鎮西防人恋歌
海岸で、一人の女性がその場に腰を下ろしてじっと海を眺めていた。その身に纏っているのは綺麗な着物などではない。傷だらけの鎧だ。頭には立派な兜をかぶり、右手には大きな槍を持っている。
彼女は防人。異民族と戦うための兵士だ。
今彼女がいるのは鎮静の地。ここは海を渡った大陸から来る侵略者を防ぐための要所の一つだ。ここには全国各地から人員が集められる。当初は男性だけだったものが、戦が長引いたこともあり徐々に女性まで集められるようになった。
この少女――寧々もその一人であった。彼女はかつてここより南方の地にいたものの、招集を受けてここにやってきたのだ。以来数年間ここで防衛を続けている。
だが、防人には任期というものがある。彼女の任期はあとわずか……具体的に言うならば数日ほどで切れる。彼女はそれを心待ちにしていた。
防人になることである程度の食事を与えられ、住居も与えられる。だが、彼女が気がかりだったのは実家に置いてきた家族たちのことだった。
寧々の家は大家族で、両親はそれなりに年老いている。というわけで、一番の年長者だった彼女が選ばれるに至ったのだが、どうしても故郷に残してきた家族のことが頭を離れなかったのだ。
「はぁ……」
彼女は盛大にため息をつき、槍を地面に突き刺す。
と、その時不意に誰かが彼女の方に歩み寄ってきた。
「よ、お疲れ」
ふと横を見れば、同じように鎧に身を包んだ女性が立っていた。日に焼けた彼女は白い歯を光らせながら語りかけてくる。
「どうした? 何か気がかりなことでもあるのか?」
「ええ、まぁ」
寧々はこの女性――尊よりも年下だ。だが、任期は寧々の方が長い。尊は何がなんだかわかっていないようで首を捻っていたが、やがてすっと腰を下ろしてきた。
「相談なら乗るぞ?」
「……私、もうすぐで任期が切れるんです」
「いいことじゃないか。それとも、ここを離れたくないのかい?」
寧々はフルフルと首を振り、うつむきがちに口を開いた。
「そうじゃないんです。ただ、その……私は家族の元に帰るのが少しだけ怖いんですよ」
「どうして?」
「私は数年間家を留守にしていました。ここまでの便りもありません。ですから、家族たちがどうしているのかを確かめるすべがないんです」
鎮静の地まで手紙が運ばれることはまれだ。中々に距離があるところだし、それに飛脚を使おうにも運賃が高すぎる。寧々の家のような貧乏な家系では手紙をしたためることすらできないのだ。
それを何となく理解したのだろう。尊は困ったように頬を掻いた。
寧々はじっと海の向こうを見つめている。当然ながら、異民族の船は見当たらない。そもそも、こんなところまで来ること自体難しいことなのだ。海を渡るとしても距離が長すぎる。その道中で嵐に巻き込まれることもしばしばだ。
寧々はため息交じりに呟いた。
「本当、なんでこんなことしてるんでしょう?」
「聞かれたらことだよ。やめときな」
尊は周囲を見渡しながら告げる。幸いにも周りに人は見当たらなかったが、もし聞かれていれば反逆者として処罰されてもおかしくない。
無論、寧々だってそれはわかっている。だが、言わねば気が済まなかったのだ。
無理やり家族の元から引き離され、女の身でありながら戦場に放り込まれる。当然ながら、戦は過酷だ。命を落とすこともある。襲撃はそう多くはないとはいえ、彼女の同僚もすでに大半がなくなっている。
尊はためらいがちに口を開いた。
「そうだね。確かに疑問に思うかもしれない。私たちは女なのに、戦うのは男だろうってね」
尊はわざとらしく明るく振舞ってみせたが、寧々の顔は晴れなかった。彼女はほぅっとため息を吐きながら水平線の方を見やる。
「もしかして、家族は私のことを忘れているのではないでしょうか?」
「そんなことあるものか。家族は大事なものなんだよ。忘れたりするか」
「どうでしょう。私の家は大家族でしたから、子どもたちの世話ですっかり私のことも忘れているかも」
寧々は落ち込んだ様子を見せていたが、尊はそんな彼女を優しく抱きとめた。初めて受ける感触に戸惑いながら寧々はそっと尊の方を見やる。
尊は力強い眼差しを持って告げた。
「大丈夫さ。私が約束する。家族たちはあんたのことを忘れてないよ。仮に忘れられていたら……そうだね。ウチに来な」
「えっ?」
寧々がそんな声を漏らすと、尊は一層優しく彼女の体を抱きとめた。
「他の奴らが忘れても私は忘れないからさ。もし家庭に居場所がない、と感じたらウチにおいで。一緒に暮らそうじゃないか」
「……告白みたいですね」
「ある種の告白だよ、これは」
尊はニッと口角を吊り上げて笑った。そこにはまるで母のような慈しみが溢れている。その温かさに寧々はそっと身を委ねた。
尊はそんな彼女の頭に嵌められた鎧を外してやり、その下にあった黒髪をそっと撫でてやる。それはとても穏やかな手つきだった。
「大丈夫さ。あって一年程度の私があんたのことを忘れないって言ってんだ。それより長く暮らしてきた家族たちが忘れるものか。絶対に覚えているよ」
「……ありがとうございます。尊さん」
「なぁに、ここじゃ少ない女仲間だ。当然のことさ。っと、そうだ。私の家の場所を教えてやる。ここの駐屯地あるだろう? そこの近くの漁村にあるんだ。だから、いつでもおいで。もっとも、家族たちとの時間を大事にした方がいいだろうけどね」
快活な笑いを浮かべる彼女に寧々はわずかに微笑んでみせた。
年上の女性の包容力、というものだろうか。寧々はじっと身じろぎすることなく彼女に身を委ねていた。尊はそんな彼女の頭を撫でながら歌を口ずさむ。
だが、寧々には馴染みのないものだった。けれど、どこか懐かしい感じがする。遠い地から聞こえてくるような、どこか優しくてはかない旋律。小鳥のさえずりにも負けないほどの美しさだ。
尊が歌っているのを聞いたのはこれが初めてだったが、彼女はかなりいい声をしていた。そんな彼女が奏でる旋律はゆっくりと寧々の強張った心を溶かしてくれる。
「……綺麗な唄」
「そうかい? 私の家族が教えてくれたんだ。だから、そう言ってもらえると嬉しいな」
「そういえば、尊さんのご両親は?」
「……もういないよ。昔死んだ。病でね。だから私がここに呼ばれたってわけさ」
「それは……すみません」
だが、尊はカラカラと陽気に笑う。
「気にすんな。もう過去のことさ。大事なのは今。だろう?」
「そう、ですね。尊さん」
「何だい?」
「よかったら、尊さんこそウチに来ませんか?」
寧々はそっと体を起こし、それから彼女の目をしっかりと見据えて告げる。
「私の家は大家族です。今さら一人二人増えたところで変わりません。もし、尊さんさえよければ……」
「いいのかい?」
返されるのは力強い首肯。尊はそれを受け、一層嬉しそうな笑みを浮かべて寧々の頭を撫でた。
「ありがとう。あんたの家は鎮西から離れているんだよね?」
「はい。そうです」
「なら……道に迷ってしまうかもしれないね」
尊はしばし考え込んだ後で、ポンッと手を打ちあわせた。
「じゃあ、いっそのことここを抜け出してこっそりあんたのところに着いていこうか」
「ええっ!? そ、それはいいんでしょうか?」
「まぁ、普通はダメだろうね」
尊はチラリと後ろを振り返り、誰もいないことを確認してから親指をぐっと立てた。
「でも、ばれなきゃ一緒さ。大体、私の身よりはないんだ。探そうにも手がかりがないさ」
寧々はしばしポカンとしていたが、やがてぷっと吹き出しそれからけらけらと赤子のように笑いだした。
ここに来てから笑ったのはずいぶん久しぶりだ。寧々は目尻に浮かんだ涙を指の腹で拭いながらそんなことを思う。
尊はそんな彼女をじっと見つめていた。だが、突如すっと右手を突き出す。
「まぁ、今のは冗談だとして。いつか会いに行くよ」
「ええ、来てください」
尊はがっしりと握手を交わした後で、またも快活な笑みを浮かべそれから立ち上がった。
「さぁ、それじゃお仕事再開だ……っと言っても何もないけどね?」
その言い草にまたも寧々は笑いを漏らしてしまう。最初の憂い顔はどこへやら、彼女は満面の笑みを浮かべていた。