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◆第二十話『蒼翔天刃―イズガルオム―』

 見渡す限り障害はない。

 ただただ平坦な世界が広がっていた。


 ガレンは足もとを見やる。

 天地の境界は青味を帯びた硝子のようだった。

 うっすらと透けており、眼下に広がる大地を望むことができる。


 点在する緑、わずかな水。

 ほかの色は大半が紫だ。

 いかに腐蝕領域が多いかがわかる。


 天を仰ぎ見た。

 手を伸ばせば届くのではないか。

 そんな錯覚を抱くほどに灰色の壁は近い。


 ふと影が差した。

 一瞬にして周囲が暗闇へと染まる。

 全身に怖気が走った。


 視界の中、もっとも深い闇からそれは現れた。


 青き鱗で覆われた人智を絶する巨躯。

 すべてを抉り殺さんとする黒々とした爪。

 槍を無数に生やしたかのような刺々しい長い尾。

 そして、それらを余すことなく包み込めるほどの雄々しい二対の大翼。


 それそのものが空であり、一つの世界でもあるような存在感を放っている。


 この空の支配者。

 天蓋竜イズガルオムだ。


 イズガルオムは脇目も振らずに降下し、その身を叩きつけるようにしてガレンの前に下り立った。

 とてつもない衝突音が轟く。

 足場の揺れはない。


 だが、凄まじい突風が押し寄せてきた。

 ガレンはとっさにグラスヴェイルを突き立て、吹き飛ばされるのをなんとか堪える。


 風が止むやいなや、イズガルオムが大口を開け、咆哮をあげた。

 腹まで響くどころではない。

 頭が、手が、足が振動している。


 イズガルオムは咆哮を止めると、その爬虫類のごとき瞳で悠然と見下ろしてきた。

 もしや支配者であることを誇示しているのか。


 ふとガレンは足の感覚が乏しく感じた。

 見下ろすと、かすかに揺れていた。

 まさか竦んでいるのか。


 竜の頂へと至るために伸ばしたときのグラスヴェイルでさえ、敵の爪一本程度の大きさしかない。

 対峙して改めてわかる巨大さ。


 こんな相手にどうやって勝つのか。

 いや、勝てるのか。


 そんな思考が巡り始めたとき、ガレンは思わず笑みをこぼしてしまった。

 ……いまさらびびってんのか、俺は。遅すぎんにもほどがあるだろ。


 いまからでも背を向ければ逃げられるかもしれない。

 だが、その選択肢はない。

 ガレンは自身に言い聞かせるように言葉を吐き出す。


「でもな、もう引けねぇんだよ。助けるって約束したからな」


 ガレンは深く息を吐いて気持ちを入れ替えた。

 震えの止まった足でしかと立つ。

 構えたグラスヴェイルの切っ先を眼前の竜へと向ける。


「よう、イズガルオム。お前が支配するこの空……今日で返させてもらうぜ」



◆◆◆◆◆


 始まりはイズガルオムの再度の咆哮だった。

 連動して翼をはためかせると、突風を残して空へと飛び立つ。

 旋回し、先鋭な歯を剥き出しにしながら猛然と向かってくる。


 オゥバルを呑み込むほどの巨躯だ。

 ただの突撃でも人が放つのとは比較にならない。


 ガレンは全力で右方へと駆け出した。

 その間にも敵との距離は縮まっていく。

 気づけば辺りが暗くなっている。


 視界の端に艶のある黒い先鋭物が映り込んだ。

 イズガルオムの爪だ。

 こちらの肉体を遥かに越える大きさを持っている。

 当たれば穴が空くどころか粉微塵にされてしまう。


 腹の底から恐怖心が噴きあがる。

 突き動かされるように前方へと身体を投げ打った。

 轟音が背後で鳴り響く。


 イズガルオムが纏った風か。

 境界に激突して生まれた衝撃波か。

 巻き起こった突風にガレンは背中を強く叩かれた。


 弾かれるようにして体が宙を舞う。

 髪や服が踊り狂う中、ガレンはグラスヴェイルを振り回す。

 あわせて体勢を整え、なんとか無事に二の足で着地した。


 イズガルオムが再び空へと舞い上がっていく。

 その姿を見ながら、ガレンはぎりりと歯を噛みしめる。

 避けたのにこれかよ。冗談じゃねぇ……!


 左手を見やる。

 刻まれた魔甲印《果ての領域》。

 テュールの話では肉体の限界を引き上げる魔法らしい。


 二つの段階が存在するとも言っていた。

 この決戦が始まる前にすでに使用している。

 残るは一段階。


 難点は肉体に大きな負荷がかかることだ。

 テュールにもできれば使用するなと忠告されている。

 だが、そんなことを言っていられる余裕はない。

 ガレンは左掌を荒々しく胸に叩きつけ、望む。


「越えるぞ、奴をッ!」


 左手に刻まれた魔甲印が赤く煌いた。

 胸の内から生じる強い圧迫。

 血が、骨が、肉が一斉に弾んだ。


 魔力の奔流か。

 肉体から溢れ出た光が風とともに周囲へ飛散する。

 一段階目とは比にならないほどの勢いだ。


 こちらの変化を警戒してか、威嚇するようにイズガルオムが猛った。

 先ほど同様、旋回したのちに一直線に向かってくる。


 ガレンはグラスヴェイルを強く握った。

 ゆらりと構えながら襲いくる敵を見やる。


 体が軽い。

 感覚も鋭敏になっている。

 なにより体の内から溢れる、この生命力。

 自分という存在が次の段階へと昇華したことをひしひしと伝えてくる。


「ぁあああああ――ッ!!」


 ガレンは咆えた。

 剣を後ろへ流すやいなや前へと駆ける。

 たった一歩、踏み出しただけで理解した。

 以前を遥かに越えた自身の力を。


 上空から突撃してきたイズガルオムが境界へと接地する、直前。

 その腹下へと潜り込んだ。

 まるで嵐のような風が押し寄せる中、前方から敵の巨大な後ろ足が迫る。


 二段階の限界を超えた、いまなら――。

 ガレンは右手の魔甲印に巨大化を望む。

 黒味を失ったグラスヴェイルの剣身が長さ、幅を一気に増した。


 大きさは竜の頂を一気に上がったときを遥かに上回る。

 おそらく、いまの自分が扱える限界だ。

 それでも敵の脚の長さほどにしか達していないが、充分だ。


 ガレンはみたび猛り、グラスヴェイルを振り回す。

 その圧倒的な質量に思わず体が振られそうになる。


 腕もみちみちと悲鳴をあげていたが、無理矢理に制御して振り切った。

 敵の左足首へと刃先が激突する。

 響く音はまるで地鳴りのように凄まじい。


 手、腕を伝ってきた振動が全身に満ちる。

 思わず顔を歪めてしまう。


 接触はほんの一瞬。

 敵はグラスヴェイルをもろともせずに猛然と通り過ぎてしまう。


 弾かれた剣に誘われる格好でガレンはよろめいた。

 敵が連れてきた風に叩かれ、思わず地に片膝をつけてしまう。


 イズガルオムはまたも天高くへと舞い上がった。

 こちらを嘲るように旋回しはじめる。


「こっちは限界超えてるってのに冗談じゃねえ。けど……」


 ガレンはたしかに捉えていた。

 敵の左足首についた、かすかな切り傷を。

 攻撃を徹せる。

 つまり。


「倒せるってことだよな……ッ!!」


 そうガレンが意気盛んに口にした、そのとき。

 イズガルオムが耳をつんざくような奇声をあげた。

 傷をつけられたことへの怒りか。


 威圧するように二対の翼を広げた。

 さらに首をしならせ、頭部を背後へ持っていく。

 いったいなにをしようとしているのか。


 そんな疑問が脳裏に過ぎった瞬間、ガレンは無意識に駆け出していた。

 グラスヴェイルの巨大化を解き、ただひたすらに駆けた。


 来る。

 一瞬にして大地をなぎ払った、あの極太の光線が――。


 予感は当たっていた。

 イズガルオムが突き出した口から青白い光の奔流を吐き出した。

 初めは小さな点だったそれが一瞬のうちに視界の大半を占めるほどに巨大化する。


 恐怖を感じる暇なんてない。

 ガレンは射線上から離れるようになおも走り続けていた。

 二段階の限界を超えた肉体をもってしても遅いと感じる。

 それほどにぎりぎりだった。


 光線が背後で着弾した。

 爆発にも似た音とともに閃光が辺りに走る。

 ガレンのそばを通り過ぎてもなお光線は射線上の境界をなぞっていた。

 遥か先に達したところでようやくふっとかき消える。


 幸いにも天地の境界は無事だ。

 大地を焼かれたときのような跡はない。

 だが、こちらの精神は間違いなく抉られた。


 間近で見たからこそ改めてわかる。

 あの光線に当たれば確実に死ぬ。

 いくら限界を超えたところで同じだ。

 それほどの威力を秘めている。


 イズガルオムが低いうなり声をあげた。

 まだやるのか、と言わんばかりだ。


「ほんと心を折りに来てやがるな……」


 思わず乾いた笑みを浮かべてしまう。

 グラスヴェイル。

 両手に一つずつ刻まれた魔甲印。


 それらをもってすればなんとかなるのではないか。

 そんな甘い考えが心のどこかにあった。

 ……こんなんじゃ勝てるわけねえよな。


 ガレンは腹の底から咆え、グラスヴェイルを構えなおした。

 イズガルオムを見据えながら己の心に言い聞かせる。


 すべてを捨てろ。

 そして、もう一度賭けろ。


 ――己のすべてを。



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