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翡翠の袖  作者: 蒼井 雨
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黒曜石の用水路

 黒く濃密な液体は重油のような重みをもって僕の体を包み込んだ。冷たさがまとわりつく。目を瞑ったまま僕は必死に手を動かして体を浮かばせる。

 水面に顔をだすと遠くの方の鉄条網の向こう側にキレンとリュウガの顔が浮かびあがっていた。水の中で動く僕を嘲笑う表情をしているリュウガと残念そうなキレン。二人の顔は少しずつ遠ざかり、口は動いているけれど声は届かない。

逃げられた、よかった。僕は安堵してため息をつく。

 流れは緩やかだが水は不透明で底が見えない。黒曜石のような色をした水面に遥か頭上にある水銀燈の光が白く映り揺れていた。

 石を積んで作られた両壁はてかてかと光っていて足をかけたらオイルで滑りそうだ。逃げるために飛び込んだのはよいが抜け出すことが難しいかもしれない。

「泳ぐの、楽しい?」

 かなりの距離を泳いで脚が疲れてきた頃ふいに声がかけられた。用水路を跨ぐ眼鏡橋の上に白い顔が浮かんでいる。

「え、」

「そこで泳いでる人なんて初めて見たから、泳ぐの好きなのかなって」

 欄干の隙間から顔をだしてヒスイは不思議そうに僕を見ていた。

「テラの人たちってみんな泳げないでしょう。わたしもだけれど。冷たくて気持ちよさそうだなって思って」

 見られた。人がいた。しかもヒスイだった。ヒスイににこんな用水路で泳ぐ姿をみられてしまったー僕は呆然とする。ちゃんと話したことさえないのにこんないのに最悪の第一印象じゃないか。

 言葉につまってぱくぱくと口を開け閉めするしかない僕を気にした様子もなくヒスイは楽しそうな表情で話し続ける。

「ジュンヨウ、だよね。同じクラスの。そうしていると水面に月がふたつ浮かんでいるみたい。」

 黒曜石のように深い闇色をした水面には眉月が揺れていた。ヒスイの目は柔らかく細められている。

「わざと泳いでたわけじゃなくて、たまたま落ちちゃったんだ。上がりたいんだけど足場がなくて」

「え、落ちたの?」

 待ってて、と言ってヒスイは顔を引っ込める。きょろきょろと周りを見渡すと今度は橋の根元から体を突き出す。

「そこ、煉瓦が少し出てる。足かけられる?手、届くかな?」

 僕に向かって白い手が伸ばされる。

「やっぱりこの石滑るかもしれない。オイルがこぼれた跡みたいだ。」

「大丈夫、しっかりつかんで」

 手を伸ばそうとして自分の体が黒い液体で汚れていることに気がつく。

「手、汚れちゃうよ」

「いいから」

 握るとヒスイの細い手までが黒く汚れた。緑色をした袖口がまくり上げられて白い二の腕がさらされている。

「じゃあ、せいので…「うわ!」」

 足が滑った。僕は再び黒い水の中へ突き落される。ヒスイの手を握ったまま。

 目を瞑ったまま慌ててヒスイを探す。水中を探るような手に触れ掴んで水面へ顔をだす。

「ご、ごめん…!」 

 水底は見えないが足をつくことはできた。胸元まで黒い水に浸りながらヒスイはまじまじと僕を見つめた。杏任形の孔雀石のような目がぱちぱちとまばたきをする。僕から黒い水面へ目線をゆっくりと渡らせて、ヒスイは俯いた。細い肩が細かく震えている。

「ごめん、寒いよね?僕が足を滑らすから…助けてくれようとしたのに」

「そう、じゃなくて、」

 顔をあげたヒスイはくすくすと笑っていた。堪えきれなくなったように水面が揺れて水位があがることも気にせずに笑う。

「落ちるとは思わなかったの…初めてだよ、用水路で泳ぐ人を見かけたのも、水に落ちたのも。なにこれ可笑しい」

 可笑しくてたまらない、というように笑い続けるヒスイに僕は驚きながらも安堵した。

「ジュンヨウとあまり話したこともなかったのに、一緒に用水路で水に浸ってるなんて」

「服がよごれちゃったね」

 水面の上下で服の色が変色してしまっている。指差された白い胸元を擦りヒスイは言う。

「洗えば落ちるわ。ねぇ、見て」

 ヒスイは水銀燈に照らされて乳白色に浮かび上がった手を黒い水面に沈めた。水面を叩くように揺れる手のまわりを蒼い光の粒の大群が包んでいる。

「夜光蟲だ」

「蟲?捕まえられるかな」

 ヒスイは嬉しそうな顔をして手で器をつくって蒼い粒を掬おうとしている。指の隙間から零れ落ちた水は水面にぶつかり発光を増した。

「なにか入れものもってない?」

「行きがけに闇市で買ってきた壜があるよ」

 コタンから頼まれていた石綿を取りだして空になった壜をわたす。空き瓶は水で満たされると黒水晶のように艶めいた。振ると粒状に蒼白く発光する。

「寒いな。どこか登るところを探さないと」

「少しいったところに排水用の配管があると思う。足をかけたら登れるかも」

「ヒスイは泳げないんだったね?捕まって。急に深くなるかもしれない」

 腕をしっかりと握りながら下流にむけて泳いでいく。眼鏡橋をくぐると高い地面の方から賑やかな人の気配がしてきた。

「其処にあるよ」

「本当だ。金具に足をかければ登れそうだね」

 配管は熱で変形したかのようにところどころ押し潰れていた。足をかけると金属質な高い音が鳴った。


 


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