悪夢 8
「どうしていきなり手合せしたいなんて言い出したんだ?」
レイピアを差し出して、アルベルトはそう問う。
「……理由なんてない。ただ手合わせしてみたかっただけ――負けるつもりはなかったのに」
彼にだけは負けたくなかった。とにかくそう思う。悔しい。ただ無性に悔しくて、受け取ったレイピアの柄を握りしめる。馴染みのある滑らかな柄の感触に、少しだけ心が落ち着いた。がしかし、悔しいことに変わりはない。
「さっきの君の戦い方だけど、太刀筋がかなりぶれていた。攻撃が単調だし、狙いも不正確だ。君はまだ本調子じゃないだろう? それに、この明るさじゃ俺の方が有利だ。それに、あれ以上の魔術を使われたら俺は負けていただろうな。君に本気を出されたら、俺じゃ防ぎきれないよ」
リゼの悔しさなど知る由もないアルベルトは、そう言って小さく笑う。確かに本気で魔術を使えば、そう簡単には防げないだろう。だがそれはそれだけの魔術を使う猶予があればの話だ。先程の手合せで彼はほとんど攻勢に出なかったが、それでも見事に負けた。もしアルベルトが積極的に撃って出てきたら、魔術を使う暇があるかも怪しい。結局、勝てないのだ。やっぱり悔しい。
リゼはため息をつくと、レイピアを鞘に納めた。空は大分明るくなり、もう足元が見えないということはない。間もなく森の向こうから日が差し始めるだろう。群青から青に変わりつつある空から、星と月の光が消えていく。薄闇に覆われていた大地はようやく朝を迎えようとしていた。
「……それで、なんでこんな時間に鍛錬なんてやってるの。悪魔祓い師にはそういう決まりでもあるの?」
しばらくの沈黙の後、リゼはふと思い立ってそのことを聞いた。習慣だから、というのは結局のところ理由にならない。何故鍛錬を行うのにこの時間を選んだのだろう。
「いいや、鍛練は自主的にやっているものだよ。教会にいた頃、昼間は聖務が忙しくて、朝の祈りの前か寝る前ぐらいしか自由時間が取れなくてね。それで、朝の祈りの前に鍛練をすることにしたんだ」
アルベルトはそう答え、剣の柄に手を置く。どうやら自主的にやっていることらしい。リゼも剣術を身に着けている以上、鍛錬の大切さは理解できるけれど、わざわざ自由時間を削ってこんな時間にやっているのはアルベルトらしいというか。リゼはそのことに少しばかりあきれつつ、今度は別のことを問いかける。
「朝の祈り、って、何するの」
「夜明けと同時に神に祈りを捧げるんだ。新しい朝を迎えられたことを感謝し、今日一日を心穏やかに暮らせるよう願う祈りだ」
感謝に願い、か。感謝しなくても朝はやって来るし、祈りで心穏やかな日々が約束されれば世話ないけれど。感謝や願いごとが無駄とまでは思わないが、どうにも祈りとやらの意義が分からない。そんなに大切なものだろうか。なによりも優先すべきことか? それに、
リゼは顔をしかめると、じいっとアルベルトを見つめた。
「罪人の子供なのに、馬鹿正直に神に祈るのね」
そう言うと、アルベルトは驚いたように表情を変えた。
「決まりだから祈るとか、馬鹿馬鹿しいと思わないの?」
感謝や願いは自発的なものだろう。決まりだからとか、そんなものではないはずだ。祈りの日といい、形式ばっかり決めて何の意味がある。だが、アルベルトはそうは思わないようで。
「――罪人の子であるかどうかは関係ない。神を信奉する者にとって、祈りは大切なものだから。決まりだから祈っているわけじゃない」
アルベルトの口調は真面目で真摯で、嘘をついているようにも建前を言っているようにも見えない。本気で言っているのだ。そのことにリゼは妙に苛立った。
「あなたの両親は、祈りの日に働く罪人だったから悪魔祓いを受けられず死んだんじゃなかったの?」
「そのことと祈ることは別だよ。祈りの日に働く者を罪人だと切り捨てる教会の考え方は改めるべきだと思うけれど、祈ることが馬鹿馬鹿しいとは思わない。祈ることで得られるものもある」
「得られるもの? 手組んで目つむって、神様を褒め称えてるだけなのに何が得られるのよ」
納得できなくて突っかかったものの、アルベルトは静かに答えるだけだ。まるで聞き分けのない子供に言い聞かせるように。
「祈ることで、自分を見つめ直すことが出来る。懺悔を通して、自分を省みることが出来る。そうやって自分の考えを整理することで、心の平穏を得られるんだ」
「懺悔……心の平穏、ね……」
祈れば心の平穏を得られるのか。神様を称えれば救われるのか。そんな都合のいいことあるわけないのに。
「懺悔って、一体何を懺悔するの? あなたが懺悔しなきゃいけないようなことってあるの?」
生真面目な彼のことだ。どうせちょっとした失敗だとか間違いだとか、そういう些細なことを上げて神に赦しを乞うているに違いない。馬鹿馬鹿しい。そう言おうと思った。アルベルトの懺悔がそんな内容ならば。だが、彼はやけの表情を暗くすると、「色々あるよ」短く答えただけだった。
「色々って何?」
気になって問いかけると、アルベルトは言いにくそうに視線をそらす。そんな人には言えないようなことなのか。リゼが黙ったまま視線を送っていると、アルベルトは迷うように瞳を揺らす。やがて彼はため息をつくと、観念したかのように話し始めた。
「――君と合流する前に、悪魔教徒の少年に会ったんだ」
それは、思っていたのとは違う話だった。
その少年は悪魔に取り憑かれていたとアルベルトは言った。彼の力では祓うこともできず、悪魔ごと殺してしまうことしかできなかった。きっと望んでああなったのではないだろうに、悪魔教に関わったが故に短い生涯を終えてしまった。自分にもっと力があったなら、少なくとも死からは救えたかもしれないのにと。
「――俺はもっともっと力を付けなければならないのに、一歩も進んでいない。鍛錬は毎日続けているけれども、いくら術の修練を積んでも、俺は悪魔祓い一つ満足に出来ない。ずっと君に頼りきりで、俺は何も出来ていない」
力なく岩の上に座り込んで、アルベルトは視線を地面に落とした。影のかかった表情は暗く沈んでいて、彼の悩みの深さを表している。
「せめて、俺も悪魔祓いが出来れば、君に負担ばかり掛けるようなことにはならないのに――」
悔しげにそう言って、アルベルトは膝の上で拳を握る。白く染まっているそれによって、彼は心の底から己が無力を恥じ、悪魔憑きを気にかけていることが分かる。下らない些細な間違いなどではなかった。そこは決めつけが過ぎた。でも、だからこそリゼは思う。
何を言ってるんだこいつは、と。
「あなたにそんなこと期待してない」
どうしようもなく苛々して、反射的にそう言いかえす。一人で悪魔祓いを為し得ないことがなんだと言うのだ。そんなこと、最初から期待していない。悪魔祓いの儀式は時間がかかるし道具もいる。その上、何人もの悪魔祓い師で祈りを唱えなければならないという。そもそも悪魔祓い師は一人で悪魔祓いを出来ない者ばかりなのに、アルベルト一人を責めたってどうにもならない。表情を硬くしたアルベルトに、リゼは苛立ちをぶつけるように言い募った。
「あなたが一人で悪魔祓いを出来ないのはあなたの怠慢のせいじゃなくて、悪魔祓い師にその程度の力しか寄越さない神様のせいでしょう」
だからアルベルトが悔やむ必要なんてどこにもない。だって出来ないものは出来ないのだ。自分のせいじゃないのに自分を責めるなんて馬鹿じゃないか。なのに、
「そんなことはない。俺が未熟なのは努力が足りないのと――信仰心が足りないからだ」
穏やかに反論するアルベルトの口調に迷いはなく、それだけに苛立ちが募る。違う。そうじゃない。アルベルトの努力が足りているかどうかなんて、そんなことどうだっていいのだ。
「努力? 信仰心? なら悪魔祓い師の大半は怠け者で不信心なのね。そうよね。悪魔召喚の魔法陣に気付かず放っておくぐらいだもの」
「それは……間違いなく教会の怠慢だ。正さなくてはいけないと思ってる」
思ってる。そう、彼は思っている。考えている。では、他の悪魔祓い師は? 司祭は? 守護騎士達は? アルベルトと同じように、真面目に教会の務めを考えている者がどれほどいるのだろうか。
「あなたはそうやって正しいとか間違っているとかちゃんと考えているのに、たくさんの人を救いたいと思っているのに、どうして神様は力を与えないの? あのウィルツとかいう悪魔祓い師の方が強い炎を持っているのは何故よ? ゼノから聞いたわよ。貧民街の人達を脅して楽しんでたっていう話。あいつに力を与えておきながらあなたは未熟なままだなんて、慈悲深くて公正な神様の目は節穴なんじゃないの」
マラークの神は不公平だ。公正を謳いながらまっとうな人間に力を与えないのだから。慈悲とは無縁そうな人間に力を与えるのだから。
「そんなこと……」
「そうでしょ。全知全能とか言いながら悪魔をほったらかしにしているんだから」
「リゼ!」
アルベルトの口調は咎めるように鋭く、表情は険しい。ああ、やはり彼はマラーク教徒なのだ。教会の非は認め、批判を甘んじて受けるけれど、神様を悪く言うことは赦さない。だが、リゼは違う。納得できないのだ。慈悲深きマラークの神が悪魔も、悪魔教徒も、貧しい罪人達も、教会の無能な連中も、彼のように志を持った人間も、皆ほったらかしにしていることが。
「……なにが全知全能の神よ。神様がしっかりしてくれないから、こんなことをする羽目になったんじゃない」
神様が、聖典に書かれている本物の救世主――神の子が悪魔を滅ぼしてくれないから、たくさんの人間が悪魔に苦しめられている。慈悲深い神なんてこの世にはいない。祈りさえすれば助けてくれる。そんな都合のいい神様はこの世にはいない。神はただ在るだけだ。助けてくれない神様に縋るなんて、力を授けてくれないことを悩むなんて、馬鹿馬鹿しい。
アルベルトは何も言わなかった。答えあぐねているのか呆れているのか、押し黙ったままだ。おそらくは後者だろう。リゼは俯いたまま、沈黙の中にただ立ち尽くす。次第にいたたまれなくなって、リゼはその場から立ち去ろうとした、その時だった。
「おはよーございまーす!」
突然割って入った声にリゼは驚きのあまり硬直した。アルベルトも同じだったらしく、互いに顔を見合わせ、声のした方へ視線を向ける。するといつの間に近づいていたのか、思ったより近い場所に馬の手綱を引いたレーナが立っていた。
「おはよーございます。お二人ともお早いですね!」
にへらと笑いながら、レーナはすたすたと近寄ってくる。いつからそこにいたのだろう。全く気が付かなかった。
「もう帰ってきたのか」
「だからちゃっと行ってちゃっと帰って来るって言ったじゃないですか。この通り薬も買ってきましたよ?」
そう言ってレーナが鞄から取り出して見せたのは薬の入った布袋だ。彼女はそれをふらふらと振ると、無造作に放り投げた。さらに馬の手綱をアルベルトに渡し、「よろしくお願いしますねー」と言って洞窟へと歩いていく。
「ちょっと、どこへ行くのよ?」
薬の袋を受け止めたリゼは、その無造作な扱いに呆れつつ、すたすた歩いていくレーナに問いかける。薬を渡すのはいいがどこに行くつもりなのだ。そう思っていると、
「どこへって決まってるじゃないですか」
レーナは振り返り、真剣な表情で言った。
「布団の中です」




