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Savior 《セイヴァー》  作者: 紫苑
アルヴィア帝国編
1/177

救世主と魔女 1

 悪魔――それはこの世に訪れし大いなる災い

 人に憑けば苦痛となり 獣に憑けば魔物となりて

 人を死に至らしめる

 人の喘ぎ 人の悲しみ

 それを聞きて天使は語る

“哀れなる人の子よ 悪魔は汝らの罪の証なり

 救いを得たければ神を信ぜよ

 さすれば神の子によって罪は許され

 永遠(とわ)の楽園へと導かれるだろう”

 薄暗い小屋の中。今にも壊れそうなベッドの上に、女性が一人横たわっている。枯れ枝の如く細い身体に既に生気はなく、その顔には死の間際まで続いたであろう苦痛がはっきりと刻まれている。

 ベッドの傍らには二人の生者。その片方、みすぼらしい格好の中年男は、涙を流し声を震わせた。

「おれたちゃ確かに熱心な信者じゃねえよ。礼拝はまともに行かなかったし、ロクに祈ることもしてねえ。でもよぉ、こんな目に遭うのも自業自得だっていうのか? 毎日毎日教会に行ってきちんと祈らなきゃ、救われる価値もねえってのか?」

 男の言葉をもう一人の生者である若者は黙って聞いている。沈黙という答えを受けて、男はさらに問いかける。

「生きるのに必死なのに、祈ることを考えるなんて無理に決まってるじゃねえか。おれたち貧乏人だって、祈りの日くらい働くのをやめてぇよ。でも働かなくちゃ食っていけないんだ。それをなんで神様はわかってくれねえんだよ?」

 若者は答えなかった。答えられなかった。

 確かなのは、教えを守らぬ罪人を教会は救わないという事だけだった。




 神聖都市ラオディキアは丘の上に造られたアルヴィア帝国有数の大都市である。

 千年前、神の子によって建てられたというこの国では、教会が最も強い力を持つ。聖地巡礼のスタート地点であるこの街の中心にも、その威光を示す白亜の教会が鎮座している。外観に負けず劣らず美しい教会の中、とある一室の扉の前に、アルベルト・スターレンは分厚い紙束を手にして立っていた。それも、入ろうとしているのではなく追い出されて。

「また門前払いにされたみたいだな。それも記念すべき百回目」

 声をかけてきたのは同僚のウィルツだ。完全に面白がっている様子の彼に、アルベルトは反論した。

「百一回目だ。それに門前払いされたわけじゃない。一応読んでもらった」

「どれぐらい」

「二、三ページほど」

「……それ読んだって言わないだろ。全くおまえも諦めが悪いな。罪人なんぞ放って置けばいいのに」

「そういう訳にはいかない。ああいう人達を救うことこそ、俺達悪魔祓い師がすべきことだろう」

 しかし返ってきたのは、さぁ? と言う気のない返事だけだ。毎回理由を問うくせにウィルツはいつも適当な返事しか返さない。どんなに筋道を立て熱意を持って話しても、ほとんど聞き流しているのだから。最もそれは彼に限ったことではないのだが。

 いつになったら話を聞き入れてもらえるのだろう。アルベルトは手の中の紙束に目を落とし、深々とため息をついた。




 悪魔は人の悪徳と罪科の証。故に人に取り憑き悪事をなす。その悪魔を祓い、倒すことができるのは、天使の力を得た悪魔祓い師しかいない。

 だからアルベルトは悪魔祓い師になった。そうすれば悪魔に苦しむ多くの人を救えると思ったから。そして実際、悪魔祓い師になってから何度か悪魔に憑かれたラオディキアの人々を癒してきた。

 悪魔祓い師に守られたラオディキアは今日も多くの人が巡礼のためにやってくる。巡礼者で賑わう南門とは逆、人の少ない北門への道を歩きながら、アルベルトは何気なく空を見た。空模様は芳しくない。今夜あたり雨が降りそうだ。

 北門を通ろうとした時、門衛の一人が声をかけてきた。

「アルベルト様。貧民街へ行かれるのですか?」

 悪魔祓い師はその特殊な役割から、司教と同等の扱いを受ける。まだ新米の部類に入るアルベルトも例外ではなく、親子ほどの年齢差がある門衛にすら敬称付きで呼ばれるのだ。

「ええ、何か問題がありましたか?」

 尋ね返すと、門衛はちらっと貧民街のほうを見、人目をはばかるかのように小声で話し始めた。

「どうも貧民街が騒がしいようなのです。何でも救世主が現れたとか言って」

「……救世主?」

「よくいる詐欺師の類だと思いますが、騒ぎ方が尋常じゃなくてですね。昨日、大司教様に報告したんですが……」

 彼はそこで言葉を切り、また貧民街のほうに目を移す。まるで今の自分の発言が貧民街の人に聞こえてないか確かめようとしているようだ。

「わかりました。とりあえず私は様子を見てきます」

「え? そ、そうですね。そのためにいらっしゃったんでしょうから。お気をつけ下さい」

 挙動不審な門衛に見送られて、アルベルトは北門を後にした。

 豊かで清潔なラオディキアにも、貧しく穢れた場所が存在する。それが、北門のすぐ外に広がる貧民街だ。

 貧民街が穢れた場所といわれるのはある理由があった。住民のほとんどが悪魔憑きなのである。祓魔の秘蹟を受けようと、近隣の村や町から大勢の人たちが集まり、小さな集落にとなっているのだ。

 ラオディキアに始めて来た時、アルベルトはこの貧民街の惨状に大きな衝撃を受けた。これだけ大勢の悪魔憑きが目の前にいるのに、教会は何もしていなかったからだ。悪魔に憑かれたラオディキア市民には祓魔の秘蹟を授けているというのに。

 この理不尽を見過ごすことはできなかった。直接貧民街に足を運んで話を聞き、報告書を作って何度も教会上層部に訴えかけた。

 けれど状況は変わっていない。百一回訴えても教会は動いてくれず、今では門前払いされる始末だ。

それでも諦めるわけにはいかなかった。貧困と悪魔に苦しみ、閉塞感に包まれる貧民街を救うためには。

 しかし、今日の貧民街はいつもの閉塞感がなくなっていた。重苦しい雰囲気が消え、住民の表情が明るくなっている。普段なら非友好的な視線を投げかける人も笑顔を浮かべていた。

「アル兄!」

 土道を歩いていると、小屋の陰から少年が飛び出して来た。軽快な足取りで近づき、ぶつかりそうになったところで急停止する。その様子に、アルベルトは目を見張った。

「ショーン。歩けるようになったのか?」

 ショーンも多くの住人達と同じく悪魔に取り憑かれ、ほとんど動けなくなるほど悪化していた。しかし今は、歩くどころか走れるようにまでなっているようだ。

「救世主だよ! 救世主が来たんだ! その人がぼくを治してくれたんだよ。貧民街のみんなも!」

 そう言って、ショーンはにっこりと笑う。飢えのため健康的とは言いがたいが、それでも以前と比べたら遥かに元気そうだ。

「とにかくすごいんだ。アル兄も会う?」

「……ああ、会わせてくれ」

 救世主を名乗り、悪魔に苦しむ民衆から金品を巻き上げる。この手の詐欺の常套句だ。近年増加の一途をたどっていることもあり、今回の『救世主が現れた』というのもその類だと思ったのだが……

(悪魔憑きが減っている……)

 すれ違う人々は全て悪魔に取り憑かれていなかった。ショーンを含め、つい先日まで悪魔憑きだった人達だ。一度取り憑かれたら、祓わない限り回復することはない。ということは件の救世主は悪魔祓いを行っていることになる。

 ラオディキアの悪魔祓い師ではない。他の街の悪魔祓い師というのもありえない。では悪魔祓いをしているのは一体誰なのだ?

 アルベルトが考えている間、ショーンは救世主が如何なる人物か語っていた。その口調は自分のことではないのに少し自慢げだ。

「救世主様はね。すっごくかっこいいんだ。ぼくもみんなもあっという間に治してくれたし、悪魔祓い師みたいにえらそうにしないし。あ、アル兄は別だよ? アル兄はほかの悪魔祓い師とちがってやさしいもん」

 貧民街の人々は教会や悪魔祓い師を信用していない。『神は全て人を分け隔てなく救う』と説いておきながら、一向に助けてくれないのだから当然だろう。何度も来ているアルベルトですら、敵意と不信の目を向けられることが少なくない。ショーンはこの貧民街で友好的に接してくれる数少ない人間の一人だった。

 ショーンに連れられて向かった広場には貧民街中の人が集まっていた。家族で笑いあう者、涙を流し歓喜にふるえる者。そのどこにも悪魔の影はない。喜びと希望に溢れる人々の間をアルベルトは進んでいった。

 人だかりの中心に救世主はいた。

 その姿を見た瞬間、アルベルトは言葉を失った。救世主が女性だったからではない。自分とそう変わらない歳だからでもない。緋色の髪に青い瞳の、見た目は普通の女性。けれどアルベルトの目は、彼女が持つどこか『普通』でないものを捉えていた。

「悪魔祓い師が何しに来たんだ?」

 住民の誰かが声をあげた。途端に人々の視線がアルベルトに集中する。彼女もそちらに目を向け、住民達の中で一人異質な格好をした青年を見た。

「悪魔祓い師、ね。私に何か用かしら?」

 用ならとっくに済んでしまった。詐欺師かどうか確かめるという用は。この人はただの詐欺師ではなく、まして悪魔祓い師でもない。確かめることはあと一つ。

「君はここの人たちに救世主と呼ばれている。けど、本当にここの人達を癒しているのか? もしそうならどうやっている?」

 彼女は答えるべきか考えているようだった。沈黙がその場を支配する。何か言おうとアルベルトが口を開くと、突然、悲鳴と呻き声が上がった。

 呻き声の主は異様な風体をした一人の少女だった。肌はどす黒く、右目と左目が別々の方向を見ている。口からは舌がだらりとたれ、叫ぶたびに釘や石を吐き出した。悪魔に憑かれた少女は、人に有り得ぬ咆哮を上げ暴れまわる。血走った瞳に救世主を映すと、奇怪な声を上げて飛びかかった。咄嗟にアルベルトは彼女を庇い、すさまじい力で暴れまわる少女を押さえ込んだ。

「大丈夫か?」

 問いかけると、彼女は驚いたような顔をした。

「自分の心配をした方がいいと思うけど? でも礼は言っておく。ついでにさっきの質問に答えるわ。……その子をそのまま押さえておいて」

 彼女は暴れる少女の前に膝を付き、右手をかざす。そして詠うように言葉を紡ぎ始めた。

 びく、と少女が震えた。血走った目を見開き、脅えるような表情を見せる。再び暴れだす少女を押さえながら、アルベルトは彼女の言葉を聞いていた。何を言っているのかはわからない。全く知らない言葉だ。けれど、その言葉は神聖であるが故に冷たいものではなく、静かでありながら荒々しく力強いものであることが感じられた。

 そして最後の言葉が発せられた時、少女の身体から黒い塊が弾丸のように飛び出し、空中で雲散霧消した。少女はおとなしくなり、身体からすっと力が抜けた。異様な雰囲気は消え、穏やかな表情になる。血の気が失せた頬に彼女がそっと触れると、枯れかけていた植物が水を得たかのように少女の身体に生気が戻った。

 その時、人だかりから一人の女性が飛び出してきて少女を抱きしめた。安堵の涙を流す母親の腕の中で少女がにっこりと微笑む。わっと歓声が上がり、人々は口々に救世主をたたえた。

 一方、アルベルトは今自分の目の前で行われたことに対して、信じられない思いでいた。

 悪魔祓いの儀式は連祷に始まり、聖典の朗読、神への嘆願を経てようやく悪魔祓いに移る。ゆえに儀式には相当な時間と手間がかかるし、聖水など必要な物も多い。アルベルトが独断で悪魔祓いを行わないのは、彼自身が悪魔祓い師として未熟なためと、儀式は一人ではできないためだ。

 ところが彼女はややこしい儀式も道具もなし。祈りの言葉(と思われるもの)だけで悪魔を祓ってしまった。詐欺でも手品でもなく、本当に。

 次はわたしの娘を! いや俺を! まだ自分や自分の家族が悪魔に取り憑かれている人が口々に嘆願する。その渦中で彼女は当惑しながらも悪魔憑きを癒していく。それはまさしく奇蹟の業だ。

 彼女は本物の救世主なのだろうか。だとすれば、もうすぐ――

「騎士だ!」

 突然、誰かが声をあげた。住民達の声がピタリとやんだところに、規則正しい鎧の音が広場に入ってくる。教会の守護騎士の一団だった。

彼らは統率の取れた動きで住民達を包囲した。不安と緊張が広場を満たし、どよめきがざわざわと広がっていく。

 馬に乗った騎士が進み出てきた。騎士は通り道にいる人々のことなど意に介さず、相手が避けるのが当然という態度で進み、集団の真ん中に立つ者を見下ろした。

「おまえが救世主と呼ばれている女だな?」

 彼女は答えない。ただ冷え切った瞳で騎士を見ているだけだ。その態度が気に食わなかったのか騎士は憎々しげに彼女を睨むと、懐から一枚の書状を取り出して声高に宣言した。

「救世主の名を騙り、悪魔の術を行使することは神を冒涜する行いである。邪法を操る魔女よ。おまえを第一級涜神罪で拘束する」

 騎士の言葉が終わる前に、住民達の沈黙は怒りの声へと変わっていた。自分達の恩人を犯罪者扱いされれば当然だ。彼らは自分達の救世主を守るように囲み、騎士達の行く手を阻む。馬上の騎士はその剣幕に押されて後退を余儀なくされた。

「邪悪な悪魔の手先から市民を守るのが我ら騎士の務め。邪魔する者は全て悪魔の手先とみなすぞ!」

「何が務めだい。教会はいつもあたしらを見捨ててきたくせに!」

教会(あんたら)が救うのは金のある連中ばかりじゃないか!貧乏人(おれたち)だって救われたいんだよ!」

「背徳者どもめ。魔女に味方する者は全て切り捨てよ!」

 あちこちで剣を抜く音が聞こえた。悲鳴が上がり、怒りと混乱がますます酷くなる。人ごみをようやく抜け出したアルベルトは、書状を持った騎士の元へ急いだ。

「騎士長殿、一般人相手に剣を抜くなど正気ですか!」

 声を張り上げて呼びかけると、騎士長は怪訝そうな顔をした。思えば悪魔祓い師の制服を着ていないのだからわからなくて当然だ。アルベルトは悪魔祓い師の証である聖印を取り出して名乗った。

「私はアルベルト・スターレンです。悪魔祓い師として命じます。今すぐ剣を納めてください」

「こ、これは失礼しました。このようなところに悪魔祓い師様がいらっしゃるとは思わず… しかしながら、これは悪魔祓い師長からの命令ですぞ。魔女およびその周りのものが抵抗する場合、実力行使を許可するとも言われました」

「ファーザー・セラフが?」

 詐欺師を魔女として捕らえることはよくあるが、悪魔祓い師長直々ということは、教会も彼女を詐欺師ではなく本物の魔女だと考えているということだ。門衛もそれを知っていたから詐欺師じゃないかと言いつつも怯えていたのだろう。

 だが、そのことと住人達に危害を加えることは別だ。アルベルトはもう一度、剣を納めるよう言おうとした。

 その時、何かが爆発するような大きな音が広場中に轟いた。驚いた騎士達が剣を振る手を止め、住民達も静かになる。静寂の中を今度は彼女の凛とした声が響き渡った。

「狙いは私でしょう。だったらこの人達には手を出すな」

 彼女は射抜くような目で騎士長を見た。その迫力に気圧されたのか、あるいは魔術をかけられることを恐れたのか、騎士長は少し下がって命令した。

「ふ、ふん。ここの奴らを盾に逃げるのかと思ったら、逆に庇うとはな。――この女を捕らえろ!」

 このままでは彼女は捕まってしまう。アルベルトは彼女と騎士の間に割って入ると、騎士長に向かい合った。

「待ってください。私は彼女がここの人々を癒すのを見ました。魔女とは悪魔の力で人々に害をなす者。その定義でいけば、彼女は魔女ではない」

「しかし、これは悪魔祓い師長の命令で」

「ファーザー・セラフには私から伝えます。ですから剣を納めてください」

 騎士長は納得出来ないという顔でアルベルトを見た。他の騎士達も同様だ。そしてもう一人、捕まりそうになっている彼女も、疑念を抱いているようだった。

「あなた、悪魔祓い師でしょう。一体何のつもり?」

「つもりも何も、君だって捕まりたくはないだろう。この場は俺に任せてくれ」

 真剣にそう言うと、とりあえず嘘ではないと分かってくれたらしい。心から、と言うわけではなさそうだったが、彼女は頷いた。

 その途端、光の鎖が彼女を拘束した。動けなくなった彼女の後ろに、一人の男が現れる。後頭部を殴打する低い音がして、彼女はゆっくりとその場に崩れ落ちた。

「魔女の捕縛完了。気をそらせておいてくれて感謝するよ。騎士長のおっさん、運ぶのよろしく」

 猫でも捕まえたような口調でウィルツは言った。そうだ。魔女を捕まえるのに悪魔祓い師一人寄越さないはずがない。悪魔祓い師ウィルツ・タイラーはアルベルトの姿を見ると、血の付いた杖を得意げに振った。

「やあ、アルベルト。おまえ今日非番だろ? 休みの日にいつも何してるのかと思ったら、こんなところに来てたんだな」

「ウィルツ! 俺が話していたことを聞いていなかったのか?」

「聞いてたけど任務の方が重要だろ。ファーザーの命令だし、この女の力はどう見たって悪魔祓い師のものじゃない。神に由来しない力を使う奴は魔女に決まってる」

「しかし、彼女は!」

「はいはいそこまでにしろよ優等生。俺は命令通り、悪魔の手先を捕まえただけだ。苦情はファーザーに言ってくれ。最も」

 さして気に留めることでもないと言うように、ウィルツは淡々と言った。

「一度魔女だと疑われたら、その判定が覆ることはない。遅かれ早かれあの女は火刑になるだろうな」




 目を開けるとそこは薄暗い部屋の中だった。

 正面にはさびた鉄格子がある。だから正確には部屋ではなく牢獄なのだ。人々を惑わす魔女にふさわしい待遇といったところだろう。

 身体を起こすと後頭部に痛みが走った。触ると指先に生温かい液体が付着する。どうやら血が出るほど強く殴られたようだ。騎士だの悪魔祓い師だの、色々と気にとられていたのは確かだが、こんなにあっさり捕まってしまったのは不覚だった。

 さて、どうやって逃げようか。

 両手は鎖で繋がれているし、牢全体には逃亡を防ぐための結界が施されている。まあそれはいいとして、牢屋を出たところでここは教会。騎士や悪魔祓い師が邪魔してきたら面倒だ。

 考えを巡らせていると、ガチャガチャという耳障りな音が近づいてきた。それに人の話し声もする。

「なあ、魔女に近づくなんてやめた方がいいんじゃないか?」

「なんだよ。魔術をかけられるのが怖いってか? 心配ねえよ。相手は牢屋の中だぞ」

 左手から二人の騎士が姿を現した。

「ふうん。見た目は普通の女だな」

「そ、そうかあ?」

 鉄格子の向こうから一人はおずおずと、もう一人は見世物でも見ているかのようにこちらを観察している。やがて後者は見ているのに飽きたのか、鍵束を取り出して錠前に差し込んだ。

「ちょ、おい。何してるんだ。危ないぞ!」

「平気平気。この牢屋の中じゃ魔術は使えないんだぜ? それに、魔女は身体のどこかに悪魔がつけた印があるって話じゃないか。どんなのか確かめてやるよ」

 相棒の制止も聞かず、騎士は牢屋の中に入ってくる。自分は安全だと信じきっているようだ。残念ながらそうではないのに。

 少し意識を集中させると、手枷が壊れる音がした。騎士はそれに気づきもせず、嫌らしいニヤニヤ笑いを浮かべて近づいてくる。騎士が目の前に来た瞬間、その顔に手加減なしの右ストレートをお見舞いした。

「うぎゃっ!」

 情けない声をあげて騎士が吹っ飛ぶ。思った以上に弱い。

「お、おまえ、どうやって手枷を外したんだ!? うげっ」

 腹を一発蹴り込むと騎士は大人しくなった。

「悪いけどここの魔術封じの結界、脆すぎるわ。手枷もね」

 振り返り、外した手枷の残骸を放り投げる。相棒とお揃いの情けない声をあげてもう一人の騎士も昏倒した。起きた後騒がれると鬱陶しいので、牢屋に放り込んで鍵を掛けておく。あとはここから出るだけだ。鍵束を空の牢に投げ捨て、外へ続く階段へ向かう。

 もし教会の奴らが邪魔してきたら、その時は目に物見せてやることになるだろう。


*注釈

九時課の鐘が鳴る頃=午後三時

讃課の鐘が鳴る頃=午前三時

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