神聖なる悪魔の苗床 19
澄んだ音を立てて交わった剣と槍は、火花を散らして互いに互いを弾き返した。
一度距離を取ってから、アルベルトは間合いを詰め、剣を横に薙いだ。刃はマリウスの胴を狙い、一直線に突き進む。しかし剣の前に割り込んだ銀槍がそれを阻んだ。槍は銀色の軌跡を描いて剣を跳ね上げ、穂先はアルベルトを狙う。胴をかすめそうになったそれを避け、アルベルトは剣を振り下ろした。
マリウスは武芸に優れた悪魔祓い師だ。殊に槍術においては、同世代で敵う者はいないと言われている。アルベルトも神学校で剣術の才を高く評価されていたが、実践経験の量が違うのもあって力量はマリウスの方が上だ。立ち回り次第では戦局をひっくり返すことができるかもしれないが、術を使われたら、武器からして劣っているこちらの方が圧倒的に不利だ。
使われたら、だが。
(――おかしい)
マリウスと剣を交えながら、アルベルトは思った。
おかしい。先程からマリウスは悪魔祓い師の術を使わない。最初に使った閃光以外、使おうとするそぶりすらない。マリウスは何を考えている? 繰り出された突きを斬り払い、アルベルトは剣を振り下ろした。
「裏切り者アルベルト・スターレン。あなたは一体どんな力を手に入れたのですか?」
槍を振るいながら、マリウスは唐突にそう問いかけてきた。
「あの魔女は一体どういう力を持っているのです?」
振り上げた剣がローブをかすめ、小さな切れ目を作る。薙ぎ払われた銀槍が、剣を横に弾き飛ばす。
「彼女は魔女ではありません」
突き出された銀槍に捉えられる前に、後方に下がって距離を取る。姿勢を落し、剣を構える。そして間合いを詰めてきたマリウスに、力を込めて刺突を放った。
「……俺はなんの力も手に入れていない」
刺突は銀槍によって防がれ、甲高い金属音を立てる。双方、すぐに武器を引くと、今度は互いに斬撃を放つ。
「戯言を」
斬撃は防がれ、金属音が響き渡る。武器を合わせながら、マリウスは言う。
「魔女と共にいて、何の力も得ていないなど有り得ん」
アルベルトの話も聞かず、ただそう決めつける。リゼといるだけで力を得られるなら苦労しない。彼女の力の謎が分かればあるいは、という気持ちはあるけれど、必要な時以外、人に力を見せることを嫌がるリゼが相手では、そう簡単に分かるはずもない。
「――リゼの力は人を救うものです」
剣を振るいながら、アルベルトは言った。
「あなたの考えているようなものじゃない」
武器を弾き返し、二人は互いに距離を取る。マリウスは槍を構え直し、あざ笑うかのように言った。
「救い? 愚かな。魔女はいずれ破滅を呼ぶ。魔女自らの手で。あるいは」
マリウスの視線が、すっと魔法陣の中心へ向いた。
「破滅をもたらすための贄となることで」
それにつられて、アルベルトも魔法陣の中心へと視線を移した。
そこでは、ティリー達が魔物と交戦していた。魔法陣から湧き出でる魔物達を、三人で次々と仕留めていく。リゼをシリルの元へたどりつかせるための露払い。その向こう側で逆巻く黒い渦の中に、シリルとリゼはいる。
そして今、渦巻く靄の中で、リゼはシリルに腕を捕えられ、湖の中へ引きずりこまれていくところだった。
「リゼ! シリル!」
湖の中に消えた二人の名を呼びながら、アルベルトは魔法陣の中央へ走った。その前に魔物が立ちふさがるが、構ってなどいられない。牙を剥き出しにして襲い掛かってきたそいつを一刀の元に斬り捨てて、アルベルトは陣の中心へひた走った。
しかし走るアルベルトを阻むように、行く手にくすんだ銀色の光が降り堕ちてきた。特別な力があるわけでもない、ただの銀の槍だが、避けるためには足を止めなければならない。その隙を狙って、マリウスがアルベルトの正面に回り込んだ。
「魔法陣の中心には行かせん。生贄は二人いれば十分だ」
マリウスが口にしたその台詞に、アルベルトは耳を疑った。今、何と言った? 魔法陣の中心に行かせたくない理由は、魔女達が悪魔召喚をするつもりだと思い込んでいるからではなく――
「ブラザー・マリウス! やはりあなたは……!」
おかしいと思っていた。悪魔祓い師が纏う純白の輝き。マリウスからはそれがほとんど感じられない。先程から槍術ばかりで術を使わないのはそのせいか。マリウスは術を使わないのではなく、使えないのだ。
そして、悪魔祓い師が力を失う原因はただ一つ。
誓願を破った時だ。
「力が強大であればあるほど代償も大きい。これだけの数の悪魔教徒を贄にしても足りなかった。それに比べ、あの少女と魔女は良い贄のようだ」
力を増した魔法陣を見、口調まで変えて、マリウスは尊大に嗤う。より強い悪魔を喚ぶ準備が整ったことを喜んでいる。悪魔を滅する悪魔祓い師ではなく、悪魔を尊ぶ悪魔教徒のように。
いいや、『ように』ではなく、実際に『そう』なのだろう。
「……悪魔堕ちしたのか」
教会で会った時に覚えた違和感の正体はこれだったのだ。布一枚の目隠しは視界を遮るが、不可視のものを視通す妨げにはならない。だから分かった。マリウスの悪魔祓い師の力が、以前会った時よりも格段に衰えていることが。
そして、今のマリウスに悪魔祓い師の力は欠片もない。悪魔堕ちした悪魔祓い師から、天使の加護は失われていくのだ。
「何故そんなことを……」
思わず呟くと、マリウスは冷笑を浮かべてアルベルトを見た。その眼は驕っているようにも、出来の悪い生徒を憐れんでいるようにも見える。
「貴様と同じ理由だ。アルベルト・スターレン」
「俺と……?」
同じ理由? どういう意味だ? マリウスの答えにアルベルトの意識が思考へと逸れる。同じ。マリウスは何を以って同じだと主張しているのだ。剣を握りしめ、アルベルトはじっとマリウスを見る。しばしの間、奇妙な沈黙が流れた。
しかしその時、沈黙追遮るように火球が一つ、凄まじい勢いで飛んできた。飛来してきた炎の塊はマリウスに襲いかかり、弾ける。しかしマリウスは後方に飛んで、それを易々と避けた。
「お話し中申し訳ないですけど、時間がないのでさっさと倒させてもらいますわ。ね、アルベルト」
「悪魔祓い師だと思ってたら悪魔教徒なのかよ。偉そうなこと言ってたくせに!」
ティリーは再び魔術を唱え始め、ゼノはマリウスに剣を向ける。その隣にキーネスが並んだ。
「悪魔祓い師が神聖都市の地下で堂々と悪魔召喚か。教会の権威も地に落ちたものだな」
キーネスの皮肉のこもった口調に、マリウスは不愉快そうな表情になった。キーネスの言に機嫌を損ねたのではない。むしろ同意しているようだった。
「そうだ。怠惰なスミルナ教会の奴らなぞ、己の無能を棚に上げて居丈高に振る舞っているだけ。悪魔教徒が忍び入ったことにも気づかぬ愚か者どもよ!」
その時、空気を震わせる鼓動が響いて、魔法陣が蠢いた。地底湖から黒い靄が立ち上り、洞窟全体がごうごうと音を立てる。悪魔召喚の儀式自体は中断されたが、地底湖内に溜め込まれた悪魔は外に出ようと脈動していた。
「下がれ!」
足元の肉の筋が動いたのを感じて、アルベルト達は岸へと向かった。入り口の前に、狭い岸辺がある。全員でそこまで撤退すると、マリウスがあざ笑うように言った。
「逃げても無駄だ。“門”はすでに十分に開いている。魔女と小娘だけでなくお前達も生贄になってもらおう」
その言葉通り、魔法陣からは際限なく悪魔が噴き出している。儀式は中断されたが、半端に開いた“地獄の門”の内側から悪魔達が溢れ出て、無理矢理“門”を開こうとしているのだ。マリークレージュの時よりは緩慢だが、生み出された悪魔は岩を突き抜け、外へと向かっている。このままではスミルナ市民達が悪魔の脅威にさらされてしまう。
「これ、地上も相当ヤバいことになってますわね……」
「だろうな。だが、人の心配をしている余裕はなさそうだ」
渦巻く黒い靄を見て、キーネスはそう呟いた。これだけの数の悪魔がすぐ近くにいるのだ。“憑依体質”でなくとも無事でいられる保証はない。このままでは危険だ。一刻も早く召喚を止め、リゼとシリルを救い出さなければ――
するとその時、地底湖の中から閃光が迸った。プリズムを帯びた陽光のような光。それは中心からやや外れた位置から立ち上り、魔法陣と地底湖の暗闇を斬り裂いていく。光に触れた魔物と悪魔は、断末魔の叫びを上げながら蒸発した。
やがて閃光が消え失せた瞬間、破られた魔法陣から何かが勢いよく飛び出した。シャボン玉のようなそれは子供の背丈ほどの大きさで、表面には風がぐるぐると渦巻いている。球体は人の背丈の倍ほどの高さまで浮かび上がり、勢いを失ってゆっくりと浮遊した。
「シリル!」
球体に包まれている人物を見て、ゼノがそう叫んだ。淡く光る球体の中で、胎児のように身体を丸めたシリルが横たわっている。ゼノが球体の真下に駆け寄ると、それはシャボン玉のように弾け、シリルの身体は自由落下した。
魔法陣の上に投げ出される前に、ゼノはシリルを受け止めた。シリルは気を失っているのか、ぐったりとしたまま動かない。しかし悪魔召喚の呪文を唱えることも、衝撃波を操ることもない。シリルに纏わりついていた黒い靄はすっかりなくなっていた。シリルに悪魔は憑いていない。リゼだ。湖の中に引きずり込まれていたというのに、リゼは悪魔祓いの術でシリルの悪魔を祓い、そのうえ湖の外へ逃がしたのだ。
「リゼ!」
アルベルトはそう叫ぶと、地底湖の中に空いた黒い闇を凝視した。リゼはシリルを助けた。だが、リゼ自身はいまだ湖の中。外に出てくる様子はない。シリルを逃がして力を使い果たしたのか、それとも悪魔に捕まっているのだろうか――
「魔女め! 小娘を外に出すなど余計なことを!」
その時、マリウスの怒号が地底湖に響いた。奴にとって予想外の事態だったのか、先程までの余裕な態度はどこへやら、怒りに顔を歪ませている。“地獄の門”から悪魔が湧き出す勢いは少しばかり落ちているものの、十分に激しい。だが、マリウスにしてみるとあれでは満足が行かないらしい。もはやこの地底湖は、人間がいていい空間ではなくなりつつあるのに。
「――ゼノ」
アルベルトは聖印を取り出すと、ゼノに投げてよこした。聖印は鈍い光を放ちながら弧を描いて、ゼノの手の中に納まる。
「これって……」
「それでシリルを守れるはずだ」
この悪魔だらけの空間で、きちんと悪魔除けとして作用するかは正直自信がない。術を掛け直したからしばらくは持つと信じたいが、上手くいかないかもしれない。だが、他にシリルの身を守る手段はない。
シリルだけでなく、ティリー達の身を守るためにも。
「皆も、出来るだけ聖印の近くに」
悪魔祓い師であるアルベルトはともかく、ティリー達には悪魔から身を守る手段がない。心を強く持てばある程度までは大丈夫なものの、この悪魔の群れの中ではそれだけでは足りないだろう。彼女らまで悪魔に取り憑かれたら大変なことになってしまう。
この分だと、悪魔に蝕まれるよりも悪魔召喚の贄になりかねないことを心配した方がよさそうだが。
「貴様の力など如何ほどのものか! 悪魔堕ちした身で悪魔祓い師の力を使うなど滑稽なことよ!」
聖印の護りを展開したアルベルトを、マリウスは声高く嘲笑する。その声音には、生贄を取り逃がした苛立ちも含まれているように思えた。
「何が滑稽だよ! おまえだって悪魔祓い師の力を使ってたくせに! ひょっとして負け惜しみか? もう雷落とすぐらいしか出来ないんじゃないか? おまえにはないものをアルベルトが持っているのが羨ましいんだろ!」
バーカ!と子供のように叫んだのはゼノだった。図星だったのかどうか、マリウスの表情が再び怒りに歪む。
「大体、あんなところに何もしないでいるなんて、正気とは思えませんわね。無能者のくせに余裕ぶっこいている場合なのかしら? 自滅してくれるならありがたいですけど!」
さらにティリーは厭味ったらしく言って、マリウスを睨む。完全ではないとはいえ魔法陣が起動しているのに、マリウスは何もしていない。身を守る魔法陣の中にいるわけでも、アルベルトのように結界を張っているわけでもない。悪魔が犇めく魔法陣の中心近くで、堂々と立っている。あれではどんな人間でも、身を護る術を持たない者は遅かれ早かれ悪魔に取り憑かれる。そうでなくとも、シリルが悪魔の憑依から解放された今、悪魔召喚の執行者は一応マリウスであるはずだ。悪魔召喚の術者が無事でいられるとは思えない。マリークレージュで悪魔召喚の再現を試みたメリッサも、術者を守る陣の中にいたにも関わらず悪魔に喰われてしまったのに。しかし、
「贄になどなるものか。私はこれから、力を手にするだ」
どこか恍惚とした表情で語られたその台詞に、アルベルトは凍りついた。
「まさか悪魔憑きになるつもりか!?」
アルベルトの詰問に、マリウスは口角を吊り上げた。どうやら愚かしいことに本気らしい。そんなこと、下手すると悪魔に肉体を喰われるよりもたちが悪い。悪魔祓い師である彼ならよく知っているはずなのに。悪魔憑きが味わうという、魂を蝕まれる苦しみを。
それはまさしく“地獄の苦しみ”だという。魂とは形のないものだが、蝕まれるのには苦痛が伴う。それを、ある者は生きたまま無数の小さな蟲に喰われる感覚だと言い、ある者は巨大な手に胴をねじられるような感覚だと言い、ある者は逆に引き伸ばされ引きちぎられるような感覚だと言う。ある者は冷えた鉄を押し当てられるような感覚だと言い、ある者は焼けた鉄を押しつけられるような感覚だと言う。それに、病み衰え、変容していく肉体の痛みも加算される。狂い、時間の感覚すら失せた永遠にも等しい時の中で、想像を絶する苦痛を味わう。それが悪魔憑きの最期。進行が遅いか速いかだけで、そこに例外など存在しない。
いかに悪魔教徒といえど、この苦しみから逃れることは出来ないはずだ。脱獄してすぐのところで遭遇した悪魔教徒の少年は、悪魔に蝕まれて苦しんでいたのだから。
「……悪魔憑きになることで力を得られるのは確かですわ。内海で戦った悪魔教徒は、あれだけ強力な嵐を生み出しながら黒い雷の術を操っていた。どれほど強い魔術師でも、強力な魔術を複数同時に使うことは出来ません。たとえ魔力量上は可能でも、精神が負荷に耐えきれない。でも、悪魔憑きになればそれが出来るほどの力が手に入るみたいですわね」
だからマリウスも悪魔憑きになることで力を得ようと考えた。己の限界以上の力を手に入れるため。悪魔教徒とはいえ多くの命を犠牲にして、スミルナを危険にさらしてまで。
「あの魔女が邪魔してくれたおかげで、この程度の悪魔しか喚び出せん。こやつらは私にふさわしくない。もっと生贄がいる。お前達も、スミルナの人間も、全て悪魔に捧げなければな」
瞳に狂気を浮かべながらマリウスは喚く。それを見て、キーネスは「狂ってるな」と至極もっともな感想を述べた。そう、狂ってる。“この程度の悪魔”だって? 今湧き出でているこの悪魔達は、マリークレージュの時とは比べ物にならないほど強い。生贄の人数が、贄の持つ力の強さが、あの時とは格段に違うからだろう。それでもマリウスは満足していない。これでもしスミルナ全土が生贄になったとしたら、一体どれほどの悪魔が喚び出されるのだろう? 考えたくもない。そして、仮にも悪魔祓い師が、それも親しくなかったとはいえ知人と言える程度に身近な人間がこんなことをしていることにアルベルトは衝撃を受けるとともに、
「――させるものか」
それとは別に、心の底から湧き上がってくるものを感じた。どうしようもなく苛立った。これはおそらく、救いをもたらす側の人間が、破滅をもたらしていることへの、怒りだ。




