神聖なる悪魔の苗床 13
アルヴィア第二の神聖都市スミルナ。
神に祝福されし七つの神聖都市は、強力な天使の加護に護られているという。聖なる力に満ち満ちた都市に悪魔は寄り付けず、魔物に怯える必要もない。神聖都市は悪魔が蔓延る今生において、比類なき安息の地なのである。
だがそれは、如何なる時も神への祈りを欠かさなければの話だ。少しでも信仰が揺らげば悪魔に魅入られ、取り憑かれる。憑かれてもすぐに自らの怠慢を悔い改め、より一層神へ祈りを捧げるなら祓魔の秘蹟を授けられるが、祈りが足らぬ者は門の外へ追い出される。神聖都市は清浄でなければならず、不浄な者は容赦なく排斥されるのだ。
とすれば、今のこの状況はどうなのだろう。年明けに重要な祭典を行うというならば、都市はより一層の清浄さを求められるはずだ。一点の曇りもない、完璧な清浄さが。
だが、
街の中心に鎮座する白亜の教会。整然と整備された美しい街並み。神の威光が降り注ぐ神聖都市は、眩しいほどの光に満ちている。少なくともラオディキアはそうだった。建築物は白一色で、目が痛いほどだった。だが今のスミルナの白は、どれもくすんでしまっている。街の中を漂う、黒い靄のせいで。
「悪魔だらけね」
都市外よりは少なくとも、街中に悪魔の気配が漂っている今のスミルナは、完璧な清浄さからは程遠い。
「結構進んだ気がするけど、いつになったら着くのかしら?」
風魔術の結界の強度を微調整しながら、リゼはそう言ってため息をついた。
スミルナ地下洞窟は狭くはないが、下水道として利用されているだけあって汚水の不快臭に満ちていた。水につかっていない場所があるため移動には困らないが、ところどころぬるぬるしていて気を付けなければ滑る。不快臭はリゼの風の魔術で遮断しているが、地面のぬめりはどうしようもなく、汚水に濡れないよう注意しながらゆっくり進むしかなかった。
ロドニー出入国審査官の専用馬車でスミルナに侵入したのは、今朝のことだ。門衛に金を握らせているのか検査もなしにあっさり町に入ることができ、教会と門の中間あたりにあるロドニー所有の倉庫前で馬車を下ろされた。さすがに教会近くの邸宅まで乗せていってはくれないらしい。その後、倉庫街のあまり使われていない下水管から地下洞窟へ侵入。コンパスを頼りに街の中心部を目指して洞窟を進んでいる。地下洞窟は枝道が多く、しかも水量が多くて通れない場所があるため、奥へ進むのは容易ではなかった。
「今日は下見だ。ある程度調査したら一度戻る。まだこの洞窟に本当に悪魔教徒が潜伏しているか定かじゃないからな」
手にした羊皮紙に目を落としたまま、キーネスが言った。彼とゴールトンが急いで調べてくれたおかげで、悪魔教徒がスミルナにいることはほぼ確定している。シリルらしき背格好の子供が、スミルナの方へ行ったということも。だが、スミルナのどこにいるのかはまだ分かっていない。少なくとも市街地には怪しい者がいるという情報はないらしい。そこで悪魔教徒がいる可能性のある地下洞窟を一度調べてみようということになったのだが、
「どうかしらね」
洞窟の奥の闇を見つめながら、リゼは意識を集中する。感覚を研ぎ澄まし、闇の中を探る。……いや、そんなことをするまでもなかったか。進む先から漂ってくるのは、冷たく絡みつくような気配。
「悪魔の気配だわ」
神聖都市は唯一絶対の神の加護によって強固に護られている。街の中にいれば、悪魔の気配を感じることはまず有り得ないはずだ。だが現在のスミルナは加護の結界に穴が開いているわけでもないのに悪魔だらけになっている。誰かが結界内に悪魔を持ち込んだか、内側で悪魔を喚びだしているとしか考えられず、そんなことが出来るのは悪魔教徒しかいない。そして、悪魔と悪魔教徒が好みそうな潜伏場所というとこの地下洞窟だけであり、
洞窟の奥――街の中心に当たる方角――から、微かに冷たく纏わり付くような悪魔の気配が漂って来ていた。
「教会も職務怠慢が過ぎますわね。この方向は教会のほぼ真下じゃありませんの」
同じく気配を感じたらしいティリーが呆れたように言った。悪魔教徒が悪魔召喚を行うなら、召喚魔法陣はスミルナの中心――すなわち教会のあるあたりにあるはずと予想していたが、この分では大当たりだ。
「全く、足元にいるのに教会は気付かないのかしら?」
別にアルベルト並みに悪魔の存在を認識できる必要はない。都市内に悪魔が入り込んでいる状況とはいえ、教会には相当数の悪魔祓い師がそろっているはずなのだから、誰か一人は足元の悪魔に気付くはずだ。なのに、
「教会が何かしら動いているという話は聞いていないな。祭典の準備と、ここ数日で急増した悪魔憑きの対処で追われているだけだ」
キーネスはそう言って、羊皮紙から目を離す。どうやら教会は全く敵の存在に気付いていないようだ。
「もっとも、だからと言ってここを調べていないという確証があるわけじゃない。最悪、洞窟を調べに来た教会の連中と鉢合わせする可能性もあるわけだ」
羊皮紙をペンで弾きながらキーネスは言った。確かに、一人や二人は仕事熱心な悪魔祓い師がいて、地下下水道を調べようと言い出しているかもしれない。ただ、そうなったら面倒だ。彼らと鉢合わせようものなら、騒動の一つや二つでは済まない。シリル救出も、アルベルトとゼノの救出も出来なくなる。そうならないことを願いたいものだ。――教会が本業を果たさないことを望むというのも、妙な話だが。
「しかしこの洞窟は枝道だらけだな。この分だと、悪魔教徒を見つけ出すのは骨だぞ」
羊皮紙を見ながらキーネスはそう呟いた。地下洞窟に入ってから、キーネスはずっと地図を描いている。一応調査を目的としてきたからか、律儀に地図を作っているらしい。だが、
「よく考えたら、奥へ行くのに地図なんていらないわ。悪魔の気配を追っていけばいいんだから」
そう言うと、リゼは気配を追って洞窟の奥へ歩を進めた。キーネスは悪魔教徒の居場所を捜さければならいと言っているが、捜すこと自体はきっと難しくない。悪魔の気配を追っていけばいいのだ。気配が最も濃い場所に、悪魔教徒はいる。
「おい待て。勝手に進むな」
背後からキーネスが苦言を呈したが、リゼは気にせず歩き続ける。その後ろで、ティリーはふっと笑った。
「どうせ市長は下見だけで終わるなんて欠片も思ってませんわよ。でなければリゼの同行を賛成したりしませんわ」
きっと全部解決して帰ってくるだろうと思って、リゼを止めなかったんですわ。ティリーがそう言うと、
「……行きはよくても帰り道が分からなくなるだろうが」
溜息をつきながら、キーネスは岩壁に白墨で印をつけた。通ってきた道には、同様に印がついている。キーネスは呆れたようにリゼとティリーを見ながらも、また黙々と地図作りを再開した。
「それにしてもアルベルトとゼノは無事なのかしら。悪魔堕ちした悪魔祓い師に異教徒でしょう? きっとロクな扱いを受けてませんわ」
突然、ティリーは心配そうにそう言った。何を今さら分かり切ったことを。リゼはそう思いながらちらりとティリーを見る。彼女は頬に手を当てて思い悩んだ表情をしていて――かなり芝居がかっている。
「そうね」
心配しているのは本当だろうが、ティリーの場合大袈裟に言っているだけなので適当に相槌を打っておく。すると、ティリーは気をよくしたのかよどみなく話を続けた。
「スミルナに流れ着いたということは、かなり長い間内海で漂流していたということでしょう? その上牢屋暮らしなんて、きっと衰弱していますわね」
「そうね」
「速く救出しないといけませんわね。せめてこの洞窟から地下牢に行けたらいいんですけど」
「そうね」
そこで、ティリーは口を閉じた。何を思ったのかリゼの顔を覗き込もうとするかのように首を傾げ、じいっとこちらを見つめている。何をしたいのかと眉をひそめていると、ティリーは不意に尋ねてきた。
「リゼ。貴女、アルベルトとゼノのことを心配していませんの?」
なんでそれを訊くんだ、とリゼは思った。心配していようとしていまいと、ティリーには関係ないだろう。だが、黙ったままだとそれはそれでうるさいので、仕方なく答える。
「それなりにはしてるけど、とりあえず生きていることも居場所も分かっているんだから、無事かも居場所もはっきりしていないシリルの方が気になるわね。悪魔教徒の目的も」
「それなり、ねえ……」
ティリーはそう呟いて身を引いた。
「悪魔堕ちした悪魔祓い師は火刑に処せられるんでしたわね。異教徒も」
「……」
「シリルのことも大事ですけど、あの二人もいつ処刑されてしまうかわかりませんわね」
「…………」
「速く助けに行った方がいいと思いません? 居場所ははっきりしているんですから、シリルを捜す前にさくっと終わらせればいいんですわ」
「…………一理あるわね」
確かにそれは間違っていない。ただし、教会にばれず地下牢に入る方法を確保できたらの話だが。
「教会にばれた時に身動きが取り辛くなるから、ゼノとスターレンの救出はクロウを見つけた後にしようと決めたはずだが?」
後方から、キーネスの鋭い指摘が飛ぶ。勝手に予定を変えられてはかなわないと言いたげな口調だ。だがティリーは「言ってみただけですわ」とさらりと答えた。元から予定を変える気はなかったようだ。渋面を作ったキーネスから視線をそらし、ティリーはリゼの方に向き直る。
「そういえば、アルベルトはなんで貴女について行ってるんですの? アルヴィアにいる間は教会から逃げるためでしたけど、ミガーに行ってからわざわざ一緒にいる必要ありませんでしょ?」
ティリーは興味津々にそう問うた。それにリゼは溜息をついて、答える。
「わざわざ一緒にいるんじゃないわ。アルベルトが私が悪魔を滅ぼすのを手伝うとか言って、勝手について来てるだけ」
「……はい?」
「全ての悪魔を滅ぼした時に、私が魔女じゃないと証明するための証人になる、とも言っていたわね」
「……はあ、そういうことなんですのね……」
納得したような、呆れたような、そんな微妙な声音でティリーは呟く。想定外だった――というより、予想そのまますぎて面白みがないとでも言いたげな様子だ。面白みを求められても困るのだが。
「まあいいですわ。それで、貴女はアルベルトのことをどう思ってるんですの?」
「……はあ?」
突拍子もないことを言われて、リゼは眉を吊り上げた。いきなり何を訊くのだ。さっきから変な質問が多すぎる。リゼは呆れた目でティリーを見たが、その程度のことで彼女が堪えるはずもなく、
「ですから、悪魔を滅ぼすのを手伝うなんて言われて、貴女はどういうつもりで彼と一緒にいるんですの?」
「だから好きで一緒にいるんじゃないわよ。向こうが勝手についてくるって言ったでしょう」
「じゃあなんで勝手にさせてるんです? 貴女のことですから、悪魔祓い師なんて嫌いで信用してないんじゃないかと思っていたんですけど」
悪魔祓い師が嫌いで信用してないのはどっちだ。そう思ったが、言い返すと面倒なのでやめておく。
「悪魔祓い師は嫌いだし信用してないわよ。今でもね」
そう言って、リゼは視線を前に戻す。気配を感じ取れるくらいで、何も見えない闇の中を見据え、淡々と言葉を紡ぐ。
「ただアルベルト個人は好きでも嫌いでもないだけ。危険な目に合っているなら心配ぐらいはするわよ。でも、アルベルトもゼノも子供じゃないんだから、自分の面倒ぐらい見れるでしょう。しばらくの間ぐらいは」
教会に捕まっていることは確かに危機的状況と言える。拷問されるか処刑されるか。どちらにせよロクなことにならない。だが、アルベルトとゼノなら黙って捕まっているということはないだろう。どうにか脱出しようとするはずだ。
「――ま、あのお人好しが馬鹿正直に教会に突っかかってないかはかなり心配だけど」
今のスミルナは悪魔だらけだ。アルベルトのことだから、教会に悪魔教徒のことや悪魔憑きへの対処を進めるよう進言していることだろう。そのせいで余計なもめごとを起こしていないだろうか。そのせいで、酷い扱いを受ける羽目になっていないだろうか。余計なことをしていなければいいのだが。
そんなことを考えるリゼを見て、ティリーは目を細める。その動作に、リゼは眉を寄せた。
「だから何が言いたいのよ」
尖った声で詰問したが、ティリーはにやにや笑いを崩さない。灰色の瞳をきらきらさせて、じっとリゼに視線を注いでいる。
「いやあ面白いなと思いまして」
「……何が面白いのよ」
「色々と。これは今後の経過を観察する必要がありそうですわね」
「何の話よ」
「こっちの話ですわ」
ティリーはしれっとそう言って、こちらの質問に答えようとしない。全く、ティリーの考えることはよく分からない。
「じゃれ合っている場合か」
すると、黙々と目印付けを進めていたキーネスが手の紙に目を落としたまま言った。地図作成は順調に進んでいるらしく、羊皮紙には簡素ながら見事な地図が出来ている。キーネスは線を一本引き終えると、顔を上げて渋面を作った。
「余計なお喋りをしている暇があったら悪魔教徒がいないかよく探せ」
「してますわよ。この一本道じゃ隠れようがありませんけどね」
今進んでいるこの場所はそこそこの広さはあるが、まっすぐな一本道でどうやっても隠れようがない。探せと言われても、カンテラで照らされた範囲内に悪魔教徒も魔物もいないのだ。単調な道のりを無言で歩むことはリゼにとってはなんてことないが、ティリーはそうでもないらしい。
「にしても、また地下ですのね。最近暗くて狭いところばかりで気が滅入りますわー」
軽く背のびをしながら、ティリーは飽き飽きとしたように言った。少し前はミガーの砂漠を砂馬車で爆走していたのだから、必ずしも暗くて狭いところばかりにいたわけではないのだが、たびたび地下に潜っているのは事実だ。
「悪魔教は地下組織だ。文字通りの場所で活動しているんだろう。もっとも、本拠地は地下ではなく地上にある。そっちならいいのか?」
キーネスが皮肉げに言うと、ティリーは「まさか」と否定した。
「遠慮しますわ。ヘレル・ヴェン・サハルも暗いことに変わりはありませんもの。あそこは半分地獄だという話ですから」
背徳の島ヘレル・ヴェン・サハル。悪魔教徒達の本拠地であり、この世の全ての悪魔が喚び出される場所。
「――本物の地獄に比べたら、ただの洞窟なんて天国みたいなものよ」
ティリーにも聞こえない小さな声で、リゼはそう呟いた。




