第五話「でも頼れる子はいる」
色づく西日に、他愛ないお喋りをしながら荷物をまとめるクラスメイトの影が長い。
夏休みの補習期間には朝と夕のホームルームが存在しない。時間が来たならば始まり、全て終われば帰るだけである。
菜々緒は友人たちへの挨拶もそこそこに廊下へと出た。ゆっくりしていては目的の人物が帰ってしまいかねない。
六組の様子を遠くから探ればまだ賑わいでいるようで、ひとまずは安心する。
今回は昼休みのように直接訪ねるわけにいかない。接触すべき相手は八千雲君とやらである。さすがの菜々緒も男子を呼び出せば碌でもない憶測を呼びかねないことは承知していた。
幸い、見間違えようのない長身はすぐに現れた。その上どちらかといえばがっしりしているため、余計に目立つ。
離れていても後を追うのは容易かった。
昇降口を出て、向かうのは方向からすれば駐輪場。さすがに自転車に乗られてしまうと追いかけられない。その前に追いつく必要がある。
だが、速い。一歩が大きいせいか、ゆっくりと歩いているようにしか見えないのに、菜々緒の方は早足程度では間に合わないほどだった。
それでもなんとか、声をかけることに成功した。
「八千雲君だよね?」
それが自分の自転車なのであろう一台に手をかけたところだった彼は、無言で振り向いた。
わずかに訝しげで、それ以外には特に興味もなさそうだ。
しかし菜々緒はその顔に、自分でも知れぬ違和感を覚えた。嫌な感じではないのだが。
その逡巡に数呼吸ばかり時が流れていたのだろう、今度は向こうから声をかけてきた。
「僕に用があるのか?」
「……あ、ごめん。そうなんだ」
少し乱れた息を整え、菜々緒は単刀直入に尋ねた。
「昨日、廊下で樋口さんを見てたのはどうして?」
駆け引きなどという洒落たことはできない。替わりに動揺を見逃さないよう、注意した。同時に、もし襲いかかられるようなことがあれば即座に逃げる心構えをしておく。
しかし少なくとも後者は必要なかったようだ。
「大して意味はないよ。疲れ果ててやって来た樋口さんがすぐに別のクラスに行っていたから目についただけだ」
彼は少し面倒そうにそう答え、問い返してきた。
「むしろどうしてそんなことのためにわざわざ僕を追いかけてきたんだ、君は?」
「え!? えと……」
迂闊にも予想していなかった菜々緒は言いよどんでしまう。
考えてみれば向こうが訝しく思うのは当たり前だ。立場が逆でもそうしただろう。
「いや、ほら、あんなにじっと見てたら、もしかして樋口さんに気があるのかな、とか思うじゃない?」
言い訳としてはそこまで苦しいわけではない。実際には個々人の趣味によるわけだが、女性は恋の話が大好きだというのが一般的な認識だろう。それに沿った答えである。からかうように返すことができたなら、何の問題もなかった。
しかし動揺が声にも顔にも出てしまっては他に何かあると言っているようなものだ。
そして目の前の男子はそれを見逃すほど抜けてはいなかった。むしろ双眸は歳に似合わぬほど怜悧に、菜々緒の奥底まで見透かすようだった。
「生憎、僕にはつい先日、婚約者のようなものができてね。浮気はしない」
「おお、それはおめで、とう?」
「ありがとう」
警戒からのとぼけた台詞に対してずれた祝福、にもかかわらず平然と礼。
まずい、このひと明らかにあたしのこと疑ってる。菜々緒は窮地に立たされていることに気付かざるを得なかった。
もちろん、一切を説明してそれを信じてもらえたなら問題はない。しかし友人にならばらしても大丈夫だろうと楽観できる菜々緒も、初めて話した相手に信じてもらえる気はしなかった。
あるいは元よりそういう知識があったなら信じてはもらえるのだろうが、今度は彼が悪い人であったなら罠に嵌まったようなものだ。
迷っていられる暇などない。時間が経つほどに怪しさは増してしまう。
「……えっと……」
まず得るべきは相手の情報だ。何も分からないから判断が出来ないのである。
「八千雲君は、妖怪とか信じる方……?」
「そもそも君は誰だ」
切り込みが冷淡にいなされる。長身である菜々緒すら大きく見下ろす背丈とも相まって、その圧は尋常なものではなかった。
しかし、だからこそ肚は据わった。
「一組の遠野菜々緒だよ、八千雲君」
「今までの様子からすると知っているかもしれないが、僕は六組の八千雲連也だ」
律儀に自己紹介を返して来るあたり、愛想に欠けているだけで悪い人ではなさそうだと菜々緒には思えた。
だから賭けることにした。
「樋口さん、なんだか、ずそ? 呪いを受けてるっぽくて……」
「そうだな。僕も、らしいとは思う」
果たして返答は同意だった。
そして至極あっさりと続ける。
「だが生憎、僕が得意とするのは武力で叩き潰すことだ。ああいうものは判別できるだけで対処はできない」
「そうなんだ……」
表情、何を思っているのかは相変わらず分からないままだったが、嘘はないと思えた。
つまり、注視していたのは呪いを受けているおそれがあると察したからだということになるのだろうか。
「正直、君に心得があるのなら任せた方がいいんだろう。だが……本当に大丈夫なのか? 君はかなり迂闊に思えて仕方がないんだが」
「ごめん、あたしはほんとに素人同然なんだ。でも頼れる子はいる」
イツカのことを思い出しながら微笑む。
それでも八千雲連也と名乗った同級生の不審げなまなざしは晴れなかったが、やがて小さく息をついた。
「一応、信じてはおこう。しかしどうにも嫌な感覚がある。気を付けておくことだ」
そう言い残すと今度こそ自転車にまたがり、振り返ることなく行ってしまった。
残された菜々緒は最後の言葉を反芻する。
「……嫌な感覚? どういうこと? いや、そうか。呪われたのなら呪った人がいるわけだから、そりゃ危ないよね」
あの後、樋口晶子との連絡先は交換できている。もし何かあれば連絡して来てくれると期待しているのだが。
もちろん、このまま何もないのが一番である。
「嫌な感覚か……」
呟いた。
「やだな、あたしにもあるや」
夕暮れより夕闇へ、夕闇より夜闇へ。
午後九時、普段であれば寝間着に着替えている時間だが、今日は巫女装束でいた。
自らの鼓動を感じる。布団の上で正座して、正面には型の古いスマートフォン。予感は強くなるばかりだ。
背筋を伸ばしてちょこんと横に座っているイツカも、神妙な顔で目を閉じている。
柱時計の音。いつからあるのだろう。物心ついた頃には古かった。それでも狂いなく時を刻み続けている。鼓動とは拍子がばらばらで、先の見えない夜の中、足音だけの何かを追っているかのような心持ちに襲われた。
じっとりと汗が浮く。気付いたイツカが拭ってくれた。
「ななおどの、むりはなさりませぬよう」
幼い面立ちに大人の気遣い。大きな瞳がじっと見つめている。
「ありがとう。でも、勝負どころだと思うし、勘が外れてたらそれはそれでオッケーだし」
そう答えた、まさにその時だった。
スマートフォンから呼び出し音が鳴った。
表示された名は――――
「紗枝ちゃん?」
予感は別の形で当たったのだ。
幸いなのは紗枝の家は近いということだった。
受け入れてもらうべく先に夕実に連絡を入れてから、歩いて十分の距離を菜々緒は息せき切って走った。狐の姿に戻ったイツカも並走している。夜中なので、姿を見られてもぎょっとするくらいで済ませてくれるだろう。
辿り着けば息を整える暇も惜しくインターフォンを鳴らす。通話中の様子は先日よりも更に悪かった。あの気丈な紗枝が、助けてと言ったのだ。
「お邪魔します!」
ドアが開くなり両親への挨拶もそこそこに飛び込む。話は通しておいてくれているはずだ。
「紗枝ちゃん!」
二階の部屋に踏み込むと、ベッドに力なくもたれかかった紗枝が少しだけ笑った。もう声を出す余裕もないのか浅い息を吐くばかりだ。そして、黒みがかった茶色の何かがまとわりついているのがくっきりと識別できた。
「……これは、もとからじゅつとしてせいりつしておるノロイです」
幼子の姿でイツカが呻く。見開いた眼がことの重大さを示していた。
菜々緒が以前見た程度のものであればたまたま呪詛として効力を持ってしまっただけである、とイツカは判断していた。それならば二人がかりで和らげ、二ノ宮医院へ搬送すればいいはずだった。
「これではまともには……」
術として成立している呪詛は真っ向から解体するか逸らすか、あるいは圧倒的な霊力をもってすれば吹き散らすことも可能ではあろうが、菜々緒にもイツカにもそれだけの力はない。
「夕実せんせのとこに連れてくのは変わらないよね。痛っ!?」
紗枝へと伸ばした菜々緒の手が不可視の力に弾かれる。もう一度触れようとしても同じだ。
「なに、これ……」
「なまじジャキをはらう気をもっておるゆえ、はんぱつするのでござりましょう。このばで払えぬいじょう、むりにふれつづけようとすれば、このかたにもふたんが……」
それでは運べない。
菜々緒の肚の奥が冷たくなった。友達に助けを求められているのに、何もできない。
必死に頭を巡らせるものの、元より知識が少ないのでは導き出される案にもまともなものはなかった。
しかし、だ。
「よく分からんが俺たちが運べばいいのか!?」
紗枝の両親が入って来た。二人とも鬼気迫る表情だ。当然だろう。今はイツカの存在も無視して菜々緒に問いかけてくる。
そうだ。助けなければという思考に支配されて単純なことを忘れていた。運ぶのは自分たちである必要などないのだ。
「お願いします。二ノ宮医院まで! ちょっと苦しいかもしれないけど……」
「この子は俺たちの娘だぞ!」
言葉が終わらぬうちに父親が紗枝を抱き上げていた。顔が歪んだのは、やはり苦痛が発生したのだろう。
それでも揺るがない。母親の補助を受けながら階下へと降り、外へ出て車に乗せた。
菜々緒は乗らなかった。反発する一方で紗枝にも負担がかかるというなら至近距離にはいない方がいい。
「連絡は既にしてあります。病院の前で待機してくれているはずです」
「分かった、ありがとう」
そうして発車する。ドアを閉める直前の呼吸が震えていたのが印象的だった。
菜々緒とイツカは頷き合い、駆け出した。
足元がおぼつかなくなりそうな焦燥は消えていない。しかし二ノ宮医師ならばと、縋る心地で夜の向こうへ足を踏み出すのだ。




