘跡を授けてもらうことはできない。教会すらない辺境の村。悪魔祓い師のいる街は遠い上、貧しいが故にすべての労働を辞めなければならない祈りの日にも、働かざるを得ない者がほとんどなのだ。祈りの日には労働を辞め、神に祈らなければならない。神の教えを守らない罪人であるが故に、たとえ街に行ったとしても、祓魔の秘跡は受けられない。悪魔に取り憑かれたら最後、苦しみ悶えて死ぬだけなのだ。
そんな状況では、アルベルトの警告は死の宣告にしかなりえなかった。アルベルトは次第に気味の悪い子だと周りに怖がられ、避けられるようになった。それでもアルベルトは警告し続けたが、言えば言うほど怖がられるばかり。怖がられ、気味悪がられ、避けられることが嫌になったアルベルトは、いつしか警告することを諦めるようになった。何が視えても、何が分かっても、全て視て視ぬふりをして。
だから両親が悪魔に取り憑かれた時も、何も言うことができなかったのだ。
(……遅いな)
日が沈んであたりが暗くなってからかなり経った頃。アルベルトはなかなかリゼが帰ってこないので、さすがに心配になってきていた。もう遅い時間、というほどではないが、日が暮れてから野外で長く歩き回るのは危険である。
ちなみに、リゼが散歩に行った原因はと言えば、うつらうつらと船を漕いでいる。
(探しに行くか)
そう思って立ち上がり、船を漕いでいるティリーに近寄る。眠っている人間を一人にしておくのはまずいので、とりあえず起こしておこうとした、その時。
妙な気配がした。
冷たく纏わりつくこの気配。それが流れてきた方向に眼を向けると、夜闇の向こうに夜よりも暗い影が漂っているのが視えた。それも大量に。
人に憑くような悪魔ではない。おそらく魔物がいるのだろう。ただし、かなり数が多くて、強力な奴が。
(しかもこの方角は……)
リゼが歩いて行った方向じゃないか。もう気付いているだろうし、彼女が魔物にやられたりはしないのだろうけれど……
(一人で戦いを挑んだりしていないだろうな……)
あまりに有り得そうな事態にアルベルトは嘆息した。とにかく探しに行くしかない。
「ティリー」
「…………はい?」
「リゼを探しに行ってくる。魔物がいるみたいだから気を付けてくれ」
それだけ言って、アルベルトは木立の中に足を踏み入れた。一歩進むごとに、気配は濃くなっていく。霞のような悪魔達が漂ってきて纏わりついてくる。
「神よ。我に聖なる加護を与えたまえ」
短く祈りの言葉を唱えると、纏わりついていた悪魔達が離れていく。しばらくの間、アルベルトは気配を頼りに無心に歩き続け、ついに、気配の発生源のすぐ近くまでたどり着いた。
果たして、リゼはそこにいた。
だが、魔物に一人で戦いを挑んだりはしていなかった。樹の陰から魔物の様子を伺っているだけである。
「リゼ」
声をかけると、彼女はちらっとこちらを見ただけですぐに前方へと視線を戻した。
「ちょうどいいわ。あれ、なんだと思う?」
リゼの見つめる先、開けた窪地の中に、大きくて丸いものが鎮座している。冷たく纏わりつくような気配を吐き出すそいつは、巨大な肉の塊だった。何十匹かの獣が融合したのだろうか。素が何であったのか分からないものになっている。周囲の樹木まで巻き込んでいるらしく、ところどころから樹の幹のようなものが突き出していた。
「あれは……」
不気味な肉の塊の中に無数の蠢く影がある。
大量の蟲の悪魔が。
「悪魔召喚で呼び出された悪魔が取り憑いているんだ」
「マリークレージュの、あの蟲の悪魔のこと?」
どうやら様々な生物に取り憑いて魔物化させた上、融合して一つの塊になったようだ。とにかくよく分からないものになっている。
「なんですのあれ。気持ち悪いですわね」
「ティリー!? いつの間に……」
「貴方がわたくしをおいてどこかへ行くものですから、こっそり後をつけましたの。それより、あれが悪魔召喚の置き土産だっていうのは本当なんですの?」
「ああ。間違いない」
召喚の魔法陣を破壊すれば蟲の悪魔も消える。はずなのだが、そうでないものもいたらしい。しかし、こんなところにまでやってきていたとは。
「それにしても魔物ってよく変な姿をしてますけど、あれでは動くに動けないんじゃありません?」
魔物の様子を観察していたティリーは今度はそんな感想を漏らした。確かに、魔物には手も足もなく、ただの丸い肉の塊でしかない。時折、びくびくと蠕動し、脈打つように蠢くそれは、まるで何かが生まれ出でようとするかのようで―――
「……蛹だ」
肉塊の中を見通したアルベルトは、そこにいるものに気付いてそう呟いた。
「あれは蛹なんだ。あの蟲の悪魔はああやって自分に合った身体を造ってるんじゃないか?」
「それなら今すぐ動く必要はないでしょうね」
「ええ!? やっぱり気持ち悪いですわ……」
リゼは至極冷静に、ティリーは非常に気持ち悪そうに言う。
「で、何が出てくるのかしら」
「奴らが一つに融合した強力な魔物。いや、むしろ悪魔に近いのかもしれない。どちらにせよ、このまま放置しておく訳にはいかないな」
「同感ね。さっさと片付けましょう」




