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Savior 《セイヴァー》  作者: 紫苑
悪魔教徒編
122/177

神聖なる悪魔の苗床 25

「うーん……」

 その時、ゼノのいる方から小さな呻き声が聞こえた。視線を移すと、岩の上に横たわっていた少女が、わずかに身じろぎをしている。目を覚ましたのだ。少女は開いた目を頼りなげにさ迷わせ、不安の表情を浮かべる。それに気づいたゼノが、彼女の下へ駆け寄った。

「シリル! よかった! 気が付いたんだな!」

「ゼノ殿。わたし、助かったんですか……?」

 少女はぼんやりとゼノを見、周囲を見回してからすっと立ち上がった。悪魔に取り憑かれていたとは思えない軽々とした動作に、ゼノは驚いて目を見張る。ゼノが大丈夫なのか、と声をかけると、彼女はにこりと笑った。

「平気です。心配をかけてごめんなさい」

「そんなことどうでもいいわ。本当に何ともないの?」

 沈黙を解いたリゼが、少女にそう語りかける。彼女はリゼに視線を移すと、嬉しそうな表情をして歩み寄った。足取りは軽く、そのままリゼに抱きつきそうなほどで。

「本当に何ともないですよ。リゼさん。また助けてくれて、ありが――」

「リゼ! ゼノ! その子から離れろ!」

 その瞬間、アルベルトは彼女の言葉を遮るようにそう叫んだ。

 行動が速かったのはリゼの方だった。アルベルトの警告を聞くや否や、リゼは駆け寄ってきた少女から距離を取る。少女は笑顔のまま、ぴたりと足を止める。不気味な気配を察したリゼは魔術を唱え始めたが、それが完成するよりも少女が右手を上げる方が先だった。

 少女が突き出した指先から、リゼに向けて黒い衝撃波が放たれた。それは悪魔召喚をしていた時や、マリウスが使ったものよりもずっと強い。その衝撃波が届く前に、二人の間に割り込んだアルベルトは抜き放った剣を一閃させた。白い光で衝撃波()を蹴散らし、塵に還す。相手の力が強すぎて全てを防ぎきれなかったが、リゼの魔術がかろうじて残りの衝撃波を打ち消した。そしてアルベルトはそのまま距離を詰めると、剣の切っ先を少女の喉元に突きつけて、

「お前は誰だ」

 そう詰問した。

「やっぱり、気配を隠していてもあなたには分かってしまうんですね」

 アルベルトに視線を移し、笑みを浮かべてシリルは言った。否、シリルではない。何者かがシリルに取り憑いているのだ。それも悪魔ではない。悪魔に近い別の何か。そう、思えば生霊に似ている。

「もう一度聞く。お前は誰だ」

 剣を向けたまま、アルベルトはシリルに取り憑く何者かに詰問する。こんな気配を持つ輩、初めて視る。確かなのは、とても邪悪な者だということだ。静かだが、悪意に満ちた者であることだ。

 すると不意に、少女を観察していたティリーが呟いた。

「こいつ、悪魔ですの? でも聖印があるのに――」

「聖印? これですか?」

 そう言うと、彼女は胸元に掛けられた麻袋を取り出した。聖印が納められたそれは、彼女の掌の中でバチバチと閃光を放っている。シリルに取り憑いている者に反応しているのだ。しかし聖印の閃光にいくら打たれようと、彼女は平然としている。聖印の結界など、何の障害にもならないというかのように。

「あなたの力など、わたしには及びませんよ。アルベルト殿」

 麻袋を放り投げ、彼女は嗤った。聖印が納められたそれは、軽い音と共に岩の上に転がる。聖印が効かない。アルベルトの力と、正五芒星が元から持つ聖なる力を合わせても、この者には届かない。只者ではない。こいつは一体……

「あんた一体誰よ。もったいぶってないでさっさと答えなさい」

 その時、隣にいたリゼが鋭い口調でそう言った。いつでも悪魔祓いの術を放てるように魔力を高めながら、リゼはシリルに取り憑く者に厳しい視線を投げかける。少女はリゼに視線を移すと、目を細めた。

「また会えましたね。お姉ちゃん」

 シリルに取り憑く何者かは、親しげな口調でリゼに呼びかけた。それでリゼは相手が誰か気付いたらしい。鋭い視線でシリルを睨み、険しい声で呟いた。

「……リリス」

 聞き覚えのある名前だった。アルベルトは驚いて、シリルを見る。シリルに取り憑く、シリルではない存在。悪魔に関わりのある人物で、その名を持つのは――

「リリスだって? こいつが――」

「知ってるの?」

 リゼが問いかけてきたので、アルベルトは頷いた。彼女が知らなかったのは意外だが、悪魔教に少し詳しい者なら皆その名を知っている。

「魔女リリス。悪魔教の指導者だ」

 ヘレル・ヴェン・サハルに居を構えるという、悪魔教の教主だ。

 それが今、シリルに取り憑いている。リリスは悪魔教徒だが、悪魔そのものではない。生霊状態のオリヴィアがシリルの身体を借りたのと同じように、リリスも魂だけの状態で他者に寄り憑く術を持っているのだろうか。なら本体はどこにいる。

 まさかヘレル・ヴェン・サハルから術を使っているのだろうか?

「リリス。お前の目的はなんだ」

「そんなの分かりきってるじゃないですか。この世に魔王(サタン)様を降臨させ、神を滅ぼすことです」

 穏やかな表情でそう語るリリス。この世に魔王(サタン)を降臨させることは、まさしく悪魔教徒の悲願。訊くまでもなく分かり切っていることだ。アルベルトが訊きたいのはそれではない。

「違う。どうしてスミルナで悪魔召喚をしようとした? どうして自分から姿を現した?」

 鋭く疑問を投げかけると、リリスは嬉しそうに笑った。よくぞ聞いてくれました、とでもいうように。

「スミルナは神の子が現れる地。そう預言されています。アルベルト殿ならよくご存知でしょう?」

 神の子は千年目の始めに悪魔に苦しむスミルナに降り立ち、神の力で街を救う。彼の者は弱く惑う人々を白き光で照らし、神の栄光を知らしめる――

 聖典に記された預言。救世主の降臨を示す記述。千年祭で降臨と浄化の儀が行われるこの街は、救済の始まりの場所でもあるのだ。救世主たる神の子が降臨し、全ての悪魔を滅ぼし、人類を永遠(とわ)の楽園へ導くという預言が叶うための。

「だから、わたしはこの街を変えておきたかったんです。天使の加護を受けし神聖なる都市を悪魔の黒で染め上げ、人が己の欲望のまま悪魔憑きとなれる場所に。神の子が本当に現れるか確かめるために」

 芝居がかった動作を交えながら、リリスは滔々と語る。詠うような口調で、自身に酔っているように。

「預言の時が訪れる前にこの街が危機に陥ったら、はたして神はどちらを優先するのでしょう? 預言? それともこの街? もしスミルナがなくなったら、神の子はどこに現れるのでしょう? この街を救っても救わなくても預言は外れる。その時、神の子は一体どうするのでしょうか?」

 歌うように語りながら、リリスは広げた両手を胸の前で組んだ。まるで祈るように。

「それがお前の目的か」

「はい。そしてそれを見届けに来ました」

 そうしてリリスは手を胸に当てると、表情だけは子を見守る母のような笑みを浮かべた。

「この子は本当に役に立ってくれました。スミルナに悪魔を入り込ませることも、儀式を行うことも、わたしの器としても。おかげで面白いものを見られました。感謝しますよ。ゼノ・ラシュディ」

 突如名を呼ばれて、リリスを睨みつけていたゼノははっと表情を変えた。リリスの発言に何か気付いたのか、見る見るうちに表情を凍らせていく。

「オレのせい……なのか……? オレが教会から連れ出したから……」

 茫然と呟くゼノの顔からはすっかり血の気が引いている。依頼されたとはいえ、シリルの逃亡を助けてミガーまで連れてきたのはゼノだ。教会から出さなければこんな風に利用されることもなかったのか。辛い目に合わせることもなかったのか。そのことに気付いて、後悔で震えている。そんなゼノを叱咤するように、アルベルトは言った。

「ゼノ。惑わされるな。悪魔に取り憑かれたシリルを、リゼの元まで無事に送り届けたのは君だ。君が連れ出したおかげでシリルは助かったのは動かしようのない事実なんだ」

 教会はシリルを半ば攫うような形で修道院に入れ、祓魔の秘跡を授けることもせず監禁したという。教会が悪魔憑きを監禁し放置した――などとは考えたくないが、時間があり適任者もいたはずなのに悪魔憑きをそのままにしていたのは事実だ。シリルに憑く悪魔を祓ったのは悪魔祓い師ではなくリゼであることも事実だ。シリルをリゼの元に連れて行ったのは、ゼノであることも。

 シリルを連れ出さなかったらどうなっていたかなんて、考えても仕方ない。

「――さっきから黙って聞いてれば余計なことをべらべらと。ふざけないでくれる?」

 底知れぬ怒気をにじませて、リゼはそう吐き捨てた。一歩。二歩。リリスを睨みつけながら、リゼはゆっくり歩を進める。

「シリルを連れ出してくれたおかげ? だから何よ。こいつにも責任があるって言いたいわけ? あんた達が下らないことしなければシリルはこんな目に会わずに済んだのに」

「わたしはゼノ殿を責めてなんていません。むしろ感謝しています。見ず知らずの人間の頼みを疑いもせず聞き入れる、愚かな青年に」

「いちいち厭味ったらしい言い方するわね。責任逃れは結構だけど、そんな言葉に惑わされると思ったら大間違いよ」

「責任逃れなんてしてませんよ。わたしは事実を言っただけ。わたしはわたしのすべきことをしているだけ。――そう。忌々しき天使の力を排除し、地上を悪魔で満たし、邪魔な神の子を殺す。全ては魔王(サタン)様のために」

 リリスは腕を広げ、恍惚とした表情で天を仰ぐ。まるでそこに魔王(サタン)が存在しているかのように。これが舞台の上で行われる演劇ならその演技力を称賛されるところだろうが、この薄暗い洞窟の中、芝居がかった仕草で語られるそれは悍ましいとしか言いようがなかった。

「反吐が出るわね」

 リゼの低い声が、洞窟に響き渡った。

「消えなさい」

 そう言い捨てて、リゼは悪魔祓いの術を唱え始めた。プリズムを帯びた光が、リゼの周りを舞い踊る。しかし、リリスは邪魔する様子もなく微笑んでいるだけだった。何を企んでいるのか、微動だにせずじっとリゼを見つめている。その間にもリゼの術は紡ぎあげられ、魔法陣と光の帯がリリスの元へ向かった。

「リゼさんのその祓魔の力。わたしには必要のない力です」

 自らを捕らえようとする光の帯を見ながら、リリスは恐れる様子もなくそう言った。リリスは穏やかに術を使うリゼを見つめている。

「別にあんたのためにあるんじゃないわ。必要かどうかは私が決める」

 そう言い放ち、リゼは術を強めた。光が駆け巡り、リリスを完全に包み込む。しかし悪魔祓いの術に捉われて尚、リリスは笑みを崩さなかった。

「わたしを浄化するんですか? そんなことが出来るんですか?」

 リリスは嗤った。シリルではありえない婉然とした笑みで。子供のものではない、毒のある大人の笑みで。

 そして次の瞬間、頭の中に甲高い金属音が響き渡った。

 神経に障るその音に、アルベルトは頭を押さえた。頭の芯が痺れるような感覚と共に、軽い眩暈に襲われる。しかしアルベルトはすぐに眩暈を振り払い、リリスに剣を抜き切っ先を向けた。

「何をした!?」

 嗤うリリスに、アルベルトは問いかける。幸いにも痺れと眩暈はすぐに弱まり、耳障りな金属音も消え失せた。だが安心は出来ない。魔女が眩暈と耳鳴り程度ですむことをするはずがないのだから。

 リリスは無言のまま、すっと目を細めてアルベルトの剣を見た。その顔からはあの嫣然とした笑みがわずかに削ぎ落とされている。そして少しだけ視線を上げ、鋭い目でアルベルトを見た。

「やっぱり、あなたには効かないんですね」

 あなたには効かない。忌々しげに告げられたその言葉。あなたには。すなわち、アルベルト以外には効くということだ。

「幻術か!」

 そのことに思い至って、アルベルトは振り返る。すると、仲間達は頭を押さえ、混乱した表情でリリスの方を見ていた。

「おふくろ!? なんでここに……!」

 そう叫んだのはゼノだった。無論、彼の視線の先にいるのはリリスであって、彼の母親ではない。存在しない幻を見せられているのだ。

「ちょ、っと……! ふざけないでくださいませ!」

「なん、なんだ! これは!」

 ティリーもキーネスも苦しみながら、幻を振り払おうとするかのように目をつぶる。耳を塞ぎ、うつむき、幻を知覚しないようにしている。そんな中、

「母、さん……?」

 何もせず、凍りついた目をしたリゼが、リリスの幻を前にしてそう呟いた。

「――神の名の下に」

 アルベルトは剣を構えると、祈りを唱えた。

「ここに蔓延る魔の力を打ち破りたまえ。消し去りたまえ。一切を無に帰し清めたまえ!」

 聖なる力が宿った剣を振り下ろすと、硝子が割れるような音が暗い洞窟に響き渡った。リリスの正面。一見して何もないように見える空間。そこに、空間の揺らぎがある。皆を惑わせている幻はそこにあるのだ。リリスの力は強く、ただやみくもに斬りかかったのでは幻を打ち砕けないだろう。しかしアルベルトの眼は幻術の核とも言える部分を見出していた。祈りの力で幻は砕かれ、リゼ達の呪縛を解いていく。

「やっぱりその力、わたしには必要ありません」

 一瞬で笑みから面のような無表情に変わったリリスは低くそう呟くと、手を上げて衝撃波を放った。アルベルトはそれを避け、少し残っていた幻を打ち砕く。すると我に返ったリゼが、再び悪魔祓いの術を放った。

「あんた、とっとと消えなさい!」

 光の帯がリリスに向かって奔る。それを、リリスは無表情のまま見つめている。抗っても無駄だと悟ったのだろうか。

「潮時ですね」

 ぽつりと呟くと、リリスは視線を正面に戻した。

「安心してください。この子は返します。――その代わり、これをあげますね」

 リゼの浄化の光に飲まれながら、リリスは空中に真っ黒な円を描き出した。円は魔法陣を離れ、拡大し、大人の身長ほどの大きさになる。その今にも溢れ出しそうな闇は、円の中でごぼりと泡立った。

「――! 伏せろ!」

 アルベルトが叫んだ瞬間、地下洞窟に無音の衝撃が響き渡った。

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