神聖なる悪魔の苗床 11
血で汚れた顔と服を少しだけ洗って、アルベルトは少年の遺体から遠く離れた場所に腰を下ろした。魔物も悪魔もいなくなった洞窟内はとても静かで、水の流れる音だけが響いている。しばらくの間は何かが来る様子はなさそうだ。じっと座って身体を休めていると、所在無げに立ち尽くしていたゼノが、そろそろと腰を下ろした。
「……俺一人じゃ、悪魔祓いは出来ないんだ」
かろうじてゼノに聞こえる程の声量で力なく呟き、アルベルトは肩を落とした。声が擦れているのは、喉の痛みのせいだけではないだろう。アルベルトの告白に、隣にいたゼノは驚いたように表情に変わった。
「……へ?」
「悪魔祓いは高度な術だ。悪魔祓い師でも、俺のような新米で力のない者は一人で成し遂げることが出来ない。複数人で祈りを唱えなくてはならないし、聖印や聖水も必要だ。俺一人で、聖具もそろえず悪魔祓いを成功させることは不可能なんだ」
そのことを苦々しく思いながら言い終えると、ゼノはぽかんとした顔でアルベルトを見た。思いがけない答えだったのか、あまりに馬鹿馬鹿しい答えだったのか。反応に窮しているようである。しばらくなにか考え込んでから、ゼノはようやく口を開いた。
「……ってことは、リゼは?」
「彼女は悪魔祓い師じゃない。それとは違う、もっと強力な力を持っている。高位の悪魔祓い師でも、あれほど短時間で悪魔を祓うことはできない」
故に彼女は“救世主”なのだ。絶対的な浄化の力で悪魔を滅ぼす救い主。全ての人を分けへだてなく癒す慈愛の人。まさしく聖典に記された神の子のように。
それが神の力でない以上、教会は決して認めないだろうけれど。
「――それでおまえは貧民街で悪魔祓いをしなかったんだな」
「ああ……俺は結局何も――」
何も出来なかった。それが悔しくて情けなくて、腹立たしくて仕方ない。少年一人救えないなんて、いったい何のために悪魔祓い師になったのだろう。ラオディキアにいた頃は、たくさんの同僚、高位の悪魔祓い師達と共に、何人もの悪魔憑きを癒してきた。窶れ、苦しそうだった悪魔憑き達が、祓魔の儀式の後は晴れやかな表情で帰っていく様子を幾度も見た。嬉しかった。悪魔に苦しむ人を救えたことが嬉しかった。初めて悪魔祓いを務めた時、この力があれば全ての人を救えるはずだと、父や母のように悪魔に苦しんで死ぬ人をなくすことが出来るはずだと喜び勇んだ。ほんの一年ほど前の話だ。悪魔祓い師になったばかりの、何もわかっていなかったあの頃の。
両親を亡くした時からの夢も、初めて悪魔祓いを成し遂げた時に抱いた理想も、何一つ叶っていない。自分がどうしようもなく無力なばかりに。拳を握り、押し黙ったアルベルトを、ゼノは戸惑いの表情を浮かべて見つめていた。
「……助けたかったのに助けられなかったことって、よくあるよなあ」
不意に、ゼノがそう言った。
「退治屋稼業をやっているとさ。助けられたはずなのに助けられなかったってことがよくあるんだ。間に合わなかったり、取り逃がしたり、手が回らなかったり。最初のうちは毎回どん底まで落ち込んで、自分を責めたこともあった。退治屋なんて、辞めちまおうと思ったこともあった。でもな。それじゃどうしようもないんだよ。何にも変わりゃしねえ。出来なかったことはしょうがない。次はどうするかだって考えることにした」
ゼノはわしゃわしゃと頭を掻くと、話を続けた。
「強くなるのは勿論だけど、それじゃ限界があるんだよな。どうしても、出来ないことってある。例えばオレは腕力は自信あるけど、素早い魔物にはついてけない。だからそういうのはキーネスに任せてる。あいつはパワーはないけど足が速いからな。オリヴィアは魔術師で、一度にたくさん魔物を倒せるけど、魔術を使うためには集中しなきゃいけなくて、どうしても隙が出来る。だからオレ達はそのフォローをする。そんな感じで、オレ達三人は出来ないことを互いに補いながら仕事してる」
そこでゼノは一呼吸置くと、
「だからその……出来ないことがあるのなら、出来る奴にやってもらえばいいんだよ。その代わり、自分は出来る奴が出来ないことをする。助け合えば、出来ないことはなくなっていく。一人で全部出来るようになる必要はない。とオレは思う」
一息に言って、アルベルトの方を見た。かと思えば遠くを見て、そのまま黙りこんでしまう。どうやら次に言うことを考えているらしい。だが結局言うことを思いつかなかったのか、
「あーだからその……あんまり落ち込むなよってことが言いたかった」
頭を掻きながらそう言った。
そんなゼノの姿を見て、アルベルトはふうと息をついた。
「すまない。気を使わせてしまって……」
「いいってそんなこと! オレはお前が悪魔祓い師なこと気にしてないんだから、お前もオレのことは気にしなくていいんだよ!」
……それとこれと関係があるのか分からないが、気に病むなと言いたいのだろう。確かに、今はこんなことで落ち込んでいる場合ではない。気持ちを切り替えなければ。
「少し休んだら出発しよう。これで悪魔教徒がいることは分かったんだから、シリルもここにいるかもしれない」
「そうだといいんだけどな……」
ゼノはそう呟いて、何か考え込むように宙を見た。しばらくの間そうして、何か決めたように頷く。ゼノは不意に立ち上がると、アルベルトの方を向いた。
「……なあ、アルベルト。おまえさ。貧民街でオレのこと友人だって言ったよな?」
「あれは、すまない。勝手にあんなことを言ってしまって……」
「あああ! そういうことじゃねえって! 別に怒ったりしてねえよ! そうじゃなくて」
言うなりゼノはぐいっと右手を差し出した。突然のことで、意図が分からず目の前の右手をまじまじと見る。するとゼノは催促するように手を近づけてくると、
「『友人』じゃなくて『親友』にならねえかってことを言いたいんだよ」
にやっと笑って、朗らかにそう言った。
驚いた、なんてものではなかった。ただ言葉を失って、ゼノの顔と差し出された右手を交互に見た。
「……いいのか?」
「もちろん! おまえは悪魔祓い師だけど、他の、ウィルツみたいな悪魔祓い師とは違うだろ。オレはおまえと親友になりたいんだ」
“親友になりたい”だなんて、言われるのは生まれて初めてだ。生まれ育った故郷では幼馴染が何人かいたが、悪魔が視えるアルベルトをみな気味悪がって避けていて、気兼ねなく遊んだのは幼児の時のほんの数年間だけ。両親の死後、神学校に来てからは、周りは交流よりも遊びよりも、一人勉学に打ち込む者ばかりで、親友と呼べるほど親しくなった者はいない。だから戸惑ってしまう。
戸惑ってしまう、が、
「……ああ。よろしく、ゼノ」
差し出された右手を握り返して、アルベルトはそう言った。ゼノは嬉しそうににかっと笑い、握った手をぶんぶんと振って大げさな握手をする。それから、「これからもよろしくな!」と楽しそうに言った。
突然で単純なゼノらしい誘い方。それにとても戸惑った。
だが当然、嬉しかった。
「というわけで、オレと親友になるからにはキーネスとも仲良くしてやってくれよ。ここだけの話、あいつオレ以外にろくに友達いねーんだ。友達作り下手なかわいそうな奴だから優しくしてやってくれ」
腰に手を当てて、弟を心配する兄のような口調でそう言う。キーネス本人が聞いたら、眉間に皺を寄せて苦言を呈するだろう。そうと分かっていても、ゼノは親友をからかうのだろうけど。
「そうだな。キーネスとも仲良くできたらいいな」
「そうそう。あいつ、口は悪いけどいい奴だからな。人見知りなだけで」
人見知りというか、人付き合いの良い方ではないのだろう。賑やかなゼノとは対照的だ。リゼは刺々しいところがあるが、キーネスはどちらかと言うと淡々としているので、下手に馴れ馴れしくしなければ話しにくくはないのだが。
「よし。そうと決まれば速く行こうぜ。シリルを助けてここを出たら、あいつらを捜しにいかなきゃならないからな」
そう言って、ゼノは意気揚々と歩いていく。こんな場所でも元気な奴だ。アルベルトは少し笑ってから立ち上がると、ゼノの後に続いた。
あの時、キーネスとティリーは追跡艇に乗っていた。ボートに乗ったアルベルト達が無事だったのだから、救出した子供達も含め彼らもおそらく無事のはずだ。むしろ、心配されているのはこちらの方だろう。今頃、捜しているかもしれない。
しかしリゼはどうだろう。
船上でマストの下敷きになりそうだったところを庇ったまでは良かったが、燃える炎で姿は見えず、無事を確認しに行く前に船が沈没してしまった。追跡艇に戻る暇はなかったし、十中八九荒れる海に落ちただろう。彼女も運よくボートを見付けられたとは思えないし、例えそうだとしても、無事岸まで辿りつけたかどうか。シリルや悪魔教徒の件がなければ、今すぐ捜しに行きたいのに。けれど、今はそういう訳にはいかない。仕方のないことだが、それをもどかしく思ってしまう。
だが、もっともどかしく思っているのはゼノの方だろう。シリルを助けにきたはずだったのに見つけたのは替え玉で、船の沈没に巻き込まれて海を彷徨い、ようやく辿り着いた場所にシリルいると分かったのに教会に捕まってしまった。シリルの護衛役で実の兄妹のように仲がいいのに、なかなか助けに行けない彼の心境は如何ばかりだろう。それを思うと、勝手なことは言っていられない。
(それにシリルと違って、リゼは俺の助けなんてなくても、一人でなんとかできるだろうからな……)
ゼノの背を見ながら、アルベルトはそう考えた。そう、きっと心配する必要はない。少なくとも、リゼは心配なんてしなくていいと言うだろう。今は落ち着いて、シリル救出と悪魔召喚の阻止のことを考えるのだ。
アルベルトは足を速めて、前を行くゼノを追った。道を知っているのは自分なのだから、ゼノを前に行かせてもしょうがない。アルベルトは暗い洞窟内を足早に進むと、呑気に、けれどどこか急いた様子で歩くゼノに並んだ。
その瞬間、再び冷たくからみつくような気配が漂ってきた。
「――魔物の気配だ」




