◆第六話『途切れた記憶』
真っ暗な背景に世界がぼんやりと映り込んだ。
滲んだ色がくっきりとした線の中にだんだんと収まっていく。
やがてそれは鮮明な景色となった。
車が二台、並んで通れる程度の通り。
両脇には様々な店が並んでいる。
多くの人で賑わい、あちこちから話し声が聞こえてくる。
ここは商店街だ。
憶測ではなく、確信できた。
――俺はこの場所を知っている。
ガレンがそう思ったとき、視界が一人の青年に固定された。
ただ、体は思った通りに動かせない。
自分であって自分でないような感覚だ。
ちょうど家電屋のそばを通るところだった。
店頭に並んだテレビではニュースが流れている。
「先日より世間を騒がせている連続通り魔事件ですが、いまだ犯人は見つかっておりません。現在、警察による大規模な捜索がされていますが――」
「まだ捕まってないんだ。怖いね……」
隣から声が聞こえてくる。
見れば、一人の少女が並んで歩いていた。
歳は十五、六といったところか。
栗色の長髪で縁取られた顔は幼く、体つきも相応に小柄だ。
少女を見ていると、なぜか懐かしい気持ちが押し寄せてくる。
「こっから遠いとこだし、大丈夫だろ」
「だといいんだけど」
少女の顔は不安に満ちている。
なんとかしなければと思う。
「ま、もしものときは俺が守ってやるよ」
「なんかかっこいいこと言ってるけど、あんまり危ないことしないでね。お兄ちゃんが怪我でもしたらお母さんすごい悲しんじゃうし」
「なんだ、ユズキは悲しんでくれないのか?」
「もちろん悲しむよ。だってお財布がなくなっちゃうしね」
にしし、と少女――ユズキは笑った。
「あ、お前。その言い草はないんじゃないか」
「冗談に決まってるじゃん。お兄ちゃんのこと大好きだよー」
「まーた調子のいいこと言いやがって」
「本当だよ。だってお兄ちゃんのおかげでわたしも、お母さんも自由になれたんだもん」
「……ユズキ」
ずきりと心が痛んだ。
連鎖して視界にある映像が割り込んできた。
四十代と見られる男と殴り合っている。
明らかに毛の処理をしておらず、相手は浮浪者とも見える。
だが、どこか他人ではないような、そんな感覚だ。
映像はすぐに途切れた。
なにを意味していたのかはわからない。
ただ、あそこが鬱屈として自由もない世界だったことはわかった。
ふいにどこからか悲鳴が聞こえてきた。
騒然とした通行人が一斉に駆けはじめる。
いったいなにごとだろうか。
「通り魔っ、通り魔っ!!」
ずっこけながら男がそばを通り過ぎていった。
男が走ってきたほうへと視界が向けられる。
少し離れたところに人が倒れていた。
それも三人だ。
見下ろす格好でフードを被った一人の男が立っていた。
彼の両手には包丁が一本ずつ握られている。
その光景から、つい先ほどニュースで耳にした事件が脳裏を過ぎる。
――連続通り魔事件。
「走れ、ユズキ! 早くっ!!」
「う、うんっ」
頷いたユズキが走り出した、その直後。
逃げ惑う通行人とぶつかり彼女は突き飛ばされてしまった。
投げ出されるように大通りの脇へと横たわる。
「ユズキっ!!」
ふいにそばの路地のほうでなにかが煌いた。
かと思うや、何者かが勢いよく飛び出してくる。
先ほどの通り魔と同じく二本の包丁を持った格好だ。
――ひとりじゃなかったのか。
なにより問題なのはその男の進路だった。
ユズキが狙われている。
「逃げろ、ユズキ!」
通り魔が近づいていることに気づいたか。
ユズキが小さな悲鳴を漏らす。
腰が抜けているのか、彼女は動かない。
いますぐに助けなければならない。
だが、どうやって。
相手は包丁を持っているのだ。
包丁の鋭利な刃に目が吸い込まれる。
――素手で勝てるはずがない。
その考えが脳裏を過ぎったとき、足がすくんでしまった。
ほんの一瞬、ためらってしまった。
それでも無理矢理に体を動かしたが、もう遅かった。
一本の包丁がユズキの胸に刺さる。
さらにもう一本の包丁が突き立てられようとする。
「ぁぁああああっ!」
そこからは恐怖など感じなかった。
雄叫びをあげながら通り魔の頭部へと拳を突き込んだ。
鈍い音が鳴ると同時、通り魔が勢いよく飛んでいく。
殴った手がとてつもなく痛かったが、どうでも良かった。
急いでユズキに寄り添い、声をかける。
「ユズキ! しっかりしてくれユズキっ!」
「おにぃ……ちゃ……ん」
「いますぐに兄ちゃんが助けてやるからな。だから――」
どす、と刺突音とともに背中に衝撃を感じた。
体から力が抜け、ユズキに覆いかぶさるように倒れてしまう。
いったいなにが起こったのか。
顔だけを動かして視線を巡らせた先に、その答えが映っていた。
先ほど殴ったほうではない、もうひとりの通り魔がこちらを見下ろしている。
通り魔の手に持たれた包丁が振り下ろされた。
それを避ける間も、力もない。
ただ迫る終わりを受け入れるしかなかった。
◆◆◆◆◆
ガレンは弾かれるようにして身を起こした。
まるで息を止めていたかのように苦しい。
思わず呼吸が荒くなってしまう。
体の中は熱いのに大量にかいた汗のせいで肌寒かった。
自身の右手を叩きつけるようにして頭に当てる。
と、先ほど見ていた映像が蘇りはじめる。
……あれは夢なのか? でも、やけに鮮明だった。
もしかすると過去の記憶なのかもしれない。
いや、そうとしか思えない。
覚える感覚が妙に馴染んでいた。
なにより思考が、感情がこの胸に残っている。
そうか。俺はあいつを……ユズキを守れずに死んだのか。だからこんなにも後悔を――いや、待て。死んだ……?
頭の中を整理したとき、ガレンははっとなった。
そう、自分は死んだはずだ。
夢の中でではない。
クリス・バルバラードの手によって殺されたはずだ。
もしかすると、あの戦いすらも夢だったのではないか。
そんな疑問が恐怖となって押し寄せ、慌てて右手の甲を確認した。
赤色で紋様が描かれている。
どうやら夢ではなかったようだ。
なぜかはわからないが、生きている。
安堵しつつ、今度は辺りに視線を巡らせてみた。
六畳間程度の一室に生活感ある調度品が置かれている。
綺麗に手入れされているようだが、瀟洒な感じはない。
いったいここはどこなんだ?
とりあえず辺りを捜索したほうがいいかもしれない。
そう思って、ベッドから這い出て立ち上がろうとした。
途端、めまいがして思わずふらついてしまう。
「こらこら、いきなり立ち上がらないの」
いつの間にか部屋の入口に若い女性が立っていた。
その瞬間、ガレンは思わず目を奪われてしまう。
彼女は顔立ちがおそろしいほどに整っているだけでなく、豊満な胸やすらりとした四肢も持ち合わせていた。また、それらを飾るように腰まで伸びた髪は頭の右側高めで結われ、まるで湖面で揺らぐ水のごとく艶を放っている。
彼女が身に纏っているのは布地の軽装だ。
へそや太腿があらわになっているが、それほど露出は多くない。
なのに、どこか蠱惑的な雰囲気を感じられた。
「二日間も寝っぱなしだったんだから」
彼女は呆れたように言いながら、そばまできて体を支えてくれる。
その最中、はらりと一房の髪が垂れ、彼女の左眼の泣きぼくろがあらわになった。
ガレンはベッドに座りなおすと、あらためて目の前の女性のことを見つめる。
「……あんたは?」
「あ、そっか。あなたはあたしのこと知らないものね」
彼女は自らの胸元に手を当てると、その瑞々しい唇を滑らかに動かした。
「あたしはヴィオラ。ヴィオラ・エシュモニーク。あなたの監視役よ」