プロローグ・・・突然/命令・・・
朝五時。
一人の少年が欠伸をしながら廊下を歩いていた。
少し長めの茶髪は寝癖が目立ち、殺気とか敵意とか、そういう刺々しさを感じさせない気の抜けた容姿。しかも寝起きが理由というわけでもなく、少年の場合それが通常運転なのだ。ちなみに寝癖もいつものこと。
そんな15歳の少年は上半身に黒のジャケット、下半身に黒のカーゴパンツ、両手に黒グローブ、両足に黒シューズと、全身黒ずくめな上にそれぞれの装いは所々改造されている。
『本人』と『服装』の雰囲気が真逆で、しかしマッチしていた。
虫も殺さぬ顔が、服装の所為で返って恐怖心を撫でた。
◆ ◆ ◆
「失礼します」
廊下の奥にある一室。廊下もそうだったが、少年のいる建造物は全体的に広々としていて、金属の壁、床、天井、センサー式自動ドアなどからハイテク感が半端でない。
少年が入った部屋はそのハイテク感に加えて、棚上の飾りや壁上の絵画などで豪勢さも湧き出ている。
その部屋の一番奥には二人の女性がいた。
一人は座って立派な机に肘をついている。
もう一人はその傍らに粛々と佇んでいる。
「待っていたわ」
座る女性が少年に微笑み掛ける。
少年はその机の前まで歩き寄り、欠伸混じりに聞いた。
「こんな朝っぱらから何の用ですか? 月詠総指揮官様」
月詠玖莉亜。
夜空のように透き通っていて不思議な輝きを持つさらさらのロングヘア。全てを見透かしたような瞳。妖艶な唇。それらのパーツが全て揃った容顔は同じ人間かと言いたくなるほどの美貌だ。
少年は本来「莉亜さん」と親しげに呼んでいるが、今は寝起きで少し機嫌が悪いこともあって皮肉を込めて苗字に管理職名と様付けで呼んだ。
「ライラック、お気持ちは分かりますが、もう少し慎んだらどうです?」
玖莉亜の傍らで佇む女性が少年を『ライラック』と呼んで制した。
ショートカットの髪に鋭い眼差し。素材は少年と同じだが見た目はスーツその物の服装。スレンダーな体型からはしっかり者の印象が窺える。
秩序を乱すことは許さなそうな厳しい性格だが、少年に対してはどこか親しみが見える。
少年はその女性に顔を向けて、
「シアン……だって今五時だよ? 昨日『任務』で帰り遅かったのに……」
『シアン』と呼ばれた女性はその凛々しい作りの顔で気まずげに目を逸らしつつ、
「実はこの後も仕事があったりするんですよね……」
「っ……まあそんなことだろうとは思ったけどさ……」
少年の怒った様子のない口調に、なぜかシアンが一層気まずそうに顔を歪ませた。少年は不審に思ったが、まず玖莉亜に向き直って話しを聞くことにした。
「それで、次はどんな任務なんですか?」
玖莉亜は引き出しから何枚かの紙が入ったクリアファイルを取り出し、机上に置いた。
「独立秘匿執行部隊『黄泉』。第三執行隊隊長兼副参謀・コードネーム『ライラック』。貴方には東京の国立東陽学園に潜入してもらいます」
「………せんにゅう? ………って、つまり俺に東陽学園の生徒になれ、と?」
何の前触れもなく伝えられた任務内容に、ライラックは首を傾げながらも理解と確認を示した。
玖莉亜は不満のない笑みで頷き、
「ええ、その通りよ。貴方は年齢的には中学三年生、今年で高校一年生。東陽学園は『士』育成においては名門中の名門だけど、貴方なら問題なく合格できるでしょう」
「やっぱり実力は隠した方が?」
「ええ。貴方の〝質〟は本来〝鎮静系風属性〟だけど、学園では〝具象系風属性〟として過ごしてもらうわ。貴方の『暗器法』があれば余裕でしょう。それ以外は隠す必要はないわ。こちらでリミッターを用意したから、その範囲でなら思う存分力を発揮しなさい。貴方のことは『ライラック』というコードネームと『奇怪な狩人』という異名以外は知られてないし、適任でしょう。あ、ちなみにリミッターじゃ貴方の〝鎮静〟は制限できないから、そこは心得ておいて」
「……東陽学園……そこと『屍』って何か関係あるんですか?」
『屍』という単語を発するライラックの目付きが変わり、その質問に玖莉亜は真剣に答えた。
「今のところは何とも言えないわ。『いる』とも『いない』とも断定できない。少なくとも証拠はないわ。それにこの潜入任務でのメインは『屍』の調査ではないわ」
「と言いますと?」
「この『日本』自体の調査及び監視、よ。最近は『御八家』を始めとして特殊警察組織『赤光』、総理大臣直属SP団『凱壁』なんかの多勢力が動きを見せてるからね。派手な内部抗争が起きる前に阻止する戦力と抑止力が必要なの。私達『黄泉』は『裏』に浸かり過ぎてしまってるから、『表』にも多少の戦力は残しておかないと。いざって時に出遅れたら元も子もないしね」
「………今、抑止力と言いましたけど、『国側』は潜入の件、了承してるんですか?」
「ええ。と言っても、『潜入』していることを知っているのであって、『誰が』かについては、『奇怪な狩人』を筆頭に第三執行隊の隊員が、という事以外は明かしていないわ。まあ私達『黄泉』は危険視されてはいるけど、裏切らないっていう信頼だけはあるから」
玖莉亜の発言の一部に、ライラックが首を傾げる。
「ん? 俺の部下も送り込むんですか?」
「ええ。いくら貴方が頼もしいからって一人じゃ限界もあるしね。あ、でも怪しまれない為に高二や大学三年とか、そういう微妙な学年に当てはまる隊員は除外したから。第三執行隊にはライラックと同い年の子も多いしね。後は何人かの大人に教職に就いてもらうわ。貴方の部下は一部を除いて貴方に敬語なんて使わないから、仮に『表』で会っても変な気遣いは無くて安心でしょ?」
最後の玖莉亜の苦笑と共の告げられた言葉に、ライラックは目線を横にずらして顔を引き攣らせた。
「えっと……やっぱり全員別々ですか?」
玖莉亜はにっこり笑って。
「ええ。貴方以外のみんなはツーマンセルでの潜入よ」
ライラックの心にぐさりと何かが刺さった。
「俺だけ仲間外れっすか」
「貴方の実力を信じての判断と受け取って欲しいわ。潜入隊員のリストはこのファイルに入ってるから、確認の後、そのリストも処分しておいてね」
機密情報は即座に処分。当然だ。
「はあ……そっすか」
「他に質問はあるかしら?」
「えっと………戸籍とか学歴ってどうなってるんでしょう?」
「その点は心配ご無用よ。貴方の仮の名前は柊蕨。家族構成自体に偽りはないわ。両親は他界していて、妹が二人。それらの戸籍情報はこのファイルに入ってるから、後で確認してちょうだい。こっちは戸籍標本とかだから、別に処分しなくていいわよ?」
ライラックは気になった言葉を呟いた。
「柊……蕨……」
苗字も名前も一文字というのは、なんか拘りがあるのだろうか。
「良い名前でしょう? 私が徹夜で考えたのよ」
「暇なんですか」
玖莉亜はふふふと笑い、
「さて、もういいかしら?」
「はい。構いません」
ライラック……もとい柊蕨はクリアファイルを手に取り、中身をぱらぱらと捲り見る。
その過程で、「ん?」と妙な紙切れを発見した。
「あ、言い忘れてたけど」
玖莉亜の声を聞きながら、蕨はその紙切れを取り出す。
「東陽学園の入学試験は今日だから」
取り出した紙切れは、『受験票』と書かれた長方形の紙だった。
「…………………………はい?」
笑顔で固まる蕨。
視界の中心にはニヤニヤと微笑む玖莉亜、視界の端には同情の視線で取り繕った笑顔を浮かべるシアン。
玖莉亜は夜色の髪をさっとかき上げ
「東陽学園の入試は今日って言ったの」
「え」
「集合時間は朝八時だから、後二時間半ね」
「あの……ここから東陽学園まで二時間以上掛かると思うんですけど……」
「そうね、早く持ち物とかの支度しなきゃ」
「こんな土壇場で言っておいて用意してくれてないんですか!?」
「あ、それからこの後すぐにリミッター付けてもらうから、ちゃんと公共の交通機関を利用してね」
「それ本当に二時間以上掛かるんですけど!」
「さっき言った潜入隊員のリストも、ここを出る前に確認して処分しておいてね」
「無理難題にも程がありません!?」
「ちなみに貴方の部下達には三ヵ月以上前からこのことを伝えてたから準備万端でついさっき、『ここ』を出たわよ」
「俺だけ仲間外れ!?」
「いいえ、貴方の部下達には『既に隊長には伝えた』って言ってあったの。だから貴方が部下の隠し事に気付かなくても無理はないわ。部下達に隠しているつもりはなかったんだもの。………貴方にばれないように試行錯誤するのは苦労したわ」
「元凶あなたですか!?」
「ええ」
「少しは悪びれませんか!?」
「ライラック改め蕨くん、覚えておきなさい。人間最初に大きな試練を乗り越えておけば、後が楽になるものなのよ。今私が貴方に息の詰まるような試練を突き付けることで、その後の学園生活が随分と過ごしやすくなるの。失敗するなら今失敗なさい。今ならまだ取り返しがつくから」
「それ俺よりも部下にやるべきじゃありません!?」
ニコニコ笑顔の玖莉亜の傍らからシアンが渋面で。
「申し訳ございません……私も散々注意したのですだけど……」
「シアン! お前それでも副指揮官兼第一執行隊隊長か!?」
「返す言葉もないです……」
玖莉亜が怪し気に笑い、蕨に助言した。
「蕨くん、良いの? そうこうしてる間に残り二時間と二十分よ?」
「こんチキショオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
蕨は回れ右をして、全速力で駆けた。
その目元からはポツリポツリと、涙が数滴零れていた。