◆第四話『逃亡:前編』
ガレンはラトカを担ぎながらひた走り、《竜の頂》の麓まで辿りついた。
辺りに広がるのは鬱蒼とした森林。
幹が太く、皮が痛んでいる樹が多い。
長い年月を生きてきたことが見て取れる。
ちなみに葉の色はどれも緑だ。
崖上から見ることができた紫色のものは見当たらない。
「少し休憩するか」
「だったら下ろしてください。もう逃げませんから」
「本当か? また子どもみたいに暴れられても困るぜ」
「こ、子どもみたいって……! わたし、これでも十六歳ですっ! もう立派な大人なんですっ!」
ラトカがジタバタと暴れはじめる。
「ほら、また」
「うっ! こ、これはガレンさんが悪いんです。わたしのことを子どもなんて言うから」
「わかったわかった。俺が悪かったからそう怒るなって」
ガレンはラトカをひょいと持ち上げ、そっと地面に下ろした。
担いでいるときも感じていたが、やはり軽い。
彼女が小柄であるなによりの証拠だ。
ラトカが軽く頬を膨らませながら視線をそらした。
どうやら子ども扱いされたことに拗ねているようだ。
そういうところが子どもなんだと指摘したかったが、ぐっと堪えた。
指摘すれば、さらに拗ねるに違いない。
「やっぱり逢ったばかりの人の命を救おうだなんて意味がわかりません。あんな死にかけてまで。はっきり言って頭おかしいと思います」
「俺もそんな気はしてる。でも間違っちゃいないとも思ってる」
ガレンはあっけらかんと答えた。
ラトカと目が合うが、ばつが悪そうにそらされてしまう。
と、なにかに気づいたかのように彼女のまぶたがぴくりと跳ねる。
なにやら痛ましげな表情を浮かべている。
ラトカの視線を追ってみると、ガレンの右手首があった。
そこは赤くなっており、わずかに腫れあがっている。
「それ」
「ああ、これか。たぶん石投げたときにできたやつだな」
「少し見せてください」
腫れた箇所にラトカの右手がそっと当てられた。
さらさらとしていて、ほんのりと冷たい。
まさしく女の子らしいといったような手だ。
そこで甲に赤い紋様が描かれていることに気づいた。
ガレンの右手甲にあったものとは違う図柄だ。
ふいにラトカの手がほのかな光に包まれた。
五秒ほどの静かなときが流れ、ラトカの手が離される。
あらわになった手首の外見は怪我をする前に戻っていた。
手首を軽く曲げてみても痛みはまったく感じない。
「……腫れがおさまった? それに痛みもない」
「治癒の魔法です」
「それも魔甲印ってやつの力なのか?」
「はい。病気を治すことはできませんが、簡単な怪我であれば」
怪我を治せるだけでも大した力だ。
ガレンは自身の右手甲に描かれた紋様を見つめる。
「なあ、魔甲印っていったいなんなんだ?」
「……すごく漠然とした質問ですね」
「悪いが本当になにもわからなくてな。いや、これがあれば魔法みたいなもんを使えるってことぐらいはなんとなくわかるんだが」
「魔法みたいなものではなく魔法です。そしてガレンさんの仰った通り、魔甲印は魔法を使うために描かれたものです」
ラトカは話を続ける。
「もともと魔法は魔法陣を用いて発動までの処理を行なっていたそうですが、使用するたびに魔法陣を描いていては効率が悪いとのことから魔甲印が作られたと言われています」
「発動までを簡略化したってわけか」
「その解釈で問題ありません。ちなみに魔甲印は原則として一つしか描くことはできません。これは魔甲印による制御が体内にまで及んでいるからで――」
「なあ。俺の魔甲印、二つあるぞ」
「……え、嘘ですよね?」
「いや、ほんとだ。さっき走ってるときに気づいたんだけどな。ほら」
ガレンは左手の甲を掲げるようにして見せた。
ラトカの長い睫毛が跳ね上がる。
「あ、ありえないです。どういうことなんですか?」
「俺に訊かれてもな。でも、まだどんな魔法が使えるかわからないんだよな」
「普通は魔甲印を描く際に把握しているものですから」
つまり使える魔法を知る術はないということだろうか。
どうやら右手に描かれた魔甲印の魔法を知れたのは運が良かったようだ。
「大体、石を大きくする魔甲印ってだけでも珍しいのに本当にどうなって……」
「意外と石以外も大きくできたりしてな。この枝とか」
冗談交じりに落ちていた小枝を手に取り、大きくなれと望んでみる。
と、指ほどしかなかった太さが腕ほどにまでなり、長さも相応に伸びた。
ガレンは思わず目を見開いてしまう。
「って、できちまったな」
「……うそ」
唖然とするラトカを置いて、ガレンは試しに自分の体よりも大きな岩や、そこら中に生えている大樹に右手を当ててみた。
が、いくら大きくなれと望んでも反応はない。
あらためて辺りに落ちている小石や小枝、葉で試してみると、巨大化は成功した。
「まだよくはわからないが、大きすぎるのは無理っぽいな。少なくとも俺の手で握れるものならいけそうだ」
それだけでも汎用性は高い。
ただ、単純に向かい合っての戦闘となると力不足感は否めなかった。
先ほど《竜の頂》で対峙した、あの青年のような相手ならなおさらだ。
「そういや、あの指揮官ぽい奴のことよく知ってたみたいだが、知り合いなのか?」
余所余所しい応対をしていたが、単に知り合いという雰囲気には思えなかった。
軽い気持ちで訊いたのだが、ラトカの反応は予想外のものだった。
目を泳がしたのちに俯いてしまう。
気まずい。
「あ~、答えたくなけりゃ――」
「あの方は……クリス・バルバラードはわたしの兄です」
◆◆◆◆◆
「兄……?」
ガレンが驚愕しながらそう聞き返すと、ラトカがこくりと頷いた。
「あの方は《聖騎士》の称号を持つオゥバルでもっとも強い騎士です」
「いや、知りたいのはそれじゃない。なんで兄貴までお前を生贄にしようとしてんだよ? おかしいだろ」
「だから何度も言ってるじゃないですか。わたしが死なないと多くの命が失われると」
家族すらも生贄に同意しているというのか。
たとえ多くの命を救うためだとしても、そんなことがあっていいのか。
ガレンの中で怒りが轟々と噴きあがりはじめる。
……が、それはすぐに沈下した。
ラトカの瞳が虚ろだったのだ。
遠くも、近くも見ていない。
小柄な彼女だが、見える以上に小さく感じた。
やはり彼女はこの問題について諦観しか抱いていない。
たとえ兄から見捨てられていたとしても。
この世界に彼女の味方はいない。
本当に一人なのだ。
ガレンは深く吸い込んだ息を静かに吐き出した。
「ラトカの兄貴が今日を逃せば次は七日後って言ってたが、儀式ってのはいつでもできるわけじゃないのか?」
「火、水、土、風、光、闇と日が流れたのちに訪れる、《満ち満ちる刻》。意味通り世界がもっとも生気に満ち溢れるときなので儀式もそちらに合わせることになっています」
「じゃあ、一日逃げ切れば助かるわけか」
「仮に今日を逃げ切ったとしてもきっとすぐに捕まってしまいます。それに、わたしが助かるということは……」
多くの命が失われることを意味する、か。
ラトカの言葉をガレンは心の中で継いだ。
「そうだな、けど数日は安全だろ。その間に次のことを考えればいい」
「そんな行き当たりばったりで――」
ふと遠くのほうから草の揺れる音が聞こえた。
ガレンはラトカを抱き寄せ、近くの樹の幹に背中を預けた。
「い、いきなりなにを」
「ちょっと静かにしててくれ。誰か来た」
耳を凝らしてみる。
やはり草の揺れる音が聞こえてきた。
幾つかの足音も紛れている。
いまも身を預けている幹はすっぽりと体が隠れるほどに太い。
だが、一方向からしか視線を防げない。
不自然にならない程度に小石を巨大化させ、陰を増やした。
ついに足音が近づいてくる。
できる限り呼吸音をたてないよう注意し、また体も硬直させた。
やけに心臓の鼓動音がうるさかった。
まるで胸をとんとんと小突かれているようだ。
こんなにも自分は緊張しているのだろうか。
そう思ったが、どうやらこの心臓音はラトカのものらしかった。
彼女とは左腕で後ろから抱いた格好で密着している。
ふと彼女の耳が少し赤くなっているのが気になった。
青のピアスを垂らしているから余計に際立っている。
もしかすると息でも止めているのだろうか。
面白い奴だな、と思っているうちに足音は遠ざかっていた。
ガレンは顔だけを出して辺りの様子をうかがう。
遠くのほうに去っていく二人組みの姿を捉えた。
先ほどの《竜の頂》で交戦した者たちと同じ意匠の軽鎧を着ている。
おそらく仲間で間違いないだろう。
「もう追手が来たのか。早いな」
「……あ、あのっ! そろそろ放してもらえますか?」
「ああ、悪い」
ガレンはラトカを解放すると、立ち上がりついでに彼女の体を持ち上げ、丁寧に地面に下ろした。
少しの間ぽかんと口を開けていたラトカが、はっとなって眉尻を吊り上げる。
「ま、また……!」
「いや、軽いからついでにと思ってな」
そう告げると、ラトカから無言の抗議を受けた。
子ども扱いをされるのがよほど嫌いらしい。
気をつけたほうがいいな、と思ったが、また無意識にやってしまいそうだ。
「さて休憩は終わりだ。さっさと出発するぜ」
「出発って、いったいどこへ行くつもりですか? あてはあるのですか?」
「ない。適当に突き進む」
「……本当に無計画なんですね。そんなことで兄から逃げるなんて絶対に無理です」
ラトカが深いため息をついたかと思うや、ある一方を指差した。
「あちらを目指しましょう。国境にもっとも近いルートです」
「そこになにかあるのか?」
「国境を越えればオゥバルの騎士は簡単に手出しできません」
「そういうことか。でもいいのか? そんなこと俺に教えて」
「このままオゥバルの騎士に捕まれば、あなたはきっと殺されてしまいますから」
そう言って、ラトカは歩みだした。
かと思えば足を止めて肩越しに振り返る。
「ついていくのは国境が見えるまでです」
あくまで一緒に逃亡する気はないようだった。
彼女の覚悟を見る限り、考えを改めさせるのは難しいだろう。
だからといって諦めるつもりはないが、いまは現状から抜け出すことが第一だ。
……ま、いまはそれでいいか。
そう思いながら、ガレンはラトカのあとを追った。