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◆第一話『出逢い』

 とても深く、とても静かな暗闇の中。

 なによりも先に抱いたのは後悔だった。


 全身をかきむしりたくなるものではない。

 内からじわじわと自分という存在を破壊するような、そんなものだ。


 ――あのとき、どうして俺はためらってしまったのか。

 ふと、わけのわからない言葉が思考の海に浮かびあがる。


「意志の漂着を確認。人格の復元に移行――」


 どこからか切羽詰った声が聞こえてきた。

 声はどんどん大きくなっていく。

 それにつれて心も満たされるような感覚に見舞われる。


「聞こえるだろうか、少年」


 穏やかな声だった。

 いっさいの敵意を感じない。


 意識がそっと引き上げられていく。

 まぶたをゆっくりと持ち上げる。


 豊かな白髭をたくわえたひとりの老人が目の前に立っていた。

 少し前のめりになった上半身を杖で支えている。


 この爺さんは誰だろう。

 そんな疑問が脳裏を過ぎったときだった。

 地鳴りのような音が辺りに響き、視界が小刻みに揺れた。


「突破されます! お早くっ!」


 音の出所は老人の奥側からだった。

 切れ目のない巨大な木目の壁が見える。


 どこまでも上へと続いていて終わりが見えない。

 周りを囲うようにも巡っている。

 まるで大樹の幹の中にいるようだ。


「異界の者にこのような使命を背負わせてしまい、本当にすまないと思っている。だが、おぬしに託すしか道はないのだ」


 そう告げる老人はひどく苦しげだった。

 老人のことはよく知らない。


 なのに、どうしてだろうか。

 彼の言葉は胸中で渦巻く後悔と結びつき――。

 心に強く訴えかけてきた。


「どうか……どうか我々の空を取り戻してくれ」



◆◆◆◆◆


 浮遊感を覚えた。

 景色が上へと一気に流れていく。


 自分の体が落ちている。

 そう感じたときには、すでに景色の流れは止まっていた。


「いってぇ……」


 尻に衝撃を感じて思わずそうこぼしてしまう。

 実際はほとんど痛みを感じなかった。


 なぜか地面が硬くない。

 むしろ柔らかいと感じるぐらいだ。


「うぅ……痛いのはこっちです」


 真下から苦しげな吐息が聞こえてきた。

 誘われるように視線を下げる。

 人がうつ伏せになって倒れていた。


 なぜそんな格好になっているのか。

 答えは簡単で自分が下敷きにしていたのだ。

 地面だと思っていたものも下敷きにした人の尻だった。


「うお、悪いっ。大丈夫か?」


 すぐに飛び退いた。

 下敷きになっていた人がのそのそと起き上がった。

 こちらに背を向けながら服についた埃を払っている。


 身長はあまり高くない。

 子どもだろうか。


「お尻が少し痛いですけど、大丈夫です」


 その子が振り返る。

 声から察しはついていたが、女性だった。

 小柄な体格に似つかわしく顔立ちはあどけない。


 ただ、清廉な空気を纏っているせいか楚々とした印象が先に立った。

 見るからに上質なゆったりとした法衣。花飾りつきのカチューシャや青に煌く耳飾りによってその身は華やかに彩られている。


「どうしてこんなところにいるのですか?」


 彼女は顔をほんの少し横に傾けた。

 肩にかかるほどの白金の髪がさらりと揺れる。


 言われてから辺りに目を向けた。

 どうやらここは切り立った崖の上のようだ。


 少し進んだところで地面が途切れている。

 その先に見える景色はどれも高さがない。


 彼女の問いに答えるべく意識を頭の中に向けてみる。

 と、息の詰まるような感覚に襲われた。


 暗い。

 光がない。

 映像がまったく浮かんでこない。


「……わからない」

「わからないなんてそんな……いま、この場には簡単に来られないようになっているはずなのに」

「すまない。本当にわからないんだ」


 漁り、かきだすようにしてもなにも引っかからない。

 空虚な世界の中、ただひとり彷徨っているような感覚だ。


「もしかして記憶がないのですか?」

「そうなのかもしれない」

「オゥバルはわかりますか?」

「おぅばる?」

「この地でもっとも大きな都市の名です」

「いや、わからない」

「では、どこから来たのかはわかりますか?」

「俺が来たのは…………ニホン」

「にほん? 聞いたことのないところですね」


 ニホンについて漠然としたイメージは頭の中にある。

 だが、説明できるほどはっきりと形になっていなかった。


「わたしの名はラトカ。ラトカ・クルコシュカです。失礼ですが、あなたのお名前は?」

「名前……獅子牙煉(ししがれん)……だ」


 また自分でも把握していない情報が口から出てきた。

 ただ、間違いではない。

 本能がそう告げている。


「名前は覚えているのですね。シシガレンダさんですか」

「違う。ししが、れん」

「シシ・ガレンさんですね」

「もうそれでいい」

「そんな投げやりでいいのですか? 自分の名前なのに」

「いや、なんでかはわからねえが……ガレンってのがしっくりくるんだ」


 ガレンという名に懐かしさを感じる。

 おそらく以前はそう呼ばれていたに違いない。


「では、ガレンさん。できればあなたをオゥバルまでお送りしたいのですが、わたしはいまから行かなければならないところがあるのです」

「あ、ああ。俺のことは気にしなくていい」


 右も左もわからない状態だ。

 本音を言えば案内して欲しかったが、無理を言うべきではない。


 礼に渡せるものでもあれば交渉できたかもしれないが、あいにくとそのようなものを持ち合わせていなかった。


 ガレンは自分の体を見下ろす。

 革の白ジャケット、黒パンツ。

 こんなものをもらっても嬉しくないだろう。


 そもそもラトカにはなにか大切な用事があるようだった。

 彼女は心底申し訳なさそうに頭を下げる。


「本当にごめんなさい」

「いいっていいって。ま、なんとかなるだろ」

「オゥバルにはあちらに見える二つの山間を目指していけば辿りつけます。どうかお気をつけて」

「ああ、ラトカもな」


 ガレンは精一杯明るく振舞った。

 そうすることでラトカの不安が和らぐと思ったのだ。


 その甲斐あってか、ラトカは笑みを向けてくれた。

 だが、彼女の瞳はかすかに揺らぎ、どこか痛ましげに見えた。


 なにか言葉をかけなければいけない。

 そんな衝動に駆られたが、ラトカがこちらに背を向けたことで収まった。


 またいつか逢えるだろうか。

 逢えたら、そのときはちゃんとした礼をしよう。

 そう心の中で誓いながら、ガレンも彼女に背を向けて歩きだす。


 と、視界が光で満たされた。

 光の出所が背後にあるのは影を見ればすぐにわかった。

 何ごとかと急いで振り返る。


「なんだこれ……?」


 崖先の空に青白い燐光が浮かんでいた。

 一つや二つではなく、数えきれないほど多い。

 それらはゆらゆらと舞いながら緩やかに上空へと昇っていく。


 とても幻想的だ。

 美しいと思った。


 叶うならいつまでも眺めていたい。

 そう思ったが、あるものを目にして正気に戻った。


 祈るように両手を合わせながらラトカが歩きだしていた。

 その先は崖だ。

 足場は途切れている。

 このままでは崖から落ちてしまう。


 ガレンはすぐさま駆け出した。

 彼女との距離がぐんぐん縮まっていく。

 どうやら走るのは得意らしい。

 あっという間に彼女のもとに辿りつけた。


 ラトカの両脇に手を差し込み、持ち上げた。

 彼女の足が自転車をこぐように虚空で踊る。


「え、えっ?」


 ラトカの目がガレンの手を捉える。

 そこでようやく状況を理解したらしい。

 祈りのポーズを止めたラトカが勢いよく肩越しに振り返る。


「な、なにするんですかっ?」

「なにするじゃねえよ! 行くところがあるって、そっち崖だろ! 死ぬ気かよ!?」

「そうです! いまから死ぬところなんです! だから手を放してください! は~な~し~て~!」

「死ぬって聞いて誰が放すかよ」

「ん~~!」


 ラトカが駄々をこねるように暴れはじめる。

 先ほどまでの楚々とした雰囲気が台無しだ。


 ふいに視界の端で空に浮いていた一つの燐光がすっと消えた。

 さらに一つ、また一つとどんどん数を減らしていく。


「き、消えてしまいました……」


 やがてすべての燐光が消えたとき、ラトカは暴れるのを止めた。

 事情はわからないが、あの光がなければ飛び下りる意味はないようだ。


「下ろしてください」


 言われた通りガレンはラトカを解放した。


「なんで死のうなんて思ったんだ?」


 青白い光の正体よりも先に、そのことを問いたださなければならない。

 しばらくの間、ラトカは俯いたまま黙り込んでいた。

 やがて深呼吸をするように息を吐くと、振り向いて顔を上げた。


「わたしが死ななければ、たくさんの人が死んでしまうんです」



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