◆一章最終話『旅立ちの船』
懐かしいと思った。
ひんやりとした朝の空気が喉を通り、すぅっと溶けるように腹の中で消えていく。
味はないはずなのに美味いと感じる。
それほどに澄んでいるからか。
あるいは今も目に映る人々が笑顔を浮かべているからか。
ガレンは水峰都市オゥバルのミル・ドレ通りを歩いていた。
市場があるため、ほかの層よりもとから賑やかではあったが、以前とは明らかに違う。
張りのある声で客を呼び込む商人。
世間話に花を咲かせる者たち。
はしゃぐ子どもたち。
そんな彼らの心情を表すように陽気な音楽を演奏する者までいた。
見ているだけで自然と朗らかな気分になってしまう。
いつまでもこの空気に浸っていたい。
そんなことを思ったとき、右耳のすぐ近くから喧しい声が聞こえてきた。
「どけ、まんまる精霊め! そこはボクの指定席だ!」
「みぃーっ、みぃーっ!」
右肩に乗った精霊を退かそうとテュールが奮闘していた。
本日の水峰都市オゥバルには多くの精霊が姿を見せていた。
どこかに目を向ければ視界に一匹は入るのではないかというぐらいだ。
「そんなとこで喧嘩すんなって。耳が痛くてしゃーない」
「これは喧嘩ではない。領地を争う戦争だ!」
「物騒だなおい……仲良く一緒に使えばいいだろ」
「こいつがふっくらしてるせいでボクの場所がないのだ!」
こちらの忠告も虚しくなおも争いを続けている。
しかたないな、とガレンはため息をついて両者を掴んで胸の前に持ってきた。
「離せ! 離すのだー!」
「みぃっ、みぃーっ!」
「こうすりゃいいだろ」
精霊の上にテュールをぽんと座らせ、その状態のまま肩に戻した。
「ほぅ、これはなかなか。柔らかくてたまらん座り心地だ」
「みぃ~っ!」
どうやら気に入ったようだ。
精霊もテュールに褒められて喜んでいるらしい。
ようやく静かになったところで改めて周囲の様子に目を向けた。
「しっかし、本当に同じ世界だったのかってぐらい変わったな」
「活気も段違い! ボクも思わずルンルンだ!」
「ま、戸惑ってる人も結構いるみたいだけどな」
これまで空はないものとして生きてきたのだ。
いくら天蓋竜に怯えることがなくなったからといって新たに現れた空という存在に戸惑うのも無理はない。
「陽光の加護はこの大地に生きるものすべてに恩恵を与える。じきに慣れて満面の笑みになること間違いなしだ」
「ま、そうなりゃいいんだけどな。……てかテュール、今日はえらく元気だな。空を奪い返したのがそんなに嬉しいのか?」
「当然だ。なにしろ妖精は自然に近い存在だからな。陽光の加護から受ける恩恵は人よりも大きいのだ。この溢れる力、いまなら主をも持ち上げられるかもしれんっ」
「おう、やってみてくれ」
そう煽ってみると、テュールは口を噤んでしまった。
「……すまない、言い過ぎた。だが、精霊ぐらいならば……ふぬぅ――っ!」
「さっきどかすこともできなかったじゃねえか」
テュールが再び精霊を持ち上げ――もといしがみつく中、「ガレンちゃ~ん」とどこからか声をかけられた。
声のほうを見ると、通りの途中にかけられた樹のアーチが目に入った。
「よう、ボロネ! って……」
以前とはまるで違うボロネの様子に思わず目を瞬かせてしまう。
「ツヤッツヤだな」
「陽の光を浴びてから肌の調子が良くて良くて。気づいたらこんなにツルツルツヤツヤになっちゃったのよ。どう、触ってみない?」
「いや、遠慮しとく」
「もうっ、照れちゃって」
とガレンが即断する中、テュールがボロネの木肌を触っていた。
「うぉ~! すべっすべだっ! すりすりすりっ」
「あぁん、テュールちゃんったらくすぐったいじゃない」
テュールはすでに二度ほどミル・ドレ通りを訪れているため、ボロネと面識がある。
自然とともに生きる妖精とあってか、出逢ってすぐに意気投合していた。
ふとボロネが話を切り出してきた。
「それにしても聞いたわよ、ガレンちゃん。なにももらわなかったって?」
空を奪い返したあとのことだ。
オゥバル国王から「好きなものを与える」と言われたのだが、ガレンは余分なものを求めなかった。
「一応、少しだけ生活費はもらったぜ」
「望めば一生遊んで暮らせるお金をもらえたんじゃないの、それこそオゥバルに匹敵する土地だって。あたしならガレンちゃんみたいな良いオトコをもらうところだわ。で、一生そばに立っててもらうの」
「一生って……もう根っこに絡みつかれてそうだな」
「あら、バレた?」
どうやら本気でやる気だったらしい。
……そいつの人生苦痛にもほどがあるな。
そんなことを思いながら、ガレンは空を見上げた。
「欲しいものか……ぱっと思いつかねえし、別にいいかな」
「無欲なのね。ガレンちゃんなら世界征服とか言いそうなのに」
「……俺をなんだと思ってやがる」
「野蛮なオトコ。でもそこが良いの」
ボロネが緩慢な動きでウインクをする。
覚えた怖気を振り払い、ガレンは最近の出来事を思い出した。
自分が正しいと思った行動をとってきたが、中には善行と呼べないことも沢山ある。
それらを鑑みれば礼を受けるに値しないと思ったのだ。
「まあ、ラトカを助けるために結構沢山の人をぶっ倒しちまったしな。殺してないとはいえ、受け取ったら気分悪いだろ」
「損な性格してるのね」
「そうでもねーよ」
ガレンは体を開いてミル・ドレ通りを見回した。
空から燦々と降り注いだ陽光によって人々の姿はきらきらと輝いている。
「人が自由に暮らして、そんでもって笑顔でいるところを見られたら……俺はそれで充分だ」
◆◆◆◆◆
ガレンは機巧工房を訪れていた。
今いるのは以前、テュッポ姉弟に案内してもらった倉庫の奥側に当たる所だ。
幅広の水路が引かれており、そこに百人も乗れるほどの大きな飛空船が停泊している。
船体の基本構造は海の船と同じだ。
違う所は屋根のように甲板を覆う白の布。
それから両側に取りつけられた細長い円筒形の硝子か。
硝子の中には精霊の粉が入っているらしいが、現状では透明で視認できない。
以前とは一味違う飛空船に、ガレンは思わず感嘆の声を漏らしてしまう。
「昨日の今日だってのに、すげえな」
「機巧工房はこのときを待ちに待ってたっぽ!」
「兄貴のおかげでやっと自由に空を飛べるっぽ!」
テュッポ姉弟が揃って嬉しそうに跳びはねる。
「ガレーンっ!」
この声はヴィオラのものだ。
彼女は船上から身を乗り出し、手を振っている。
「姉御が呼んでるっぽ」
「ウチらは準備があるから先に乗ってて欲しいっぽ」
「おう、またあとでな」
テュッポ姉弟と一旦別れたのち、ガレンはそばに置いていた荷袋を背負って飛空船へと乗り込んだ。
中では多くのコロット族がせっせと働いていた。
もちろん、さぼっている者も幾人かはいたが。
「市場、どうだった?」
こちらが船に乗り込むなり、ヴィオラが訊いてきた。
「明るかったぜ。戸惑ってる人らも結構いたけどな。ただ、みんな揃って顔を上げてた」
「今じゃ空を見たことある人なんていないからね」
話しながら、ガレンはヴィオラの隣までやってきた。
外側を向いた彼女とは反対を向くよう、手すりに背を預ける。
「でも良かったのか?」
「うん? なにが?」
「いや、俺についてくるって話だよ」
「色々しがらみはあったんだけどね。でも、なんだかきみを見てると全部どうでもよくなっちゃって」
「どうでも良いって……」
「あたし、意外と適当なのかも」
ちろっと舌を出して彼女は自嘲するように笑う。
よくわからないが、ついてきてくれることには感謝していた。
なにしろこの世界のことはさっぱりだ。
彼女がいれば心強い。
「それよりラトカに別れを言わなくて良かったの?」
「苦手なんだよ、そういうの」
「不器用ね。ほんと女心ってものをわかってない」
「そりゃそうだ。俺は男だからな」
「きみらしい答えだけど、なんだかなぁ」
深いため息をついた彼女が「あら」と声をあげた。
「これは予想外」
なにを見ての発言なのか。
ガレンは振り向いてみると、飛空船の下にカルムに乗った青年の姿が見えた。
立派な軽鎧を身につけ、白銀の髪を揺らすその姿。
間違いない。
クリスだ。
彼はカルムから降りると、積んでいた荷袋を背負って飛空船に乗り込んできた。
「なんでお前がここに……?」
目の前に立ったクリスに問いかけると――。
「ラトカのためか」
そう返してきた。
彼は真剣な顔で話を続ける。
「聞いているんだろう。天蓋竜を崇拝する者たちのことを」
たしかにヴィオラから聞いていた。
そして、その崇拝者たちが力を持っていることも。
「空を開放したお前は、これから奴らに狙われる。だから、ラトカに危険が及ばないようにオゥバルから離れようとしている。違うか?」
「そんなんじゃねえよ」
ガレンは遠くの空へと視線を向ける。
ずっとずっと果てを探して目を凝らすと、途切れているのが確認できた。
そう。
――空は続いていない。
「ただ、俺は自分で始めた戦いのケリを自分でつけにいくだけだ。空を奪われたのはオゥバルだけじゃないみたいだからな」
「ほかの天蓋竜も倒すつもりか」
返答はしなかった。
ただ、それを肯定と取ったのだろう。
クリスが決意に満ちた目を向けてくる。
「わたしも行こう」
「……はぁ?」
「なんだその反応は?」
「いや、なんでお前が来るんだよ」
ガレンは訝るような問いかける。
「わからないのか? わたしが力を貸してやると言っているんだ」
「べつに良いって」
「な、なんだと?」
「案内役もヴィオラで間に合ってるしな」
「貴様、わたしに助けられたことを忘れたとは言わせんぞ……!」
人を射殺せるのではないか。
そう思うほどの目でクリスが睨んできた。
できれば彼にはオゥバルに残り、ラトカを守ってもらいたい。
どうしたもんか、とガレンが苦悶していると、テュールがあっけらかんと言う。
「良いじゃないか、主。的が増えると思えば」
「ま、的だと……聖騎士とまで言われたこのわたしがただの的扱い……」
プライドを大いに傷つけられたクリスが唖然としていた。
ふっと思わず噴出したヴィオラをよそに、ガレンはテュールに細めた目を向ける。
「……テュール、お前の腹って意外と真っ黒なんだな」
「ぬぁ、汚れてるのか!? って、なんだ。どこも汚れてないじゃないか、ほら」
なにもないとばかりに腹の肌を見せつけてくる。
まさか天然とは。
逆にたちが悪い。
「ガレンさ~~~んっ!」
ふいにどこからか名前を呼ばれた。
声のほう――飛空船の下を見れば、荷袋を背負いながら飛空船の乗り込み口に向かって走る少女の姿が映った。
カチューシャをつけた白銀の髪。
両耳で揺れる青に煌く耳飾り。
加えて、あの法衣姿は間違いない。
「……ラトカ?」
「うん、こっちは予想できたかな~」
ヴィオラはあまり驚いていないようだ。
手すりに頬杖をつきながら優しそうな目でラトカを見守っている。
間もなくしてラトカは飛空船に乗り込んできた。
あまり走り慣れてないのだろう。
荷袋を下に置いたのち、上がった息を必死に整えている。
「なぜこんなところに来た。いますぐに帰れ」
そう命じたのはクリスだ。
だが、ラトカは反応するどころか彼に目もくれなかった。
「ラトカ、兄を無視する気か!」
ラトカはクリスの脇を通りすぎると、ガレンの前までやってきた。
かと思うや、その眉尻をきゅっと吊り上げる。
「あのっ、わたし怒ってるんですけど!」
「あ~……悪いな。黙って行こうとして。別れの挨拶とかあんま柄じゃないっつーか」
「そうじゃないです!」
ラトカが両手に握りこぶしを作りながら、ぐいっと顔を寄せてくる。
だが、こちらが目を瞬かせたところを見て我に返ったか。
はっとなった彼女が慌てて距離を取った。
「ガレンさんと一緒に生きたいって言ったの、覚えてますか?」
「ああ、言ってたな」
「だからその……ガレンさんがどこかへ行くなら、わたしもついていきたいんです」
窺うような目を向けながらぼそりと言う。
言葉の弱さに反して、その目には力を感じた。
……迂闊な返答はできないな。
そうガレンが悩んでいると、クリスが再びラトカに詰め寄った。
「待てラトカ! わたしは認めんぞ!」
「わたしを切り捨てたお兄様にとやかく言われる筋合いはありません」
「な、なに……? お前、兄であるわたしになんて口を――」
クリスが面食らっていた。
ガレンも同じ気持ちだった。
まさかラトカがここまで言うとは思いもしなかったのだ。
「お兄様の中でわたしは死んだことになっているのですから問題ないでしょう? ですから、少し黙っていてくださいますか」
先ほどのテュールによる的扱いに続いて、これだ。
クリスが放心しながら天を仰いでいた。
彼もこの青い空を気に入ってくれたようでなによりだ。
「ね、ガレンさん。いいですよね?」
ラトカが覗き込むようにして訊いてくる。
「いいじゃないか、主。また的が――むぐっ」
「お前は黙ってろ」
左手でテュールを鷲づかみ、物理的にも黙らせた。
ガレンはラトカの瞳をじっと覗き込んだ。
一瞬怯んだ彼女だったが、すぐにきりりとした目を返してくる。
「わたし、本気です」
「また天蓋竜とやりあうんだ。どんな危険が待ってるかわからないんだぞ」
「わかってます。それでも一緒にいたいんです。わたしは、わたしを照らしてくれたガレンさんと」
陽光を受けてか。
彼女の真っ直ぐな瞳は光で満ちていた。
出逢った頃は暗い色しかなかったのに、本当に変わったものだ。
ガレンは眩しくて思わず目をそらしてしまう。
その瞬間、自分の負けだと思った。
「わかったよ。好きにすればいい」
「ほんとう……ですか?」
「俺だってどんな旅になるかもわからないんだ。覚悟しとけよ」
そう告げると、ラトカは不安に満ちていた顔をみるみるうちに綻ばせた。そして――。
「はいっ」
とびきりの笑顔を作った。
ただラトカを救いたい。
その一心から始めた戦いだったが、行きつく先はぼやけていた。
だが、今、ようやくわかった。
この彼女の笑顔が行きついた先だったのだ、と。
そんな感慨に浸っていると、クリスの喧しい声が割り込んできた。
「ラトカが良いのなら当然わたしも――」
「ああもう好きにしてくれ」
ラトカがオゥバルを離れるのならクリスを残す必要もない。
若干、いやかなり口うるさそうで面倒ではあるが。
「そ、そうか。……まったく初めからそう言えばいいものを」
憤慨する言葉とは裏腹にクリスはほっとしていた。
その傍らであからさまに嫌がるラトカの顔が見えたが、教えないほうが彼のためだろう。
静観していたヴィオラがガレンの隣に立った。
「ま、無難に落ちついたわね。クリスは予想外だったけど」
「予想外も予想外だ」
静かな旅になるかもしれない。
そんなことを思っていたが、これは自分でもどうなるかわからなくなった。
ふとテュッポ姉弟が飛空船に慌しく乗り込んできた。
「兄貴~~っ! 準備ができたっぽ!」
「おう、いつでもいいぜ!」
「それじゃ行くっぽ!」
アッポが船首付近に取りつけられた操舵輪を掴んだ。
船員のコロット族、またテュールが片手を天に突き上げながら一斉に跳びはねる。
「「出発っぽー!!」」
地上と飛空船を繋いでいた幾つものワイヤーが大きな音をたてて外れた。
飛空船両脇に取りつけられた円筒硝子の中がちろちろと光りはじめる。
無数の燐光が重なり合い、強い光となったとき、飛空船が水路をゆっくりと進んだ。
水飛沫を飛ばしながら、どんどん速度をあげていく。
やがて強い風を感じたのと同時、飛空船がふわりと浮き上がった。
船上に感嘆の声が溢れ返る。
地上から次第に遠ざかり、気づけば水峰都市オゥバルの姿は小さくなっていた。
代わりに広がる大地を視界一杯に収めることができた。
大半の者が眼下の大地に目を向ける中、ラトカだけが甲板の中央で空を見上げていた。ガレンは彼女のそばへと歩み寄る。
「どうしたんだ、ラトカ」
「これからどんなことが待ってるのかなって思って」
「不安なのか?」
「いえ、逆です。どきどき、わくわくしてるんです……っ!」
言葉通りラトカの目は輝いていた。
彼女にとって初めての興奮なのかもしれない。
本当は彼女を連れて行くことにいまだ疑問が残っていた。
だが、こんな目を見せられてはもう疑問を捨てるしかない。
ガレンもまた空を見つめた。
その果てにある彼女との未来を探して――。
「そうか……ま、楽しんで行こうぜ」
「はいっ!」




