02 始動
何のもや?どこかで火でも焚いていて煙が入ってきたのかな?と認識するや否や、開いていた窓から強い風が吹き入り、あおられたカーテンで視界がふさがれ、次に見に見た時には靄はなくなっていた。
「ゴキブリでもいた?」
急に一点を見つめて動かなかった僕に雅也が問うてきたのだが、自分が見たものが何だったのか、気のせいだったのか、はっきりしなくて答えられなかった。
「……じゃ、帰る」
「そうですね。これから先生の診察もあることですし、出直します」
再びそう告げると青柳が扉へと向かい、他の人達も何もなかったように普通に扉へと向かいだした。
僕の見間違いだったのかな?
「帰るついでに、看護婦さんに先輩が目覚めたことを伝えておきますね」
歳上の方々に押されオドオドした感じだった真君。でも可愛く微笑む様は、年下でも頼もしく感じられた。
三日目にしてようやく目覚めたのだから、医師の診察があるだろうと彼らは後日改めてお見舞いに来ると言い帰って行った。
入れ替わるように入ってきた医師の診断は、彼らが言ったとおり記憶喪失だった。他に異常は特に見られなかったが念の為に詳しい検査するということで、2,3日入院することになった。
……記憶喪失かぁ。
酷ければ物の名前や道具の使い方まで分らなくなるそうだけど、僕はそれほど重度の障害じゃなく、生活するのに支障はないそうだ。検査が終われば家に帰っていいとのこと。
だけど……
医師の診察が終わって1時間後に、外国に出張していた父親が緑川さんに連れられて、さっき入ってきたんだけど、当然のことに僕はその男性が誰だか分らなかった。
あらかじめ記憶喪失だと伝えられていたにも関わらず、動揺しまくっていた彼は「父さんだよ。分らないかい?」と優しく頭をなで抱きしめられ、咄嗟に「分るよ」と言いたくなるほど悲しい眼差しに、僕は罪悪感を覚えた。
嘘をつくのはもっと悪いような気がして首を横に振ると、力なく微笑んだ後「記憶がなくても、雫は僕の子供だ!」と切なる声を聞いた。
後ろ髪を引かれながら、彼…父さんは緑川さんに後を頼んで、しぶしぶ仕事に向かうため再び外国へと帰って行ったらしい。
たった数時間、僕の様子を見る為に帰ってきてくれた父さんに感謝と申し訳に気持ちでいっぱいで見送った後は、病室では僕ひとりとなった。
目が覚めた時、賑やかな五人の彼らがいたから意識していなかったけれど、記憶を失うとは、今までのつながりが無になるということで、辛く感じている人がいる……
それを思うと、自分が悪いことをしたかのようだ。
誰もいなくなった暗い病室で眠りに付く直前、焦点を定まらせることなく天井を見上げ、朦朧とした意識の中、勝手に口を開き呟いた。
「…ごめんなさい…誰も傷つかない方法が見つからなかった。こうするしか…」
だから、僕のことは忘れて…お願いだから……
何気なくつぶやいた言葉。
無意識に出た言葉は雫の中に留まることはない。懺悔の言葉も、ザルに水を入れるように流れていく。
◆◇◆
時間をさかのぼること数時間前、雫の病室を退出した彼らが出口へと続く廊下を各々沈黙で歩いていた。
雫がいた病室では明るく話していたのに誰ひとり声を発しない。
それもそのはず、話していたのは雫に対してであって、彼らは互いに目を合わそうともしなかったのだ。
「…くそっ」と言ったのは誰だったのか、誰もが静かな苛立ちを覚えていたために、汚い言葉を発した者に対して非難する人はいない。
「ところで、緑川さんって言ったっけ?何所までついて来るんだ?親戚ならあの子についてやった方がいいんじゃないのか?」
一番後ろで歩いている緑川にその数歩先を歩いていた青柳がきく。
「雫さんも一人で考えることもあるでしょうし、それに―――」
言葉を切った緑川は、全員が自分の言葉い聞き耳を立てている様子に笑みを浮かべ満足げに続けた。
「貴方達を見ておきたかったので」
意味深なセリフに反応したのは、真ん中を歩いていた黄之本だった。
「それはどういう意味だ?」
そこでようやく緑川が最後尾を歩き、他の人達を観察していたことに気づいて、不快感をあらわにして喧嘩腰だ。雫が自分のことさえ忘れてしまっている苛立ちも含んでいるので、刺すような攻撃的な視線になっている。
「さぁ、どういう意味でしょうか」
煉が睨みつける視線を物ともせずに、自分で発した元言に対してとぼける…と言うより、逆に彼らに問いかけているかのようだ。
目がぎらついて、いつ爆発してもおかしくない黄之本だったが、不思議と反論はなかった。
「――で、結果は?」
短い間でも観察されていた緑川に、不の感情すら抱かずに聞き返した青柳。
「そうですね。まだ、なんとも言えませんね」
「そうか」
どんな感想が出るか、多少なりとも気になっていた彼らは拍子抜けする。
では何故、何も分かっていないのにあえて挑発するかのように緑川が言ったのか、そこまで推測できたのは、何人いただろう。
素知らぬふりを続けていた年下が、塾があるからと会釈して立ち去ったのだが、重い雰囲気を打ち消す幕引きとしては中途半端なタイミングであり、無関心を装っていても興味ありますと聞いていた証しだった。
親友を名乗る宮園は、一度、足を止めたものの振り返ることすらしなった。しかし意味深で、おかしな会話は数秒の出来事であり、聞こえていても不自然ではない距離。自分は関係ないと思ったのか、それとも―――
緑川は4人が病院を立ち去るまで、その背中を見続けていた。
◆◇◆
夜の帳が支配する中、街灯の明かりが乏しく人通りが少ない道に、微かに靴音を響かせるものがいた。
立派な男性成人であっても、強盗などの危機感を感じさせられる、ありえないと分かっていても、物陰から人外の者が飛び出してきそうで不気味な道なり。殆どの人は早足で通り過ぎてしまおうと考えるほど、気味悪さがある通りだというのに、足音の主は洗礼された優雅な足取りで歩いていた。
と、その時、アスファルトから黒い影が突然湧き出してきた。丁度、彼の数歩先の一直線上にである。
普通の人間なら、無為意識に避けるか躓くところが彼は、
「雑魚が、私の邪魔をするな」
一蹴し、あろうことか踏みつぶしたのだ。
影は無残に飛び散って、跡形もなく消えうせた。
口元を上げ微笑みを浮かべる男は、抗うことなく消滅してしまった影に対し優越を感じたのではなく、不可解な黒い影のことなど既に頭にはなく、思い描いた人物像に口角を上げたのだった。
「彼らが今生の―――今の姿か。霊力も抑えられないとは未熟な」
あれなら、すぐさま貴方を浚うことも容易い。と、ほくそ笑んでいた。
まして何にも染まらない記憶をなくした真っ白な状態なら、尚更だ。
しかし、もう少し様子を見よう。彼女が今に生まれ変わったことに何かしら意味があるのかもしれない。
なんとも悠長な考え方に、己は随分と気が長くなったものだ、と自嘲する。
何度となく転生を繰り返し、一度は天下を取ったこともある。そんな血気盛んな己が…である。
持てる実力で羨む金を手にしたことも…もちろん狙った女も総じて手中に収めた。人がうらやむような人生を難なく歩むことが出来た運も実力もあるというのに…
あれほど欲しかった権力と地位も、いざ手に入れると、なんとも虚しいものか…
今生は地位も名誉も金もいらない。時間はたっぷりある。彼らがどのような行動に移すのか見物するのも一興。
そして、唯一自分の思い通りにならなかった貴方を手に入れよう。そうすれば汚点が拭い去られ、少しは満たされた人生になるやも知れぬ。
物思いにふけっていた男が、ふと、足を止め空を仰ぐと、雲ひとつない暗闇に三日月が登っていた
欠けようとしているのか、満ちようとしているのか、まるで自分のこれからの心のようだと感じる月を感慨深く仰ぎ見る。
私は何故、満たされないまま何度も転生を繰り返すのか…
神がいるのなら、私に何を求めるのか…
いい加減長い眠りに就きたいものだ。と、干からびた考えとは裏腹に有り余る霊力で、うようよと煩い影を一括し消し去ると、再び深い闇へと歩み始めた。