神聖なる悪魔の苗床 23
右腕と胸部を斬り裂かれても、マリウスはまだ生きていた。
アルベルトが与えた二つの傷。それはどちらも決して浅くはないけれど、致命傷になるほどでもなかったようだ。最後の最後で、武芸に長けた者の勘が冴えわたったらしい。ただ、もう再生する心配はない。アルベルトが悪魔を斬り、マリウスを吹き飛ばした瞬間、リゼの悪魔祓いの術が、マリウスに憑く残りの悪魔を祓ったのだ。もう、悪魔の力は一片も残っていない。血の滴る傷口を押さえて、マリウスはただひいひいと呻いている。
「おいてめえ。こんなことしてくれたからには覚悟が出来てんだろうなあ?」
ゼノはいつになくキレた様子で、蹲るマリウスに凄んだ。シリルは今のところ命に別状はないが、気を失ったまま目を覚まさず、精神面にどんな影響が出ているか分からない。アルベルトが視た限り、浸食が進んだ悪魔憑きほど酷い状態ではないが、かといって安心は出来ない。そういう状況だから、悪魔召喚の実行犯の一人であるマリウスに、ゼノは怒り心頭なのだ。今にも殴りかかりそうなぐらいには。
「ゼノ。少しだけ待ってもらっていいか」
拳を握っていたゼノを押しとどめながら、アルベルトはマリウスの前に立った。マリウスは斬り裂かれた腕を押さえ、顔面蒼白で蹲っている。腱を斬ったから手では何もできないはずだ。
「――ブラザー・マリウス。どうしてこんなことをしたんですか。あなたは神のしもべたる悪魔祓い師でしょう」
『汝、神に適わぬ悪しき心を持つなかれ』。悪魔祓い師の『清廉』の誓願を破り、悪魔教徒の手引きをした。それだけにとどまらず、自ら悪魔憑きになった。何がマリウスにそうさせたのだろう。アルベルトの疑問に、マリウスは唇の端を歪めてあざ笑うようにして答えた。
「力への欲求だ。貴様になら分かるのではないか? 悪魔堕ちした悪魔祓い師よ」
マリウスの返答に、アルベルトは眉を寄せた。力への欲求……? 優れた武術の腕を持っているのに? 悪魔祓い師であるのに、悪魔の力を求めるのか? ただそれだけのために悪魔召喚を行ったというのか? 疑問が頭の中で渦巻いている。それを見通したかのように、マリウスは言った。
「おや、分からない振りをするつもりか? 貴様は魔女を助け、『服従』の誓願を破った。それは力が欲しかったからではないのか? 悪魔祓い師のものではない力が」
マリウスの言葉は、まるで蜘蛛の糸のようにねっとりとしていた。嫌味で気取った、不愉快な口調。この期に及んで挑発的な態度を取るのは、負けを認めたくないからだろう。マリウスは神学校の先輩であったのだが、思えばあの頃から負けず嫌いだった。『力への欲求』も、その負けず嫌い故なのか。
ただ、マリウスの言うことは一つだけ間違っていない。アルベルトが力を欲しがっているのは本当だ。例えそれがマラークの神のものでなくとも、悪魔を滅ぼせるものならば。
マリウスは嗤った。無言のままのアルベルトを見て、勝ち誇ったように。にやにやと、厭味ったらしく。
そして次の瞬間、その横っ面に容赦のない膝蹴りを叩き込まれた。
マリウスは首が曲がる勢いで吹き飛び、頭から床に突っ込んだ。情けなくひいひいと痛みに呻きながら、マリウスは顔面を押さえる。指の間からはばたばたと赤い液体が零れ落ち、地面に染みを作った。
「『力への欲求』? そのために誰かを生贄にして悪魔を喚び出す? ふざけないで」
リゼは蹲るマリウスを見てそう言い捨てた。その声は静かながらゼノ以上の怒気がこもっている。視線もそれだけで相手を凍らせられそうなほど冷ややかだ。
「悪魔の力なんて下らないもの、求めるのはクズだけよ」
「それを貴様が言うのか。悪魔に魂を売った魔女めが」
鼻を押さえたまま、くぐもった声でマリウスは言う。目つきだけは鋭かったが、その姿は酷く間抜けで情けない。冷たい目で反省の色のないマリウスを睨みつけたリゼは、容赦なくその胸倉を掴みあげた。
「だから言ってるのよ。そんなことも理解できないの? 脳みそまでまともに機能してないなんて、さすが無能者ね」
「む、無能だと? 私は――」
「強くなれないからって悪魔の力に手を出すような馬鹿が有能だとでも? 要するに、悪魔祓い師として三流だったってことでしょう。無能者に神様も天使様も力を与えてくれるわけがないわね」
リゼの冷たい罵倒に、マリウスはわなわなと震えた。やはり挑発には弱いようだ。怪我のため動かないが、そうでなければリゼに掴みかかっていただろう。仮に掴みかかったとしても、リゼが相手では何もできないだろうけど。
「無能……? 魔女ごときが私を侮辱するか。私は、私は――」
這いつくばったままぶつぶつ呟きながら、マリウスは憎しみに満ちた目で一点を見据えている。繰り言は恨みがこもり、呪詛めいていた。
「私は優れた人間だ……なのに邪魔を……穢れた異邦人どもが……滅びの輩が……悪魔のしもべ如きが人を救うだと……!」
不意に、マリウスの表情が変わった。何かが切り替わったように、憎しみのこもった表情から厭らしい笑みに面持ちを変える。うずくまった体勢のまま、不気味に光る眼がずずずっと動いた。
「唯一絶対の神に従わぬ者はすべからく滅びの使者となる。悪魔教徒も、ミガー人も、悪魔堕ちした悪魔祓い師も、そして魔女よ。貴様もだ」
マリウスは勝ち誇ったように笑いながら、爛々と光る眼でリゼを見る。先程まで情けない表情を浮かべていたのに、その変化の速さに驚かずにはいられなかった。まるで別の人格が現れたようだ。
「神に仇なす者が、救世主を気取って悪魔を滅ぼすのか。そんなことをしても宿命は消えぬぞ!」
そう言って、マリウスは狂ったように嗤う。いいや、本当に狂っているのかもしれない。あれだけの悪魔を取り憑かせて、何の影響もないということは有り得ない。理性も、正気も、全ての箍が外れたように、マリウスは嗤い続けている。
「話になりませんわね」
「全くだ。この期に及んで自分のことは棚上げか」
嗤うマリウスを見て、ティリーとキーネスは呆れたように言った。
「しかもミガー人(オレ達)まで滅びの使者扱いかよ」
苛立ちを滲ませながら、ゼノもそう呟く。この世にはマラーク教徒と悪魔教徒しかいないのか。悪魔堕ちしても悪魔教徒とミガー人の区別がつかないのか。そんなことを言いながらゼノはマリウスを睨む。だが、そんな彼以上に怒っているのはリゼだった。
剣呑な雰囲気を纏ったリゼは剣を抜くと、刺突の構えを取った。マリウスを斬り捨てる気だ。アルベルトは慌てて、突き出されそうになった右腕を掴んだ。
「放して! これ以上ふざけたこと言えないようこいつの頭斬り飛ばしてやる!」
「駄目だ! リゼ、落ち着くんだ」
「何よ。こいつを庇うの? 同じ悪魔祓い師だから同情でもしてるわけ!?」
リゼの蒼い瞳は怒りに煮えたぎり、炎よりも苛烈な意志が踊っている。今にも言葉通りマリウスの首をはねに行きそうだ。だがそれは困る。同情心なんてないが、こうして生きたまま捕らえられた以上、マリウスしか知らないであろうことを訊かなければならないのだ。すなわち悪魔教徒の目的――というより、意図を。口を割るかどうかは分からないが、マリウスなら悪魔教徒について何か知っているかもしれない。
「そうじゃない。この人にはまだ聞きたいことがある。この人を悪魔教に引き入れた奴がいるはずだ。そいつのことと、悪魔教徒について知っていることを洗いざらい話してもらう。悪魔教徒の企みを阻止するためには情報が必要だ。そうだろう」
リゼは同意も拒否もしなかった。ただ剣を下ろし、マリウスを睨みつけた。アルベルトが手を離しても、リゼは何もしない。しばらくして、彼女は溜息をついてから剣を納め――へらへらと嗤うマリウスの横っ面に、再び蹴りを叩き込んだ。
「……今度余計なこと言ったら即殺すわよ」
地面に突っ伏しているマリウスを見下ろして、リゼはそう吐き捨てた。小心者なら、それだけで縮み上がってしまいそうなほどの気迫だ。だがその気迫も、今のマリウスには通用しないようだった。
「無駄だ。誰も救われない。誰も導かれない。闇が満ちる。悪魔が満ちる。宿命は変えられん。皆地獄に堕ちる……」
地面に突っ伏したまま、マリウスはぶつぶつと呟いた。本格的に狂って来たのだろうか。リゼを止めたものの、これでは情報など望めないかもしれない。それほど、マリウスの魂はぼろぼろになっていた。自業自得とはいえ、哀れに思えるほど魂の損傷は酷い。こうなったらもうどうしようもなかった。
「――? これは……」
しばしマリウスを観察していたアルベルトは、不意に今まで気づかなかった奇妙なものがあることに気付いた。それはマリウスの腹部で、陽炎のようにぼんやりと揺らめいている。悪魔ではない。もっと小さい、注意深く視なければ簡単に見落としてしまいそうなものだ。それはアルベルトの視線に気づいたかのようにちらちらと瞬いた。
「みんな下がれ!」
嫌な予感がして、アルベルトはそう警告した。その次の瞬間、マリウスの表情がすうっと凍りつく。何かを感じたのか硬直するマリウスの腹部に、奇妙な紋章がぼこりと浮かび上がった。衣服の上からでも分かるほど紋章は禍々しく輝き、妖しく脈動する。そして、




